![]() 山形新幹線峠駅付近の車窓風景 |
今年の8月に「詩の実質」という文章を書いて、書肆山田発行の『るしおる』58号に発表した。その最後のところを、
先日、「読詩困難症」になているとと言ったら、笑われた。ところが、詩を書いた当人が目の前にいると、その詩が詩でないものなる。つまり、当人が目の前にいるから、その言葉が頭の中で渦巻いていた実感の滴になってしたたり落ちたものとして受け止められるんですね。詩を真ん中に置いて語り合うと、必ず言葉の意味あのズレが出てくるものです。そこから始まるんですね。どういても、書いた方は書いたときの気持ちとか意図とか、あるいは隠していた言葉とかを話したくなる。それは、説明じゃない。詩を書くということでどう言葉と格闘したとか、付き合ったとかという話しになる。そこです。言葉の生活、それが人間というものじゃないですか。詩を取り戻すというのは、言葉の生活を共有するっていうことですよ。 5. この文のタイトル「詩の実質」とつけようと思う。頭の中にあってまだ書かれてない詩というものがあり、それが詩の人間の領分なのではないか、ということなんです。それを掴まえるには、詩を挟んで面と向かって対座して多くの言葉を使わなくてはならないと思う。なんか、どきどきさせる行動だと思いませんか。是非とも、やってみて下さい。わたしもやってみようと思います。と書いて終わった。その「詩を挟んで面と向かって対座して多くの言葉を使わなくてはならないと思う」ということを、既に始めている。最初は9月1日に辻和人さんに会って、彼の詩集『息の真似事』について話した。7時半から10時過ぎまで3時間ほど、喫茶店とレストランを渡り歩いて話しをした。わたしとしては、辻和人さんが置かれている孤独ということが、詩の言葉に滲み出ているいるのを、彼が話すときの身振りに感じたりしたのだった。その次は、辻和人さんが、わたしの「詩の実質」について話してくれるというので、10月22日に杉浦加奈子さんと3人で、杉浦さんの詩についてもいろいろと話をした。 そして、11月の5日と6日、一泊2日で山形へ行き、高啓さんと会って、詩集『母を消す日』について話をした。この回は土曜の午後から日曜の午後までおよそ丸一日の付き合いになって、高さんの卒業論文のなどを聞いてととても親しくなった。それから、11月25日に北爪満喜さんと会って、詩集『青い影 緑の光』を巡って話をした。北爪さんの詩集は現代詩の現在のあり方をよく現しているように思えた。これまでに「読詩アクション」で4人の詩人の詩集を読み、会って話をして、現在時点の詩というもの姿が見えてくるような感じがしてきた。これはもっと続けいたいと思う。