![]() 一杯に日の光を受けている酢漿草の花。 |
「灰皿町blog日記」に手一杯で「曲腰徒歩新聞」の方まで手が回らなかった。4月は、「母アンナ・フィアリングとその子供たち」の公演に3回、足を運び、その後多摩美の入学式から始まる一連の大学の行事があり、その間に映像作品の新作「極私的に遂に古稀」の音楽やナレーションを付ける作業が重なった。「極私的に遂に古稀」が最終的に出来上がったのは4月22日だった。ほぼ一ヶ月に渡ってナレーションを頭の中でこね回していたのは、自分では結果的によかったと思っている。この一月余り、朝、トイレでブレヒトの「転換の書 メ・ティ」を1ページとか2ページとか読んで、ブレヒトという存在のイメージもわたしの中に形を持ってきた。「転換の書 メ・ティ」は、長谷川四郎の「中国服のブレヒト」を読んで読む気になったのだが、「中国服のブレヒト」で受けた印象とは違っていた。長谷川四郎は「墨子」のことにかなり触れていたが、今のところ半分余り読んだ「転換の書 メ・ティ」そのものの印象は、ロシア革命の展開に目を注いで、社会主義における理想的な人の振る舞いを求めている姿勢が濃厚という印象だ。そこから、第2次世界大戦前のブレヒトは社会主義を理想的な社会と考えているように思える。わたしには、統制された官僚主義的な印象の社会主義社会を理想的とは思えないが、ブレヒトの理想は民主的な自由な社会というものであるようなので、そこは興味を引かれるところだ。今でもブレヒトが好んで上演されるのはブレヒトの理想に引き寄せられるからだと思う。
シアターXの劇場プロデューサーの上田美佐子さんが「2年がかりのブレヒト的ブレヒト演劇祭」という企画を立てて、ブレヒトの演劇ばかりでなく、魯迅や花田清輝の作品を含む様々な舞台を実現してきたのも、おそらくブレヒトの民主的で自由な表現というものの筋を通そうと考えたからなのでないかと思う。そして、その演劇祭の最後に今なお戦渦にあるイスラエルの女性演出家のルティ・カネルさんを招いて「母アンナ・フィアリングとその子供たち」の舞台の実現となった。わたしは、たまたま、多摩美映像演劇学科の同僚の加納豊美さんがその衣装を担当して、丁度冬休みで空いている多摩美の演劇スタジオを、「共同創造・制作提携」ということで使って貰おうということになり、そこで声を掛けられて参加したのだった。以下は、2月、3月と稽古を見学しての報告です。
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2005年4月1日から7日まで、シアターXの「2年がかりのブレヒト的ブレヒト演劇祭」の最後の公演として、ルティ・カネルさんは、ブレヒトの「肝っ玉おっ母とその子供たち」として知られている作品を構成して「母アンナ・フィアリングとその子供たち」というタイトルで演出した。わたしは、この公演に「共同創造・制作提携」をした多摩美術大学映像演劇学科の教員として、多摩美の稽古場とシアターXの舞台で、稽古の始めから公演まで、スタッフの一員として随時立ち会うことが出来た。わたしとしては、およそ2ヶ月間に渡って職業的な演劇公演の稽古から公演まで立ち会うことは、初めてのことだったので、非常に興味深い経験となった。わたしが出会ったことを順を追って書いてみる。
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ルティ・カネルさんは、2月1日の最初のキャストとスタッフの会合で、今回の公演の演出の基本的な方針を全員に話した。
先ず基本として、先人の後を追うのではなく、先人が求めたところを自分たちも求めていくという考えの上に立って、社会に於ける個人という存在を考えるというのだった。現在、戦争をしている国のイスラエルから平和な日本に来て、そこで共通する問題として、組織が個人を巻き込んでいく強大な力というものを描きたいということであった。「肝っ玉おっ母とその子供たち」のアンナは3人の子供を戦争で失うが、今でもイスラエルではテロで娘を失った母親がいる。テロに走らせる上からの力には、舞台監督の役者を黙らせる言葉に通じるところがある。演出としては、そういう力に対して、互いの会話による共同の作業を進めたいというのだった。
