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2005年5月23日 70歳の感想。

孫のねむちゃんを抱く麻理
 孫のねむちゃんを抱く麻理

 22日の午前中に野々歩と由梨さんが生後9週の娘のねむちゃんを負ぶって来て、わたしの70歳「古稀」のお祝いにと、花とケーキで祝ってくれた。19日で70歳になったばかりのところだ。健康保険の負担金が3割から2割になった。そして今年度一杯で多摩美は定年になる。否応なしに人生の節目という意識にさせられる。いっそのことこれまでの人生を振り返って2、300行の詩に書いてしまおうかとも思っている。数年前ごろから学生たちと話しているいても、つい自分が若かった頃のことを口にしている。それがどうもわたしには気にくわない。過去じゃなくて、現在と先のことを話したい。じゃあ、現在って何だってことになるが、実はこれが一筋縄ではいかないように感じられる。70歳、わたしの現在の感想を書いてみよう。

 今日22日には「イメージフォーラム・シネマテーク」に行って、「ヤングパースペクティヴ2005」の若い人たちの映像作品を3つのプログラムで8本見た。昨夜は、「stidio SAI」で多摩美をこの春卒業した連中の劇団「小指値」の「My name is I love you」という公演を見に行った。これは毎週土曜日にやっていてわたしは3回見た。そして一昨夜20日の夜は西武新宿線武蔵関まで行って、そこの「ブレヒトの芝居小屋」で「東京演劇アンサンブル」の公演久保栄作「林檎園日記」を見た。これは、衣装を担当した多摩美の同僚の衣装デザイナーの加納豊美さんから招待され、知り合いの長畑豊さんが出演しているので見に行ったのだった。もっとも、4月のシアターXのブレヒト演劇の公演に関係したので、「ブレヒトの芝居小屋」と聞いて是非行ってみたいと思ったからだった。「林檎園日記」の演出はブレヒトについての本を書いている広渡常敏さんだった。こういうわたしの行動に70歳の現在の一端があると思える。

 今日見た映像作品は、「イメージフォーラム・フェスティバル2005」に応募して1次予選を通過した作品の中から選ばれたもので、それなりに纏まって一応は見せる内容だったが、わたしには面白くなかった。若い人たちはそれなりに一生懸命に作っているのは感じられた。しかし、彼らがこの社会に生きている現実を映像という様式で突きつけてくるように感じられる作品はなかった。映像作品を作ること自体が彼らの生きる現実になっているはわかるが、作品の様式に拘るところに力を入れていて、語られている内容に現実性が感じられない。要するに見ていて驚きが感じられない。昨夜の劇団小指値の公演も、舞台の端にいる一人の男が、テクノ世代の売春と純愛に絡まるセリフを全部読み、役者たちはそのセリフに合わせて演技というよりアクションをするのだが、身体が言葉をベースにしてその言葉から解放されて行くところは見物として面白いのだが、贔屓目に見て役者のアクションに驚かさせられるところはあっても、決定的に衝撃は受けないのだ。一方で、広渡常敏さんは「林檎園日記」のプログラムに「二〇〇四年という、ほとんどまっ暗闇の時代に、ぼくらの悲鳴をあげてはいけないのだろうか。暗闇の底でぼくらの切実な夢を、憧れの舞台に掲げてはいけないと、マルクスは時代精神のラッパと、やはり言うのだろうか。」と書いている。その「林檎園日記」は1938年の3月から10月までの北海道の林檎園の出来事として、林檎園が没落していく様を描いていた。確かに、ストーリーとしての没落物語は見届けることはできた。でも、「まっ暗闇」という上演の思い入れの現実感は、わたしの意識の持ち方のせいか、余りなかった。「林檎園日記」と「My name is I love you」を並べるなんて無茶といえば無茶。でも、そういうところに立ち会っているというわけなんですね。

 今日、「ヤングパースペクティヴ2005」のプログラムの合間に、ノートをしながら考えた。
 否応なしに表現は退廃に曝されている。ここで退廃というのは、人間の生存を支える社会の基盤である経済構造とそれに関わる個々人の仕方を現実とした時に、ここから遊離して行く考えや動向ということで、現実を踏まえた切実さがないことを指す。それは、個々に生きることに追い立てられて、表現を記号的要素の統合と見て、それを自由に操る方向に突っ走るところの帰結ではないか。その退廃を広渡さんのような人には「暗闇」と見えるのかも知れない。しかし、ゲームで育った若い人たちに取って、表現がゲーム性に覆われて見えるの仕方ないとして、少しずつ現実に切り込もうとしているようにも見える。年寄りのわたしはどうか。「極私的ラジカリズム」なんてことを言ってしまったわたしとしては、その切り込み方を極私的にどう見つけていくかということになるわけですね。

