![]() 9月の朝顔 |
9月15日の「朝日新聞」の朝刊に、同紙が8月22日の朝刊に捏造記事を掲載してしまったことについての経緯が、「検証 虚偽メモ問題」と題して全面4ページを使って報じられていた。「虚偽メモ」というのは、朝日新聞社の長野総局の記者が、今度の総選挙に際して新党が生まれたとき、田中長野県知事に会ってもいないのに、あたかも直接会ってインタビューしたものとして、会見記をでっち上げたメモのことで、そのメモを元に書かれた記事が捏造記事となったというわけ。朝日新聞の読者として、わたしはその記事を読み飛ばしていたが、その後、田中知事から指摘されて、その記事が削除されたという記事を読んで、はじめてそういうこともあるんだと思っただけだった。その後の記事でその記者が「功名心」からやったと出ていたので、朝日は社内の競争が激しいんだとあらためて思ったのだった。しかし、その「功名心から」という説明が、今度の「検証」によると、「自分でも説明できない」に変わっていた。偽メモを作った経緯は、メールで送るように上司から指示されときに、インタビューしたかと聞かれて「はい」と答えてしまった経緯から、10分で作って送ったということだ。これは日常的なルーチンワークで作ったということでしょう。その記者は検証斑のメンバーに「メモを作った理由は、自分でも説明できません」と答え、直後に動機を聞かれたとき、「自分の中でわかりやすいようなストーリーを作りました。自分を説得するのにわかりやすい言葉を探す中で、混乱したまま『功名心』という言葉が浮かんだんです」と言っている。つまり、ここでも彼はその「理由」をでっち上げていたといえるのではいないか。しかし、こっちの方は朝日新聞は問題にしてないように見える。わたしは、記者の「わかりやすいようなストーリーを作りました」と言うところに引っ掛かる。
引っ掛かるのはこの「ストーリーを作りました」という言葉なんですね。日頃新聞記事を書いている人が「分かりやすいようにストーリーを作る」というのでは、疑問が出てきて更に調べるという行動を自分から封じてしまうことになるではないかと思うのです。日頃、ストーリーを語るように、記事を分かりやすく書くように心がけていたのかも知れません。新聞記事はストーリーのように書かれているものが多いように思える。朝日で「カラシニコフ」というソ連製の鉄砲について世界を回ってのいろいろなストーリーが書かれているコラムを愛読しているが、ストーリーとして面白い。最近のテレビを見ていると、ニュースショウはストーリーを作って、つづきものにしてる。総選挙での自民の大勝は小泉首相が仕掛けた「わかりやすいストーリー」に国民が乗せられたというように喧伝されている。民衆は、ストーリーを作れば、いろいろな現実のしがらみは抜きにして、それに乗りやすい社会環境になってきたというわけで、マスメディアはますます作られたストーリーを増幅し、自らもストーリー作りに邁進するのではないかと思えるのです。こういうことを見ていて、勝手に飛躍すると、ストーリーが蔓延している世の中になって、それが個人という神話が生きていた近代を終焉させるのかも知れないと思えてきます。やや当てずっぽうですが、インターネットというコミュニケーションのあり方が、個人の個であるという姿を顕わにして、個人を究極の個に追い詰めつつあって、実は個人なんていうものは実体として存在しない、確かにあるのは身体としての個体にしか過ぎないことを明白にしたと思えるのです。個体だからこそ、ストーリーが必要なのでしょう。で、ところがストーリーには破綻が付き物なんですね。朝日の記者さんのストーリーは破綻して、「自分でも説明できません」ということになった。彼のストーリーは大きく変わったわけです。朝日新聞の大幹部の人達まで巻き込んで、4つの紙面を使った「検証」という大ストーリーになったということなんですね。
ストーリーっていうのは、幅広い意味での「メディア」によって語られるものだと思うのです。現実のメディアにはいろいろな広がりを持っていて、人々の意識を纏めたりするわけですが、その纏め方が一部の人がメディアを持つ場合から変わってきた来たようです。携帯、パソコン、デジカメと、とにかく誰もがそのいずれかのメディアを持つ世の中になったというわけです。つまりみんな自分が主人公になったストーリーを語れるわけでしょう。ストーリーというのはそれ自体閉じているから破綻するです。この破綻というチャンスによって、互いに個体として生きていることを確認できると思います。そこに表現が生まれるのではないでしょうか。朝日新聞は、一人の記者の破綻したストーリーから生まれたあの「検証」という記事で一つの自己表現をしたと思いました。