次に、ルティ・カネルさんは、ブレヒトの演劇が持つ二つのテーマについて話した。ブレヒトの世界観として、世界は構成要素から成り立って、一つのまとまりのある統一体をなしているが、この世界を動かしているものは何か、その操り糸を見極めるということ、操る力と操られる者がいるという構造として捉えている。それを演劇として考えると、その世界の構成要素の一つ一つが意味を持っていて、子供のままごと遊びのように、思い込み、なり切ることで意味が生まれてくる。一冊の本が冠になり銃になりまた毛布にもなる。事物が象徴する意味合いを持つということ。人間が事物に意味を与える。そこに人間の責任がある。変化という可能性を意識し、それを信じるところに演劇の根元があり、そこから芸術が生まれてくる。個人個人が意味を見出して欲しい。難しい方法をとることもあるが、慣れたやり方から脱して、共同で見つけ出していきたい。ブレヒトはアインシュタインが相対性理論を発表した時代の人であり、非確実性ということを演劇で試みた人で、彼に倣っていろいろと試みたい、というのだった。
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多摩美の演劇スタジオを使った稽古は2月7日から始まった。最初の本読みからかなり気持ちが入っていて、ルティ・カネルさんは役者の感情の動きに大きく頷いたりしていた。彼女は日本語が分からないから、台本のセリフの順番で内容を追っていたようだ。それが分からなくなると、ヘブライ語の通訳の菅生素子さんに助けを借りて確かめていくふうだった。稽古は午後は役者たちの稽古に当て、夕方からダンサーたちの稽古をしていた。ここははっきりと分けて、役者とダンサーは立ち会わせないようにしていた。立ち稽古が始まってからも、そのシーンに関係のない者は立ち会えないようだった。
立ち稽古に入ると、多摩美のスタジオにシアターXの舞台で使うのと同じ大きさの装置、幅6メートル80センチ、奥行き6メートル40センチの低い台と、その真ん中の上から一本の太い綱が下がっている装置を作って、60個の大小の古いトランクをその後方に置いて、それを使って、自由な発想で演技をさせているようだった。この大きな方形の台と、天井から下がった一本の綱と、60個の使い古されたトランクというのが美術担当のロニ・トレンさんのデザインで、世界の構造を象徴しているように思えた。わたしは、集められた古いトランクによってホロコーストを連想させられた。
役者の稽古は、各シーンごとに、劇の展開の順を追ってというより役者が集まれるところで決めて、前後から独立して行われていたような印象だった。わたしは全て見ていたわけではないが、一つのシーンを数時間掛けている場合もあった。演出が指導するというのではなく、役者がそれぞれ工夫して演じるのをルティ・カネルさんは見ていて、ワンダフル、ビューティフル、パーフェクトなどのかけ声を掛けて、そのシーンを決めるように見えた。そして、ウエイトと声を掛けて止めて、細かいところを、英語の分かる演出助手の渡邊さつきさんを介して説明していた。特に、主役のアンナを演じる吉田日出子さんが自由に身をこなし、一度演技が始まるとそこに一つの世界が開いていくように感じられた。また、ナレーター2を演じ、殆ど舞台上にいて、シーンによっては様々な役柄を兼ねる山本健翔さんという存在も、英語が分かるので演出の言葉を伝えたりする時があって、演出の面で大きな役割を果たしていたように思えた。
ダンサーたちの稽古は、役者とは別のやり方で行われていた。最初の頃は、トランクを持って出来るだけ奔放に動くように舞っていた。身体を目一杯に使って、休むことなく長い時間動き回るので、運動量は役者の数倍であるように見えた。それから、シーンが決まってくると、集団で歩いたり、歌ったりして、それを何度も繰り返していた。わたしは、ダンスは独立してやっていたので、始めダンサーたちの役割がよく理解できなかったが、稽古が進む内に、シーンの状況を現す役割があることが分かってきた。
2月一杯で多摩美のスタジオでの稽古が終わり、3月からシアターXの舞台を使っての稽古に入った。わたしは、2,3度しか見ることができなかったが、行くごとにシーンのイメージが決まって来ていた。印象深かったのは、弟のスイスチーズや娘のカトリンに対するアンナの母親らしい細かい仕草が、子供に向けた愛情の深さを語り出すようになっていたこと、また、ダンサーたちのダンスがいよいよ意味をはっきりと示すようになっていたことだった。特に、七場(原作では九場)の「飢饉に襲われ、荒れ果てた町々に狼たちが吼え」というところで、ダンサーの一人が背負ったトランクを羽根のように開いたり閉じたりして、羽根をばたつかせるカラスを連想させ、また別の二人のダンサーが内側が赤いトランクを狼の声に合わせて開いたり閉じたりして、吼える狼の口を思わせるイメージを作っていたことだった。事物がイメージに変貌するところを目の当たりしたという印象だった。
