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2005年8月28日 「現代詩手帖」2005年8月号 特集:戦後60年<現代詩>再考
       座談会「歴史のなかの現在形」を読んだ後に思ったこと。

台風後の庭
 台風後の庭

 8月14日に座談会「歴史のなかの現在形」の詩人たちの発言を整理した後、「詩の実質 ―極私的詩ノート」という詩について現在、わたしに考えられることを纏めて10000字余りの文章を書いた。以前から書肆山田の鈴木一民さんに詩についての文章を書かないかと勧められれていたので、「現代詩手帖」8月号の座談会に刺激されて、「るしおる」に掲載するものとして書く気になったのだった。その文章では座談会については触れなかった。「曲腰徒歩新聞」8月15日に各詩人の発言を掲載したので、一応、自分の考えの立場みたいものがはっきりしたので、座談会について、わたしのいろいろな思いを書いてみたい。

 読んだ当初は、ちょっと発言に引きずられていたけど、時間が経って気が付いたことは、あの座談会に出席している人達はそれぞれの年齢で「現代詩」を書いてきた人達なのに、自分のことを語っている人がいないと云うことだった。一カ所、荒川洋治さんが自分の初期の作品について司会者から発言を求められているところがあるが、「それはちょっと用意してなかったね。自分のことを話すところではないし」と敢えて自分のことは避けている。年代の違う人達がいるんだから、自分が何をひっさげて現代詩に登場してきたかを語ってもよかったんじゃないかと思う。荒川さんは「『現代詩の言葉はやっぱり見なくちゃいけない、詩を書く者としてじゃなくて、人間として、今の時代を生きている者として現代詩の言葉だけは絶対目を留めておかなくちゃいけない、そうすればなにかがわかる、小説の言葉じゃだめだ』という信念でずっと来たんですけど、」といっている。それは、次々にその時代の感性を持った新しい詩人として出てきたということであり、皆さん、それぞれ新しい詩人だったのだから、自分のことを語り、検討することが60年を検討することになったんじゃないかと思う。

 わたしは自分を中心にして生きている者だから、始めにはこの座談会で自分のことがどういう風に扱われているかと云うところを拾い読みした。すると、吉増剛造さんが「さきほどの女性の詩の文脈と同じで、これもぼくは女性性というか、戦後初めて躍り出てきた処女言語性というか、その画期的な成果だと思います。『鈴木志郎康問題』というのはやはりあるんだと思う。」といっているの出会った。処女言語性というのもよく分からないが、多分それは、わたしが「小陰唇」というような詩の言葉としては使ってこなかった言葉を敢えて使って詩を書いたことを指していて、処女言語性は「詩の言葉としての初めて使うこと」と言い換えることが出来て、さらに「女性の詩の文脈」を新井豊美さん意見に従って辿ると、どうやら、これまでに言葉で表現されなかったこと、あるいは云えなかったことが云えるようになるという道筋が、現代詩が書かれてきた流れの中にあったということと考えられた。吉増さんは「ぼくも戦後のいくつかの失語せざるを得なかった例を見てきました。」とも云っている。これをわたしなりに考えると、表現され得ない沈黙を控えて、現代詩には言語の解放、あるいは詩言語のパラダイムの拡張ということがあったのだ言えるだろう。吉増剛造さんは今でもその道を孤独に歩んでいるのではないだろうか。また、藤井貞和さんはそのフロンティアを探して歩き回っているのではないだろうか。単語の問題を超えてシンタックスまで問題を広げたところに、天澤退二郎さんとか伊藤聚さんなんかもいるように思える。

 辻井喬さんが、金子光晴、鮎川信夫、吉本隆明、谷川雁、大岡信の方々の1965年の座談会「日本人の経験をめぐって」を読み返した感想として、「(その座談会では)率直に生き方の問題をテーブルに上げて自己認識を確認しあっていた。この座談会を読み直しながら、これからはこういったことが大事になってくると、私はあらためて思いました。清岡さんが昭森社ビルのことを戦後詩の坩堝であった空間と書かれていますが、そのころは思潮社、ユリイカ、昭森社という詩にかかわる三社が、あの建物で机を並べていた。」と言って、当時の詩人たちの濃密な関係を指摘した後、それは「ナンシーがいう『ともにあるということ』をそのまま感じとれる共同体が出来かかっていたのではないか。」と述べている。戦後の第一世代には、詩を書くための基盤となる直接的な人間関係があって、そういう基盤の必要性を語っている。わたしには、このある意味では西洋文学を教養として共有したその狭い人間関係が、この世代の詩に多い隠喩的表現を生んだというようにも考えられる。隠喩はイメージに託した一種の謎といえるが、その謎を解く鍵が作品を理解する上で大切になる。鍵の在処が分からなければ理解できない。鍵の在処として、それが作品の中にある場合と作品の外にある場合があるが、社会状況に対して自己の緊迫した内面を表現する詩では、その状況を踏まえて隠喩を使うので、鍵が作品の外側に置かれることが多い。お互いに分かっていればその鍵の在処は直ぐに分かる。そうでないとその詩は難解になる。つまり、辻井さんがいうような好ましい共同体が、高度な内面の表現を可能にした一方で、ゆわゆる「わからない現代詩」というものを生み出す結果になったのではないかとも考えられないだろうか。わたしとしては、濃密な関係が欲しい。

