![]() 膨らんできたチューリップの蕾 |
シアターX(カイ)の「2年がかりのブレヒト的ブレヒト演劇祭」の2年目の最後の公演として、この4月に、イスラエルの演出家ルティ・カネルさんの演出、吉田日出子さん主演の「母アンナFとその子供たち」(千田是也訳「肝っ玉おっ母とその子供たち」)が上演されることになり、その稽古場を提供したり学生たちに稽古を見学させたりして、多摩美の映像演劇学科が提携することになった。わたしは教員として参加することになり、1月に打ち合わせの会合に出席した。ブレヒトの芝居は、かなり昔に「ガリレイの生涯」を見て、当時は感動した記憶があった。また昨年シアターXで上演された「成りあがるアルトゥロ・ウイの『わが闘争』」という舞台も見たが、強い関心の対象にはならなかった。従って、シアターXの「ブレヒト的ブレヒト演劇祭」にも通うと言うことはなかった。衣装デザイナーで映像演劇学科の助教授の加納豊美さんがこの「母アンナFとその子供たち」の衣装を担当して、「創造提携」ということを発案しなければ、そしてそれに参加するということがなければ、まあ、ブレヒトは縁遠い存在のままだったろうと思う。
ところが、参加と言うことになって、余りにもブレヒトについて知らなすぎるのではいけないと思い、何か読んで置こうと、家の書棚を探したら、白水社版「ブレヒト戯曲選集」全5巻と2、3冊のブレヒト関係の本が出てきた。でも、読んだ記憶がない。また、これらの本を買った動機も忘れている。ブレヒトの方に伸びようとしていた関心の芽が途中で枯れてしまっていたということだろう。しかし、古本だが、選集の全5巻を買ったことは買ったのだ。先ずそれを棚の上の方から取りやすいところに移して、箱から出してパラパラと開いてみたものの、本の古さに気分を殺がれて読めなかった。ブレヒトの戯曲を読むという体勢に入れないでいた。シアターXの上田さんがブレヒトの詩が好きだと言っていたのを思いだし、アマゾンで長谷川四郎訳の「ブレヒト詩集」と「中国服のブレヒト」を注文した。そして、届いたその詩集を毎朝行くトイレで、トイレで詩集を読むのは初めてだったが、読み始めたのだった。セリフのように展開する言葉の運びが気に入った。そして老子が関を出るときにその教えを書き残したということを書いた詩があって、おやっと思った。ブレヒトって中国思想に興味があったのか、と思うところから、長谷川四郎さんの「中国服のブレヒト」へと関心が流れていった。北京の中央演劇大学舞台美術学部に留学した加納さんの話だと、中国人はブレヒトを自分の国の人のように思っているところがあるということだ。「中国服のブレヒト」にも、ブレヒトの晩年の詩を引用した後、「わたしの理想はとても実現しそうにない。いっそ筏にでも乗って海に出ようか」という「論語」の一節を引用して、「ブレヒトもときどき、このような心境になったかもしれないと、筆者は想像する。こういう時、中国ゆきを考えたことも、あるだろう。しかし、ついに『材ヲ取ル所ナシ』で中国にはいかずじまいであった」と書いてあった。まあ、その間に、わたしは「母アンナFとその子供たち」の台本を貰って読み、ブレヒトの言葉の世界に入って行った。
インターネットで調べると、2月には東京で3つのブレヒトの芝居が上演されていることが分かった。今でも日本ではブレヒトの演劇は人気があるのだと思った。そこで、まあいい機会だから勉強もかねて見てみようと考えて、インターネットか電話で予約した。先ず、1月24日に長谷川四郎訳の「ブレヒト詩集」読み終えて、2月3日に、東中野のレパートリーシアターKAZEで岩淵達治訳・演出の「第三帝国の恐怖と悲惨」を見た。24景の中の10景を、詩とスライドを交えての上演だった。そして、2月7日には、ルティ・カネルさん演出の「母アンナ・ファイアリングとその子供たち」の本読みに立ち会う。その3日後の2月10日に、三軒茶屋のパブリックシアターで松岡和子訳、串田和美演出、松たか子主演の「コーカサスの白墨の輪」を見た。2月14日には、その「ブレヒト的ブレヒト演劇祭」の一つとして上演された、ベルリナー・アンサンブルのブレヒト役者マンフレート・カルゲ演出で、能役者の観世栄夫出演のハイナー・ミュラー作「『戦い』ードイツの光景」を見た。ハイナー・ミュラーはブレヒトの批判的後継者といわれているそうだ。2月18日には、劇団俳優座創立60周年記念公演の千田是也訳安井武演出の「三文オペラ」を見た。俳優座の「三文オペラ」の上演は何と43年ぶりということだった。これらのブレヒトの芝居を見て歩いている間、毎日、朝のトイレで長谷川四郎著「中国服のブレヒト」を読み、2月21日に読み終えた。この本は、長谷川さんがブレヒトの「転換の書 メ・ティ」の原書を1970年頃、紀伊国屋書店で買い求めて読んで行く過程で、様々な書籍に当たりながら考えたことが書かれている。