2005年1月1日から31日まで


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2005年1月30日 連日の多摩美通いも一段落。

昨年咲いたのチューリップの芽
 昨年咲いたのチューリップの芽

 8日に鍵開けで多摩美に行って以来、殆ど連日多摩美の上野毛キャンパスに通っていた。会社勤めなら当たり前のことだが、大学教員は週に3日行けばいいことになっているのだから、わたしは熱心な教員ということになる。学生に精々サービスして、それなりに濃密な関係を持とうとするとそういうことになる。多分、他の大学で研究熱心な人も忙しく毎日通っていることなのでしょう。1月30日の今日は、発表会と講評が終わって一段落しているところです。でも、作品再提出を命じた学生が持ってくるはずなので、今日も出かけることになります。

 多摩美では、今年は2、3年生の「表現」という授業、これを「FT(フィールドトライアル)」といってますが、そのBコースを担当して、50人余りの学生の創作活動を指導した。表現の形態として、映像作品、写真、インスタレーション、小説、詩などがあった。映像作品はDVカメラで撮る者、8ミリフィルムで撮る者、16ミリフィルムを使う者がいた。グループで制作したのは一組で、後は皆、個人制作だったので、作品数が多かった。グループで作業をすることが不得意な人たちなんですね。指導するわたしもグループ作業は得意ではないから、グループになるになるように指導できないのです。映像作品の内容は、線で描くアニメと粘土で立体を作るアニメが結構あった。みな、DVカメラで撮影して、パソコンで編集するという作業。指導の要となるところは、動きを出すのに何フレームで撮影もしくわ編集するのかとうことを、先ずテスト撮りして体得させること、描くしても、人形を動かすにしても場所を決めて、自分の部屋でも、兎に角ミニスタジオを作らせなければ、というところから始めて、ストーリー展開、カット割りを決めさせる、なんてことをやるんですね。ストーリーのある話しを映像にするなら、シナリオを書かせるけど、わたしはその前に出演してくれる人を探せといいます。シナリオを書いたはいいけど出演者を見つけられないのでは映画はできません。ドキュメンタリー的な作品なら、対象となる人との関係の作り方を考えさせる。勿論、ラッシュを見てカメラワークをいろいろと話すこともあります。そして最後にパソコンの編集での注意事項。編集はしたもののテープに出せないという悲劇が起こることがあるのです。テープとパソコンのミスマッチということも時にはあるが、大抵はハードディスクの扱いが問題。写真については、学生が撮ってきた写真のコンタクトを見て、引き伸ばして作品にする方針を話し合う。詩はメールで遣り取りした上で面接して話しをした。小説は、まあ、出来上がってから批評ということになった。

 空想の世界に遊ぼうというところからアニメが生まれ、自分を取り巻く友人や家族との関係を確かめようとするところにドキュメンタリー映像作品が生まれてくる。ストーリーは、好みというか趣味というか、あるいは問題意識によって、関心事の世界を虚構的に作り出そういう一種の野心が働いたところに生まれてくる。空想もストーリーも関係なく、齋藤邦彦君が、様々な薬品を使って16ミリフィルムを現像して、その薬品の作用による模様を画像として定着させたキネカリは特異な作品となった。容貌のコンプレックスに開き直って、おかめの面を被って日本最北端まで行ってしまう住吉奈緒子さんのDV作品も面白かった。清水大輔君と田中友海さんの二人は別々に小説を書いたのだが、発表会では二人で組んで清水君が演出して田中さんが語って落語をやった。教室に高座を作り、客席には畳を敷いて炬燵を置き、客は熱いぜんざいを食べながら聞くという趣向だったが、「頭山」を語る田中さんの語りが上手でみんなを驚かせた。