演劇は言葉で書かれたイメージを、人間の身体と事物によって、舞台とされる現実的な空間に、心と魂を持った人間の運命を実現するものと考えられる。その実現の仕方に、様々なやり方があり、きわめて写実的な実現の仕方がある一方、抽象的に実現する仕方もある。ルティ・カネルさんの演出した舞台は、抽象的に組み立てられていた。稽古は、従って人と物とが象徴としてくっきりとイメージを現すところに向かっていたといえよう。通しの稽古では、スピードを上げて仕草を繋いでいくようなことが行われていた。映像の編集作業で作品全体の展開をイメージするとき、早送りをするが、それと似ているのかも知れない。つまり、象徴の連なりと見るとき、それはイメージの連鎖ということになる。稽古の始めに、ルティ・カネルさんが語った、「事物が象徴する意味合いを持つということ。人間が事物に意味を与える。そこに人間の責任がある。変化という可能性を意識し、それを信じるところに演劇の根元があり、そこから芸術が生まれてくる。個人個人が意味を見出して欲しい。」ということの実践が、この二ヶ月の及ぶ稽古だったわけである。
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「母アンナ・フィアリングとその子供たち」の公演は、シアターXで4月1日から7日までの間に10回行われた。舞台の上では、三十年戦争の1624年から1636年までの12年の間に、従軍の軍隊付きの女商人アンナ・フィアリングが、商売の品物を車に積んで、軍隊と共に各地を経巡るうちに、二人の息子と一人の娘を戦争のために失うという物語が展開される。物語は、アンナが商売に欲を出した隙に、長男が徴兵係に連れ去られてしまうところから、町の眠っている人たちに敵の襲撃を知らせるために屋根の登って太鼓を叩いて撃ち殺されてしまった娘を弔って、一人で車を曳いて商売の旅を続けるところまでが、10のシーンで展開する。舞台は幕が無く、両袖に鉄骨が組まれ、中央に幅6メートル80センチ、奥行き6メートル40センチの少し高くなった台があり、真ん中の天井から一本の太い綱が下がっていて、そこがアクティング・エーリアとなる。開幕時には、60個の大小の古いトランクが後方に積み上げられていて、二人のナレーターが舞台前面に出てきて話しの導入をしたところで、後方のトランクが一斉に押し倒されて、ダンサーたちが乱れて舞って、そのトランクを脇の鉄骨の下の運ぶ。綱に結びつけて吊り下げられた数個のトランクを下手の奥からアンナとその子供たちが押して来て、上手前方の徴兵係の兵士と出くわすところから劇は始まった。
二人のナレーターは黒いコート、その他の役者は、老大佐の愛人になる女と従軍牧師を除いて、ダンサーも、工事現場のとび職が切るだぶだぶ作業着で、戦場の雰囲気が出ていた。60個のトランクは、役者のアクションによって、アンナたちの商売の車になるばかりでなく、野営のテント、戦場の機銃に、また金庫や弾薬箱に、小さいトランクはブランデーの瓶になっていた。三谷昇が演じる一人のナレーター1は主にシーンの導入を語り、もう一人の山本健翔が演じるナレーター2は、シーンの中の状況とト書きを述べて説明する役となっていた。ダンサーたちは、アクティング・エーリアの外で背嚢を背負って行進したり、葬列の行進をしたり、平和に沸く民衆の踊りをしたりして、身体的なアクションでシーンの状況の背景のイメージを作っていた。セリフの遣り取りは、シーンの状況を背負い込んだリアルなものではなく、それぞれの人物の関係と運命を進める言葉であり、人物の立場から発するメッセージとして観客に向かって述べるものだった。特に、劇の進行中に二つのシーンで、別のブレヒトの劇「例外と原則」の導入部で演技者たちによって述べられるセリフ、「この人たちの行動を注意深く観察するがいい。ありきたりなのに思いがけなくて、普通なのに奇妙で、当たり前なのに不可解なのが分かるだろう。」が、ナレーター2によって、正面から観客に向かって述べられた。
ルティ・カネルさんの演出は、人物や事物をシンボライズすることによって、舞台という現実の空間を映像のようにスピーディに展開することで、タイトルで前面に押し出したアンナ・フィアリングという一人の母親が、逞しく生きていこうとすると、戦争に巻き込れて、その強大な力に押しつぶされていく姿を鮮明に描き出した、といえよう。「肝っ玉おっ母とその子供たち」は、三十年戦争という昔の話しとして書かれているが、それだけに人間関係が単純に見えるところで、人間の姿が浮き彫りされているが、この構成では、それを更に母と子の関係に絞って、ルティ・カネルさんの最初の話し出た社会と個人のあり方を強く語ったものと、わたしは受け止めた。(2005.4.17)
この後もうちょっと書き足したいけど、とりあえず、ここまでということでアップします。