「メ・ティ」はドイツ語で「墨子」のことで、ブレヒトはその「墨子」のドイツ語版の偽書として書いているわけ。長谷川さんは「墨子」やその他の漢籍などを引用してブレヒトの考えと自分の考えを平行して語っている。「墨子」は徹底した守りの戦術を説いているそうで、そこから「墨守」という言葉が出ていたということだ。長谷川さんの「墨子」を主人公にした戯曲「守るも攻めるも」も読んだ。争いに弱いわたしには受け入れやすい考え方だ。ということで、わたしのブレヒト巡りは長谷川四郎に道案内して貰うようなことになった。「中国服のブレヒト」を読み終えた22日の翌朝から石黒英男、内藤猛共訳「転換の書 メ・ティ」を読み始めた。この22日には、インターネットで調べて、中野のブロードウエイの古書店「だるまや」で長谷川四郎訳の「コイナさん談義」を買ってきてその夜に読んでしまった。それから、25日に、「ブレヒト戯曲選集」第3巻に入っている加藤衛訳「セチュアンの善人」を読んだ。
この一ヶ月、ブレヒトの芝居を見たり読んだりしてきたが、彼は戦争と革命の20世紀を支配されているものの側に立って生き抜いて来た人だということが、ぼんやりと分かってきたところだ。レポートを書く文学部の学生みたいな気分で、気持ちよく過ごせているというわけです。
![]() 伸びるチューリップの芽と枯れ葉 |
灰皿町Minami-hatoba_1-Shirouyasu_Blogを書くのに押されて、「曲腰徒歩新聞」の記事を書くのをすっかり怠って、半月が過ぎてしまった。言い訳としては、blogは寝る前の一時に書くが、「曲腰徒歩新聞」は使う画像を決めて、それを取り込んで、一応テーマを決めて書くから、どうしてもそれなりに時間を取らなければならない。2月はその時間がなかなか取れなかったということになるが、やはりblogを毎日書くという事に意識が向いてしまっているのは確かだ。特にblogには細かいことを書こうと思っているので、生活していて細かいことを記憶に留めようという意識が働き、それが面白い。スーパーでの買い物とか、読んだ本の一節とか、見た演劇のこととか、それぞれ、それを言葉にするというのが、わたしには愉快なのだ。自分のことを書いているという気がしない。出会ったものごとを言葉にするのが面白いのだ。これってどこまで続けられるのかという気もして、挑戦したい気にもなっている。新作の映像作品として「極私的に遂に古稀」を作り始めたが、この70歳という年齢にも重ね合わせて、その70歳の男の姿が見えるといいがなどという野心も出てくる。昨日、画廊に何も展示しないで自分の姿を作品にしてそこにいるだけという青柳龍太君の作品「act1」を見たが、見たと言うよりそこに行ったが、青柳君とそば屋で話していて、わたしのblogは、表現としてみると、彼の表現とは全く反対方向に向かっているように思った。彼は何も見せないことで自分の存在を主張しているわけだが、わたしの方はすべて見せているような格好をして、そこからすり抜けて行っているということになる。ただ、blogにはわたしの身体のイメージがない。「15日間」を撮影した時は、自分の日常を暴露すると同時に自分のイメージも公開することになるので、かなり緊張したが、そういう緊張感はない。自分の日常生活を、「15日間」ではマイクを持ってカメラに向かって喋ったが、あの時は先ずその言葉の相手が定められずに混乱したのだった。同じ日常生活を言葉にするのでも、blogではモニターに向かってキーボードを打って言葉を紡ぎ出しているので、書くということになって、楽だし、楽しい。繰り返しになるが、「日記」を公開するという受け止め方をする人が多く、青柳君もわたしのことを「自分が好きですね」と言っていたが、自分というものにこだわる人ほどそういう受け止め方をして、わたしが自分を顕示して見せているという風に取られるが、わたしにはそれは二の次であって、わたしはもっぱら言葉が問題で、作品というものに付着してくる余計なものがないだけに、blogを書き始めて、言葉を書くことにすがすがしさを感じている。言葉というものについての意識の持ち方では、夜中眠くなってきた眼を開けてblogに言葉を打ち込んでいると、余りいい言い方ではないが、一種の「ざまあみろ気分」が盛り上がってくるので、そこは「曲腰徒歩新聞」と違うところだ。「曲腰徒歩新聞」は、自分の関心を読む人に訴えるという面があって、媚びがあると云えば云える。そこが書いている方としては億劫になってくるところだ。こうなってくるともうちょっと両方のあり方を考えて、わたしの言葉の問題として、もっと面白くできるかも知れないと思えてくる。「灰皿町Blog」では「請う、ご期待!」とは云わないが、「曲腰徒歩新聞」では「請う、ご期待!」ということになる。