 一月も終わりですね。二月は、わたしはシアターXでやるブレヒトの演劇の稽古に立ち会えるというのが楽しみ。「灰皿町Blog」をやり始めてから、兎に角今月は一日も欠かさずに書いてきた。日常のことを書き連ねていると、書くということとやっていることとが響き合ってくる感じになる。そこで、日常の細部が結構意味を帯びてくるのが面白い。東京芸術劇場に行ったときの、クロークでのことなど、書かなければ忘れてしまうことだが、書いてみると変なシーンになって生き返ってくるように感じた。長谷川四郎さんの「中国服のブレヒト」という本をいま読んでいるけど、Blogがあるからそこで触れなきゃと思い、行きつ戻りつ頭の中がごちゃごちゃしてきて今までない読書という感じになっている。「灰皿町Blog」と「曲腰徒歩新聞」の関係は、わたしにとっての書くものとしてもう少し意識的に考えてみたい。



2005年1月20日 映像作品「極私的に臨界2003」をWebにアップ。

チューリップと水仙
 チューリップと水仙

 わたしの昨年制作した36分の映像作品「極私的に臨界2003」を灰皿町南波止場1の「Shirouyasu_Haizara Variety House 」にアップした。MPEG-4に圧縮して123.1MBで、清水鱗造さんの自宅サーバ「灰皿町」でなければとても許されない容量だし、光回線かADSL接続でなければ、サッとダウンロードして見ることはできない。またまた、鱗造さんありがとう!です。今年はいよいよ自分の映像作品をWebで公開するということを始められそうです。

 ところで、この480×360ピクセルの大きさの画面で上映時間36分のファイルを123.1MBというサイズにするのに、ちょっと手間取ってしまった。もともとこの作品はDVで撮影して、MacのFinal Cut Proで編集しているので、そこから直接MPEG-4に書き出せばいいのだが、それで書き出したところ、616.8MBという大きさになってしまった。ちょっと大き過ぎるのではないかと思い、QuickTimeムービーに書き出したら、設定を間違えたのかも知れないが、なんと3.16GBという大きさになってしまった。これではとてもアップロードできない。で、これを圧縮ソフトのCleaner6でMPEG-4に変換したら、4時間ぐらい掛かって終わったが、開いて見ることが出来なかった。Final Cut Proに付属しているCompressorならどうかと、その3.16GBのQuickTimeムービーをもう一度MPEG-4に変換してみた。それでどうやら123.1MBになった。ただし、結構画像が荒れている。静止した場面だとまあ見られるが、カメラがぶれていたり、オーバーラップしているところではかなりひどくなっている。圧縮して綺麗な画面にする、ということがこれからの課題になりました。

 Webで映像作品を公開するというのは、一面では作品としての表現を情報に置き換えていくということになるわけだ。パソコンのモニター上で見るのと、スクリーンで見るのとはまるで違う。わたしとしては、自分の映像はスクリーン上映で見て欲しい。ということは、作品がWebで情報として伝えたものを更にスクリーン上映の現場で見たいと思わせるような力を持たなければならないということになる。ハリウッド映画のようなスケールの大きさの問題なら、そのことは資本の問題として簡単だが、わたしが作るような個人的な時間と空間の中で展開する小さいスケールの表現だと、その力というものをどういう風に考えるかということも問題になる。「個人映画」という考え方で始めた映像表現が、Webとの関係で、どういう意味合いを持つのかということが、問われてくるということなんですね。



2005年1月12日 「灰皿町Blog」と「顔よ、勃ったら1m」のムービー。

カニサボテンの花
 カニサボテンの花

 わたしの2005年は「灰皿町Blog」の書き込みと、多摩美の卒制公演「顔よ、勃ったら1m」のムービーファイルをWebにアップすることから始まった。「顔よ、勃ったら1m」のムービーファイルは、テープからパソコンに取り込むと1分40秒のファイルが379.6MBになる。この大きさではWebにアップするには大きすぎる。1秒に30MBを転送できる光通信でも10分以上掛かってしまうし、ISDNだったらダウンロードするのに数時間以上かかる。そこで「Claener6」という圧縮ソフトで圧縮した。379.6MB のファイルが5MBになった。驚くような圧縮率だ。当然画質は落ちるが320×240ピクセルぐらいのサイズならそう目立たない。というわけで、出来るだけシーンを分割して取り込んで、それぞれに圧縮を掛けてアップした。ファイルの数は全部で42個、バイト数を足してみると170MB近くあった。こんなに大きな容量は、プロバイダーでは出来ない。プロバイダーが一般にホームページに割り当てる容量は、大体が30MB単位で、多くて100MBまでだ。現在ではハードディスクの容量が大きくなっているのだからもっと多くても良さそうなものだが、そうはならない。わたしがアップしたのは清水鱗造さんの「灰皿net」で、昨年の末から「灰皿町」の住民になったからだった。鱗造さんは、自宅でサーバを設置管理していて、3GBぐらいまでならいいと言ってくれた。鱗造さん、ありがとう。これから、関係した演劇や映像をアップしていこう思う。そこで、灰皿町のわたしのサイトを「Shirouyasu_Variety House」とした。