 そういう狭さを感じさせる現代詩に対する非難があって、飯島耕一さんはそれに対して怒っている。「去年だったか高橋源一郎という小説家が、『僕たちは気持の中で詩をどこかで排除してきた。戦後詩はいびつな狭いところに発生したジャンルなのに、それが詩だと思われてきた』と、少なくともぼくには不快なことを『読売新聞』の紙上で言った。また加藤典洋という評論家は『詩という原始的で呪術的な言葉を今、ボクタチのシンタイが欲している』などと相槌を打った。詩を少しは認めてやってもいいといった生意気な発言だと思ったね。最近も島田雅彦が現代の詩をろくろく読んでいないはずなのに、大新聞に『詩はなくなったわけではない。ないのは現代詩業界の話だ」などという質の悪い誹誘をしている。そういうことを言う連中が増えてきた。そういうのに対して、ちゃんと礫を投げ返す若い詩人がいてもいいのではないか。おれは本気でむかつき怒っているんだ。」と、飯島さんは述べている。そんなに気にしなくてもいいんじゃない、とわたしは思う。純文学だって、「いびつな狭い」「業界」じゃないですか。

 何故、高橋源一郎さんが「戦後詩はいびつな狭いところに発生したジャンル」などといい、島田雅彦さんが「現代詩業界の話だ」などというのだろうか。そして、飯島さんが怒るのだろうか。この「狭い」とか、「業界」というのは、内情についてはわたしには分からないが、辻井さんが云ってる「思潮社、ユリイカ、昭森社という詩にかかわる三社が、あの建物で机を並べていた。」というところの三社が詩の雑誌を発行していて、それが以後、詩の活字メディアとして機能していたことと関係があると思う。小説だって、数少ない文芸誌がメディアとして機能しているのだから、そう大して違いはないと思うが、とにかく文学的表現はそこで選ばれた者によって、ある意味では特権的な集団を形成していたといえる。詩を書いている人は沢山いるんだけど、そのメディアでは選ばれた者だけが詩人としてエリート集団を形成していたといえるようなところがある。この辺がよくないと思う。ギルド的になっちゃ、面白くならないと思う。そこに、市場原理が重なったりして「業界」というような悪口が言われることになるのだろう。この「現代詩手帖」8月号には、95篇の「戦後60年名詩選」が10人の詩人によって選ばれて掲載されているが、この「95」という数字が、多分紙面都合だろうと想像するが、どういう根拠に基づいたものかは何処にも説明されていなし、当の選んだ詩人たちも当たり前に思っているらしいというところに、見えない共同性があるように考えられる。飯島さんが怒るのは、座談会がそういう共同性を作る装置になっているからと云えないこともない。

 今までは詩の雑誌と同人誌が「詩のメディア」だったが、インターネット上に個人的に又は集団的に詩が数多く発表されるようになって、また朗読会がいろいろなところで開かれ、組織的に行われ、NHKなど一部マスメディアもそれ荷担したりして、詩の雑誌の求心性が弱くなったのだろうか。この座談会では、荒川洋治さんが「この十年、二十年の間に現代詩の言葉が淀んでいる、つまりスピードが緩慢になっている。いいものが生まれない。」と言ったり、城戸朱理さんが「大岡信のように三十年停滞しているというと70年以降何も起こってないということになる。」と言ったりしているのを読むと、ちょっと深刻な事態になっているのかとも思える。若い世代の城戸さんが「そういう停滞感は、変化に対する潜在的な準備じゃないか。もう一つの共同体の可能性が、電子メディアと接続したり切れたりしながら生成していくのが、これから問われる。」と言い足しているところから考えると、わたしには「詩の役割」が以前とは違うものになってきているのではないかという気がする。

 飛躍して言うと、市場や家庭のあり方がすっかり変わって、日常生活のでの言葉の機能が激変しているこの時代に、「詩の役割」が変わらない筈はないないと思う。現代詩はある意味では終わった。それは、安定した帰属意識の上に成立していたと思えるが、その帰属意識が揺れ動いて、自分で自分を支えなければならなくなて来ているとき、自分を支える仕方で使われる言葉で書かれる詩は、従来の詩とは全く違う姿になるような気がする。言葉と現実が倒錯して、言葉が関係を作っていくという具合だ。今の20代そこそこの作者の言葉って、読ませるというより押しつけてくるという感じですね。それで、それなりに必死でやっている。その辺ところがこの座談会の出席者には見えなくなっているんじゃないかと思う。井坂洋子さんが、若い人をアニメやゲームの享受者と限定し、野村喜和夫さんが「詩をめぐる状況は確かに変わって、一言で言えば、アヴァンギャルドからエンターテイメントの時代になってしまった。」と決めつけているのも、一週遅れの感じがする。