 というのが、70歳の感想でした。



2005年5月8日 ブレヒトについて、一応の纏め。

母アンナシーン1
 「母アンナ・フィアリングとその子供たち」
シーン1:商売の車を一家で押す。
母アンナシーン1
 「母アンナ・フィアリングとその子供たち」
シーン1:歌うアンナ。
母アンナシーン2
 「母アンナ・フィアリングとその子供たち」
シーン2:司令官と息子とアンナ。
母アンナシーン10
 「母アンナ・フィアリングとその子供たち」
シーン10:死んだカトリンを抱くアンナ。

 この前、「母アンナFとその子供たち」のルティ・カネルさんの演出について述べた。その続きとして、わたしが2月以降にブレヒトの芝居を見たり、またブレヒトの戯曲やその他の本を読んで、それをどう受け止めたかを書いて、一応、ブレヒトについての纏めの文章を仕上げた。これをルティ・カネルさんの演出についての文章と一緒にして、シアターXと多摩美の映像演劇学科との「共同創造・制作提携」に参加した者の報告とすることにした。別に、そういう報告が要求されているわけではないが、まあ、一応映像演劇学科長に提出して、シアターXの劇場プロデューサーの上田美佐子さんに送っておこうと思う。以下は、書き足した分です。

 [3]の書き足し分。
 この劇には10箇所ほど歌が挿入されるが、歌は場面の展開の流れに沿って歌われるというより、独立して歌われていた。アンナの歌は、それぞれの場面でマイクを片手に持つなどして歌われた。第4場の「屈辱の歌」は、マイクばかりでなく、照明を変えて全く独立したシーンのように歌われた。第2場の息子のアイリフが歌うところでは、盛んなアクションで歌って終わるところを、役者が狂言師の三宅右矩さんだったので、「これでおしまい」と狂言のセリフ回しで終わって、観客の喝采を浴びた。音楽と歌の伴奏は、作曲したロネン・シャピラさんがアコーデオンを弾き、それに波田生さんのヴァイオリンと三原田賢一さんのチューバを加えて、劇の最初から終わりまで、舞台の後ろに設けられた場所で生で演奏された。

 [4]
 ところで、わたしが、今回、ブレヒトの芝居の上演に関わることになったのは、たまたま多摩美の映像演劇学科がシアターX(カイ)の「母アンナ・フィアリングとその子供たち」の公演と「共同創造・制作提携」をすることになって、1月の提携の打ち合わせをするところから、それに参加したからだった。これまでわたしは、若い頃、数十年前に多分俳優座の公演だったと思うが、「ガリレイの生涯」を見て以来、一昨年シアターXの「ブレヒト的ブレヒト演劇祭の1年目」で「アウトゥロ・ルイが往く、追え」を見たが、ブレヒトの劇に特に関心を持つことはなかった。つまり、この提携に参加した段階では、ブレヒトの演劇については、特に関心を持つこともなく、全くの無知だった。そこで、参加することになって俄にブレヒトの演劇を勉強する気になった。そして、Webで調べてみると、驚いたことに2005年2月に3つのブレヒト劇が東京で上演されることが分かり、続け様に、俳優座の安井武演出の「三文オペラ」を紀伊国屋サザンシアターで、東京演劇集団風の岩淵達治演出の「第三帝国の恐怖と悲惨」をレパートリーシアター「KAZE」で、まつもと市民芸術館などによる企画の串田和美演出の「コーカサスの白墨の輪」を世田谷パブリックシアターで見ることができた。シアターXのルティ・カネルさん演出の「母アンナ・フィアリングとその子供たち」を加えると3ヶ月の間に4つのブレヒト劇が東京では上演されたわけだ。聞くところでは、今年が「ドイツ年」ということで、ドイツとの交流を深めようという年に当たっていて、何らかの補助がでるということだが、それにしても、ブレヒトは日本の演劇界では人気があるのだと思った。そして、これらの舞台を見ただけでも、日本でのブレヒトの受け止め方にはかなりのバラエティがあって一様ではないように思えた。
 とりわけ、シアターXの劇場プロデューサーの上田美佐子さんは2003年の9月から「2年がかりのブレヒト的ブレヒト演劇祭」というプロジェクトを進めて、様々な試みをシアターXの舞台に実現してきた。彼女は、その意図を
 「2003年9月から乗り出した『2年がかりのブレヒト的ブレヒト演劇祭』の航海は、自らの位置確認をするために当初からブレヒトと魯迅、花田清輝の三っ星を天測しつつヨチヨチと進めてきた。「ブレヒト」を探すことなのではなく、ブレヒトが探したものを探すのが航海の目的。かつて日本の歌舞伎も西欧のオペラも、まさしく現実政治そのものとかかわりあっていた。が今は、どの芸術も現実逃避の役回りの慰安場。ブレヒトが魯迅が花田清輝が現実と対峙し、今に復興したかった芸術家精神(思想)と、それに対応するドラマツルギーの探求ーーを私たちもしてみむとて始まった試み。」
と、「母アンナ・フィアリングとその子供たち」のプログラムの最後のページに書いている。日本でのブレヒトの受け止め方のきわめて明快な一端がここにあるあると思う。