 そして、出来たらストリーミング配信の実験をやってみたい。ストリーミング配信はどうやるのよく分からないけど、MPEG4のコーデック出来るというので、鱗造さんに頼んでサーバに設定をして貰い、ファイルを一つQuickTimeからMPEG4に変換してサーバにアップして見たら、何とか見れるようだ。MPEG4のファイルを二つ用意しました。ストリーミングを試みて下さい。[ストリーミングテスト]。ただし、結構容量が大きいので心配です。映画をストリーミング配信するということを聞きますが、どういう圧縮しているのしょうね。

 「灰皿町shirouyasu_Blog」には毎日書き込んでいる。自分の行動が透明になるかどうか分からないけど、読む人の反応をちょっと気にしながら、洗いざらい書くことによって、わたしという人物のイメージがどうなっていくか、自分にも面白そうな感じがある。「続きは続けなければ」という気持ちで続けている。家のパソコンだけでなく、研究室のパソコンからも書き込めるというのが面白いです。というのは、わたしの場合書く場所で気分が違ってくるので。で、反応として、1月6日に、鈴木一民さんに話したこととして、「わたしは詩を書くことのコミュニケーションとしての直接性を求めたいと思うと言」ったと書いたら、間瀬伸一郎さんという人からメールが来た。そのメールが、わたしが云おうとした「表現の直接性」とはちょっと外れているけど、ある意味では、わたしが一方的に表現する方の立場にの立ってものを考えているのに対して、受け止める側の立場からの感受性から言葉を発していて、わたしは盲点を突かれた感じになったのでした。そのメールを、間瀬さんの承諾を得たので、此処に掲載します。

はじめまして、鈴木志郎康様。私は、曲腰徒歩新聞の愛読者で、45歳、男、自営業、とりあえず『シンチロリン』と申します。いつも、徒歩新聞を、楽しく拝読させていただいております。いつかメールを差し上げてみたいと思いつつ、やはりメールといえどもためらってしまう世代に属しているのでしょうか、今日までそれができませんでした。私は今年の誕生日で、46歳になります。今まさに、いはゆる“ミドルエイジ クライシス”の真っ只中であります。そんな中で、ひとつの夢として、いつの日か多摩美の映像演劇学科で志郎康先生に学びたい!と思っておりました。しかし、先生が近く定年退職されることを知り、私の夢もこれまでか!と思いましたが、考えてみれば、私は、多摩美で学びたいのではなく,志郎康先生に学びたいのだ!と思い至り、メールいたした次第であります。

先生は、“詩を書くことのコミュニケイションとしての直接性”とおっしゃられます。私が40を過ぎて、何かもやもやと、自分のこれまでやってきた事や、これから先やっていくかもしれないような事に、うんざりし始めてきた中で、先生の“やわらかい闇の夢”や“家の中の殺意”などの詩作品を読むことが、自分の人生の道しるべとなっているのだということを、先生にお伝えしたいと思いました。とりわけ“二つの旅”は大好きな詩集です。不特定多数の読者に向けて書かれた詩が、時を隔てて人の心を捉えているということは、本当にすばらしいことだと思います。