 飯島耕一さんの「20世紀のいろいろなイズムが21世紀では使えなくなってみんな困っている。頼りになるのは、孔子がいう『天』の思想みたいなものではないか。」という発言や、長谷川龍生さんがの「戦争中のような態度で沈黙できない。自分は社会主義社会にも高度の資本主義社会にも生きられない。『詩の商品化』はできないから、詩は置いておいて、詩人として生きていけないかと。『詩人の商品化』これで食っていけないかと。」という発言を読むと、読んだ当初は笑ってしまったが、時間が経つと笑ってはいられないと云う気がしてきた。佐々木幹郎さんは「間伐」なんていうことを口にしている。「荒川さんは十年とおっしゃったけれど、ぼくは二十年くらい停滞している感じがする。(中略)人間が手を入れないかぎり、山は滅びてしまう。現地の学者たちが打ち出した考え方に『保続の思想』というのがあります。戦後六十年の詩を振り返るとき、切羽詰まったかたちで時代との共振の構造に即して詩を振り返るのではなく、もうちょっと幅広い見方で戦後の詩をピックアップしている自分がいた。そのときに伝統的なもののなにを続かせて、なにを自分の中から見えないものにしてしまっているのかを、詩における保続の思想に即して自分の中ではっきりさせなくちゃいけないと、皆さんのお話を聞きながら思いました。」というのが、佐々木さんの発言なのだ。伝統的なものを続かせるためには、それを見えなくしているものを伐採してしまう、といっているわけなんでしょうね。後の発言に照らして、佐々木さんの発言には、その選んだものを日本的なものとして外国に紹介しようということなんでしょうね。佐々木さんは政治的になっていくのかな。城戸さんのblogには「詩が停滞している」なんてあり得ないと書いてありましたよ。

 この座談会を読んで考えていると、「現代詩」って本当にしんどいという気になってくる。でも、詩を書きたいという気持ちは、言葉が頭の中を経巡っている以上は、いつになってもなくならない。わたしの場合は、詩を書いたり映像作品を作ったり、とにかく創作をして日記を書いてないと自分の存在が無くなっちゃうようで不安になる。そういう気持ちから、映像作品だと上映した後、誰かしら声をかけてくれるけど、詩を発表しても、まあ誰も何も言ってくれないという不満が募ってくる。しかし自分でも、人の詩を読んで何か言うということは、なかなか出来ない。そういうところを気軽に話したりすると、もっと面白くなるのではないかと思う。詩を書くことが楽しくなるようにしたい。これが、長い座談会を読んだ結論です。



2005年8月15日 「現代詩手帖」2005年8月号の座談会をノートを取って読む。

朝顔の花アップ
 朝顔の花

 先月も書いたように、「新しい詩の書き方を探そう」という講座をやって、詩について少し考えるようになってきた。そしてそれを文章に書いてみようと思っているところに「現代詩手帖」2005年8月号が送られて来て、特集が「戦後60年<現代詩>再考」とあって、10人の詩人たちが「歴史の中の現在形」という座談会をして、それぞれが戦後詩10篇を選んで、その選ばれた詩が「戦後60年名詩95篇」として掲載されていた。わたしの詩が2篇選ばれていたので嬉しかった。どういうことで選ばれたのかと思って座談会を読んでみた。一度読んで、わかったようなわからないような印象だったので、2度目にノートを取りなながら読んでみると、それぞれの詩人が言っていることは十分に理解できたとは思わないが、わたしなりに面白かった。わたしが面白いと感じた発言を、わたしのノートから書き写してみます。発言は、わたしの理解で書いた部分とそのままの部分とちょっと編集したりしているので意味が通じないものになていますが、ある感じが伝わって来ると思うので御了承下さい。また詩人の皆さんにはご寛恕下さることをお願いします。

「現代詩手帖」2005年8月号
特集:戦後60年<現代詩>再考
座談会「歴史のなかの現在形」
出席者:辻井喬、飯島耕一、長谷川龍生、吉増剛造、佐々木幹郎、荒川洋治、新井豊美、井坂洋子、野村喜和夫、城戸朱理(司会)
座談会は雑誌2段組で40ページほどの長さです。従って発言はいろいろです。