 [5]
 1月にシアターXで、提携の打ち合わせをした折りに、上田さんがブレヒトの詩はいいですよというのを聞いて、長谷川四郎訳の「ブレヒト詩集」と「中国服のブレヒト」をインターネットで購入して読んでみた。実は、家の書棚を探したら、白水社版「ブレヒト戯曲選集」全5巻と2、3冊のブレヒト関係の本が出てきた。でも、読んだ記憶がない。また、これらの本を買った動機も忘れている。多分、「ガリレイの生涯」を見た時に関心を持ったが、その関心も枯れてしまっていたということである。先ず詩集を読んで、セリフを聞いているような気分で大変気持ちがよく、「老子出関の途上に於ける『道徳経』成立の由来」という詩があって、ブレヒトって東洋思想に興味を持っていたのか、という関心が生まれてきた。そして、「中国服のブレヒト」を読むと、ブレヒトに「転換の書 メ・ティ」という著作があって、この「メ・ティ」が「墨子」の偽の書であり、長谷川さんの文章は1970年から1972年の間に、この「メ・ティ」を紹介しながら、日本の当時の思想状況を踏まえて検討しているものだった。その後で、翻訳された「転換の書 メ・ティ」を読んでみると、この本は1934年から1955年頃までの亡命中に書かれたと言うことで、ロシア革命とナチズムの台頭、そして第2次世界大戦と、歴史的展開の最中にあって、ブレヒトの社会主義革命に寄せる考えと、人々の振る舞いについての理想を描こうとしている短い文章を集めたものだった。「中国服のブレヒト」を読んで、「墨子」は「墨守」という言葉の出所となったように、もっぱら非戦を説く思想であることが解ったが、「転換の書 メ・ティ」を読んで、ブレヒトがその中で「大方法」と称した唯物論的弁証法を元に、「大秩序」と称した社会主義的共同体を目指した考えを持っていたことも解った。
 今のところ、わたしはブレヒトの全作品を読んだわけではないが、四つのブレヒトの演劇を見て、また「セチュアンの善人」と「例外と原則」を読んだ印象では、どの作品も民衆に視点を置いて、個人が国家または国家的組織と向き合い、その向き合うところから生じてくる矛盾を描いているところと、また、これまで読んだ「転換の書 メ・ティ」などと合わせて考えると、ブレヒトは民衆を主体にした社会主義的共同体を理想にして、表現活動をそこに向かって行く運動と考え、彼の作品はその実践だったといえるように思えて来た。そう捉えたブレヒトについてはもっと子細に検討する必要があるように思うが、とにかく、作品を作ることが運動の実践という考え方は、わたしの考え方にはない。わたしは表現というものを、時間の中で消えていく自分の存在を獲得することと考えているので、ブレヒトとは異なるものだ。しかし、ブレヒトが民衆に視点を置いているというところや、常に現実に関心を持っているという点では、親近感を持てる。また、わたしが表現によって自己を実現すると考える時の「自己」を、自分の出自からして敢えて言うと民衆的な存在と思っているので、そこからの興味も持てる。特に、「セチュアンの善人」の主人公の「献身的な情念」と「現実的な計算」を使い分けるシェン・テ=シュイ・タには惹かれるところがある。言ってみれば、理想主義と現実主義とを使い分けて、混沌しているように感じられる現実を生きていく術を学べるような気もする。というわけで、最近、一人の作家に付き合うと言うことはないことだったので、もう暫くベルトルト・ブレヒトとは付き合って見たいと思う。





  















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