この写真は、私が時々写真を撮りに行く町の、片桐さんという豆腐屋さんです。去年の11月の写真です。

初めて出くわした時は、広重の東海道五十三次か、歌舞伎の舞台かと思いました。

はじめは、物珍しさ、ある種のノスタルジーを感じただけでした。でも、よくよく考えてみると、
もっと深い何かを感じて、熱くなりました。

 自分で作った豆腐を、自分で担いで歩いて、行って帰ってこられる範囲内で商売をする。毎日決まった時間に豆腐屋さんが、てんびん棒担いで豆腐を売りに来ることを当てにして待っている客がいる。豆腐売りとはそういうものだと思っている、半径500m位以内に住んでいる生活者がいる・・・・・。

 これが、例えば根津とか浅草だったら、あるいは、ある種の高級茶菓子とか懐石料理の世界だったら、全然意味が違ったと思います。また特に、特選素材とかを使って幻の豆腐とかを作って売っているわけでもなく、観光化、権威化、演出、ブランド化・・・、そういうところとは無縁に120円の豆腐を売っているのです。

 後日、写真をお渡ししようと、お店を訪ねました。お店といっても、路地のおくまったところの、民家の土間で豆腐を作っているのですが、そのとき、たまたまお留守で、どうしようかと思いあぐねていたところに、小学生くらいの女の子が二人通りかかりました。私が遠慮がちにたたいていた戸を、ドンドンドンとたたき、『いないみたいね』と一人が言い、『私さっき豆腐屋さんがでかけて行くの見たよ』と、もうひとりが言いました。

『どうしようかなあ、お豆腐屋さんにこれを渡そうと思ったんだけど・・・・・』と私が言って、写真を見せると、『ウワーーー』とかいって、『いつ撮ったの?』とか、『どこで撮ったの?』とか私に聞いてきました。そして、ひとりの子が、

『私、このまえ、お豆腐屋さんからお豆腐買ったよ。』と、私に言いい、そして、その子が、

『私ンち、そこだから、あとで渡しといてあげる。』

というので、結局その子にお願いしました。

 それだけの話ですが・・・・・、この豆腐屋さんの生き方って、詩的な生き方なのでしょうか? コミュニケーションとしての直接性と関わりがあるのでしょうか? 単純すぎる比喩ですか? ただの、偏屈おやじでしょうか・・・・・?

 さて、今、このメールをどうまとめようかと思いあぐねているのですが・・・・・

ここに、先生の言葉を細大漏らさず捕らえようと、耳をすましている男がいます。

先生、これからも、がんばる・・・・っていうか、ボチボチお願いします。

どうもありがとうございました。                草々


このメールに、最初は名乗られてなかったので、わたしは正直言ってちょっと不安を感じてしまった。46歳で多摩美に来てわたしから直接学びたいなどと云われても、生涯教育ということあるからいいけれど、でも、戸惑いを感じないわけにはいかなかった。しかし、読者という立場からの直接性ということでは的を射ているようにも思えるし、何より、写真の豆腐屋さんの姿がよかったので、「曲腰徒歩新聞」に載せれば、楽しめる記事になるとも思えたので、その旨を書いて返事を出した。

間瀬様
前略 わたしの詩集を愛読して下さっているという大変嬉しいメールを下さってありがとうございます。心に残ります。詩を書くのを止められなくなります。が、そのコミュニケーションの問題として、間瀬さんが、

>私は、曲腰徒歩新聞の愛読者で、45歳、男、自営業、とりあえず『シンチロリン』と申します。

と自己紹介なされるというところに、ちょっと不安が生まれます。わたしの方からすると、「自営業」って何だろう、『シンチロリン』というハンドルネームはどういうことなのだろう、何処にお住まいなんだろう、という疑問が、不安を起こさせるのです。

 メールを戴いて分かったのですが、わたしが「詩を書くことのコミュニケーションとしての直接性を求めたい」といったとき、わたしは、詩を書く方の自分の位置からのみで発言していて、読者からの直接性を余り考えていなかったということです。わたしにとって、読者としての相手の人が抽象的であると不安になるということが、空間とか時間の共有のこととして、いわば、自分が依拠する共同体の問題として出てくるのですね。考えてみましょう。