辻井喬さん:日本の歴史の重層性ということ。(戦後、思潮社、ユリイカ、昭森社という詩にかかわる三社が、神田の一つの建物で机を並べていた。そこにやった来た)詩人たちが、本気で自分たちの生き方をテーブルの上に載せて話し合った。そこにジャン=リュック・ナンシーのいう、ともにあるという「共同体」が出来かかっていたのではないか。

飯島耕一さん:(永瀬清子さんを訪ねたとか、谷川俊太郎さんと本の貸し借りをしたとか、土方巽に吉岡実を紹介したとか、戦後60年の詩壇の体験を随所で語る。)
 (高橋源一郎氏、加藤典洋氏、島田雅彦氏などの詩についての発言に対して)そういうものに対して、ちゃんと礫を投げ返す若い詩人いてもいいのではないか。おれは本気でむかつき怒っている。
 20世紀のいろいろなイズムが21世紀では使えなくなってみんな困っている。頼りになるのは、孔子がいう「天」の思想みたいなものではないか。

長谷川龍生さん:戦争中のような態度で沈黙できない。自分は社会主義社会にも高度の資本主義社会にも生きられない。「詩の商品化」はできないから、詩は置いておいて、詩人として生きていけないかと。「詩人の商品化」これで食っていけないかと。
 (多くの人が容易に詩集を出すようになった)そんなマンガみたいなものを自己出版する女の子が出ているとはほんとに驚いた。これはちょっともう大変な世の中になってきたと。詩だけじゃなくていろんな点で自己発信していく。

吉増剛造さん:中国の詩人にも、ヨーロッパの詩人にも通じる、広いところに導いていく回路がそろそろ見えてきているんじゃないか。本当にふざけないで話さなきゃいけない局面というものがある。
 「さきほどの女性の詩の文脈と同じで、これもぼくは女性性というか、戦後初めて躍り出てきた処女言語性というか、その画期的な成果だと思います。「鈴木志郎康問題」というのはやはりあるんだと思う。」「ここにすこし迂回路をつくると、佐々木さんが失語と言ったときにふっと思い浮かべたのですが、ぼくも戦後のいくつかの失語せざるを得なかった例を見てきました。」

佐々木幹郎さん:間伐して山を活性化する「保続の思想」というものがある。時代との共振から離れて、伝統的なものに続かせて、なにかを自分の中から見えないものしてしまっているかを、詩における保続の思想に即して自分の中ではっきりさせなくちゃいけない。
 われわれの書いている詩を外に出すときのコミュニケーションのありかた、あるいは詩そのものに、それぞれの土地によってぜんぜん持続の仕方が違う。そのことをわれわれはもっとわからなくてはだめだと思う。

荒川洋治さん:この十年、二十年の間に現代詩の言葉が淀んでいる、つまりスピードが緩慢になっている。いいものが生まれない。非常に難しくなってきている。そのことをそれぞれが考える時に何か違う見方が必要なんじゃないか。六十年の歴史の中で何が欠けていたかというとアジア。

新井豊美さん:女性詩という概念は広がっていて、大文字の観念の言葉でない生きている小さな言葉、身体性をもつ言葉として考えていくと、吉増さんのいう隙間を縫う言葉とか、アジアとかいままで見えなかった国々と繋がって行くような意味を持つ言葉というふうな概念にまで広がって行くんじゃないか。

井坂洋子さん:この詩の束を読んで元気になった。存在する。いまの人はアニメだったり、ゲームだったりする。そうすると、この詩の世界とあまりにも遠い。その人たちがいったいこれを読んでいってくれるのかということがとても大きな問題として横たわっているように思える。

野村喜和夫さん:詩をめぐる状況は確かに変わって、一言で言えば、アヴァンギャルドからエンターテイメントの時代になってしまった。したがって、エンターテイメントの時代の詩あり方を、大衆化とか娯楽化とか平易化とかではない、もっと別の何かへの生成であり変化を考えなければいけない。

城戸朱理さん:大岡信のように三十年停滞しているというと70年以降何も起こってないということになる。そういう停滞感は、変化に対する潜在的な準備じゃないか。もう一つの共同体の可能性が、電子メディアと接続したり切れたりしながら生成していくのが、これから問われる。


[項目]
複数化する起源
大きな袋の空の下から
「女性性」の広がり
やわらかい見方、保続の思想
アジアへのあらたな意識
ゆっくり投げる詩
「地方」の不在
事件にぶるかる詩人たち
処女言語の静脈のような枝
他ジャンルをどう摂取してきたか
戦後の日常を問う
失語・沈黙・日常
「アメリカ」と「アメリカ」の間で
省みられた経験こそがことばの土台になる
「私」の解体、主体の変容
戦後詩という共同体
他者のための詩の書き方
詩の商品化、詩人の商品化
刺激的な日本語を欲している
臨界点に立つーーもう一つの共同体へ
ここから考えられることを次に書いてみたいと思います。





  















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