ところで、

>この写真は、私が時々写真を撮りに行く町の、片桐さんという豆腐屋さんです。去年の11月の写真です。

この豆腐屋さんと間瀬さんの関係は面白いですね。「小学生くらいの女の子」と言葉を交わしたいうのが、何でもない普通のことなのに、マスメディアの文脈で読むと、スリルを感じさせられました。豆腐屋さんはお店でなく売り歩く。詩人でも、野村尚志さんや中村葉子さんは自分の詩を直接手渡すというやり方をやってます。わたしは自分では出来ないのですが、彼や彼女のやり方はいいなあと受け止めています。

それから、わたしのWeb上の発言に応答して下さった間瀬さんのメールを「曲腰徒歩新聞」に掲載してもよろしいでしょうか。
ではまた、よろしく。草々

鈴木志郎康拝


わたしの返事に対する返事が2日後に来て、間瀬さんは、以前、海老塚さんが連れ行ってくれた足柄上郡大井町の蕎麦屋で、小説や現代詩も読み、現代美術も画廊に行って見てあるく人だと分かった。確か、海老塚さんに紹介されたことがあるのは記憶にあるが、その時、現代詩を読んでいるなんていうことが話題に出なかったから、わたしは単に海老塚さんの作品が好きな蕎麦屋さんとしか受け止めてなかったのだった。返事はまた2枚の写真が付いていて、普段写真を撮りあるいていて、「シンチロリンの写真帖」というホームページも作っているとのことだった。そして、「片桐豆腐店があるのは、あの川崎長太郎の“抹香町”です」とあった。昔、川崎長太郎の小説を読んだことがあったので、豆腐屋さんは彼の小説に通じるものがあろうにも感じられた。川崎長太郎の世界は狭いコアを持っているということで、Blogに通じてWeb的なのかも、と思ったりもした。



2005年1月4日 今年、わたしは70歳。

日向の猫
 日差しを楽しむママニ

 新年おめでとうございます。
 今年、わたしは70歳、という意識から始まります。一昨年の5月に西新宿のパークタワーの入り口で躓いて転んで、ただ転んだだけだったが、かなりショックだった。そして昨年の7月に二子玉川の駅前で転んで、鼻血を出して救急車で運ばれて、決定的なショックを受けた。生活の態度が変わった。毎日、ストレッチ体操をする、食事の後片づけも含めて、いろいろなことを出来るだけ早く片づける、そう心がけるようになった。身の上に何時、何が起こるかわからないというわけ。そして、ストレートに考え、ストレートに言葉にしようと思い始めた。それからもう一つ、自分がやってきたこと。最近では、履歴、つまり所属してきたところより、業績、つまり当人がやってきたことが人物としての評価のベースになってきた。そこのところで、自分は何者だったか、若い人たちと話しているとついつい自分の過去のことを話してしまう。去ったことはもう無いのだと割り切れないが、だからといって自慢もしたくない。やってきたことは、自己評価としては高くなりがちで、微妙なことがある。その自分のイメージの曖昧なところを楽しむ、ということ。

 来年の3月で多摩美は定年になるので、今年は終わりの年として出来る限り学生たちと付き合いたい。定年後のことは、その後だ。清水鱗造さんの「灰皿町」にHPBlogを作って貰ったので、Webには力を注ぐことになるでしょう。何処まで自分がヴァーチャルに透明になれるかやってみたい。「ヴァーチャルに透明に」というと、へぼ小説の題名みたいですね。この三日ほどblogに割と些細な日録を書いてみたけど、それは、読む人がいるという意識が働いて、普段書き付けている日録とは違ってくる。日録はその日何をしたかということの自分の確認だが、同じことをblogに書くと、ある程度分からせなければならいところが出てくるので、言葉を立たせることになる。つまり、現実としての言葉の空間に入っていく。わたしの名前にイメージを持っている人とそうでない人の二様の存在が、書くわたしの意識の中に波打ち際みたいな空間をつくる、そこが面白いですね。というわけで、今年もよろしくご愛読下さい。





  















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