![]() 葉が無くなって、花だけの朝顔 |
15日にムービーファイルの圧縮ソフト「Cleaner 6 」を買いに行った折に、「FALASH MX Professional 2004」も買ってきた。「Cleaner 6 」はムービーファイルの大きさを7分の1ぐらいに圧縮できる。「自来也」の「メケメケレヴュー」をテープから取り込んで、そのままQuickTimeのムービーファイルにしたら、99.3MBもあった。それを編集して57MBのファイルにしたが、それでもwebにアップするには大きすぎると思って、「Cleaner 6 」で圧縮することにしたというわけ。実際にやってみると、圧縮したファイルは8.5MBになった。これでも、転送レートが遅いISNDのわたしのところだとダウンロードするのに20分は掛かってしまう。もっとも、ADSLや光通信なら8.5MBぐらいはさっと表示されることだろう。速いに越したことはないのだから、圧縮技術は益々要求されると思いますね。
「FLASH」は、やってみると面白い。先ず、先週は来月に開く写真展の写真を使って、写真をクリックすると、次々に写真が変わっていくというインタラクティブな「スライドショウ」を作ってみた。「スライドプレゼンテーション」という「テンプレート」があったので、そこに写真を読み込んで、その写真に「ビヘイビア」というパネルで、「mouseUp」という動作を付けると出来た。なるほど、ですね。この「ビヘイビア」のワンクリックで、実は
on (mouseUp) { // GoTo Next Screen behavior var screen = null; var target = this; while((screen == null) && (target != undefined) && (target != null)) { if(target instanceof mx.screens.Screen) { screen = target; } else { target = target._parent; } } if(screen instanceof mx.screens.Slide) { screen.rootSlide.currentSlide.gotoNextSlide(); } // End GoTo Next Screen behavior }
というようなスクリプトが書かれているようです。このスクリプトが「ActionScript」というので、多少プログラミングをやったことのあるわたしとしては、俄然面白くなってきたというわけです。オブジェクト指向のJavascriptに似てます。
「FLASH」といえばアニメーション。わたしは絵が描けないので、一つ円を描いて、それをタイムラインでフレームを指定して移動させてみると、なるほど、動くじゃありませんか。「円を動かす」というFlashムービーですね。解説書も2,3冊買ってきました。わたしには、アニメーションを作るというより、そのActionScriptの方が面白そうという感じなんですね。この秋は、「FLASH MX」と「ActionScript」に夢中になりそうです。
夜になって、また一つFLASHで「写真展のスライドショウ」を作った。いろいろとやってみたくなるのですね。
![]() 今年の写真展のDM |
10月19日から24日まで、今年も石井茂さんと澁谷の「Gallery LE DECO」の5階で写真展を開きます。展示する写真は例によって魚眼写真だけど、今年は多摩美の4年生の女子学生たちを撮った。昨年、90センチ四方のパネルに大きく引き伸ばした写真を2枚展示したが、その大きさが気に入って、どうせ大きくするのなら、日頃気さくに話しをしている女子たちなら喜んでくれるのではないか、とまあ単純に考えたわけ。というわけで、わたしにとって「sutekina hitotati」。女優さん、演出家、脚本家、アーティストという皆さんです。
女子たちの写真にしようと思って、頼まれたり頼んだりして、上野毛キャンパスや卒制合宿に行った多摩美の富士山麓セミナーハウスで撮影した写真に、17日に下北沢で撮った写真を加えて、「6人の美女」に決めた。大学で教えている女子学生を「6人の美女」なんて言ってはいけないのかも知れませんね。たしかに、教員のわたしにとって彼女たちの他にも女子学生は沢山いるのですから、敢えて6人を選んだということになってしまいます。選んだのではなく、居合わせた偶然といっても、「6人」は「6人」ですから、駄目ですね。「6人」は4年生ですからもう数ヶ月でキャンパスには来なくなり、卒制の舞台や展覧会場を最後に卒業式の日まで、もう彼女らはキャンパスから姿を消してしまうでしょう。実は、そこにわたしのような老教員にとっては、微妙な感情が働いて面白いのです。学生たちというのはいずれキャンパスを去っていくのです。今までにも「美女たち」は去って行ったのでした。
![]() ひょっこり咲いた玉すだれの花 |
今週から多摩美の後期の授業が始まった。担当している「表現Bコース」では、今期は来年の1月までに、学生たちが何らかの作品を作ることになるのです。6日の授業では、前期に発表された作品について批評をして、7日には、「作品というもの」が持つ意味合いについて話しをしました。
作品は完結している、もしくは完結を迫られている。それは物や事であると同時に意味を担った記号の集合体でもある。その意味は、作る人、受け止める人によっていろいろだが、そこに意味が生まれてなければ、ゴミなってしまう。そのゴミも、「意味」と対比されるとまた「別の意味」になることもあるというように、「意味のあり方」は複雑だ。というようなことから、
作者はこの意味の生まれ方を仕組んでいくわけ。 その仕掛けの工夫が、「技巧」といわれる。作品表現が芸術的かそうでないかは、表現するときに、それなりに工夫がされているかいないかによる。それはまた、作品の受け手とどういう関係を持つかということでもある。この工夫の発見が表現の歴史ともいえる。ということは、「技巧」というのは、表現のシステムとも考えられる。「意味が生まれる仕組み」は、例えばカメラで撮影するところから編集してスクリーンに上映するまでを一体にして考えなければならないから。そこでの独自な工夫の発見が独自な意味を生むことになる。工夫が大切。なんて言うような事を話した。また、もし表現者になろうと思うなら、20歳代前半のみんなの歳で決意して掛かったほうがいいよ、などとも言った。作家になるという決意があるかないかでは、作品に取り組む姿勢が変わってくるから、まあ、そんなことも言ってみるのですね。彼ら彼女らは、10月までに企画を考えて、それから制作ということになります。
![]() 風に吹かれる猫じゃらし |
8月31日は、全国的に台風が吹き荒れた日でしたが、東京澁谷のわたしの家の小さな庭でも強い風が吹いて、猫じゃらしなどの雑草や朝顔の蔓を掻き回していました。わたしは先週から今週に掛けて、「自来也」公演の「各パート講評」と題した文章を毎日書いていました。別に頼まれたわけではないけど、稽古から連日付き合って「自来也」公演が頭から離れないので、こいつを始末しなければ先に行かれないという気持ちだったんです。公演の後、数日過ぎても、午後の3時頃になると、今頃だいたい役者たちが稽古場に集まってきてストレッチ体操を始めているころだなあ、という思いが頭を過ぎって、役者たちの姿が思い浮かんでるという始末だったのですね。公演の舞台より、連日繰り返されていた稽古の方が印象としては強烈だったということです。わたし自身は別に稽古していたわけではないのですが、身体を使って何かそこに立ち上げていく過程というのが刺激的でした。こういう経験はわたしには初めてでしたからね。
「自来也」公演の舞台を思い起こしたり、ビデオで場面を確かめたりしているうちに、学生の野上絹代さんの演出がそれぞれの場面をイメージとして作っていることに気が付いたんですね。わたしがこれまでに見ていた舞台は、太田省吾さんとか清水邦夫さんとかの舞台で、それぞれの世界には違いはあっても、抽象的に作られていたことは確かですが、舞台上での役者の動きは、その空間の中で身体ということではリアルだったといえます。太田さんの場合だとむしろその身体のリアルなあり方を前に出してくる舞台だったと思うのです。先日見た東京芸術座の「GO」の舞台も、抽象的な背景の前で短いシーンが素早く展開して進められるものでしたが、その短いシーンは話しを語る情景として設定されていてイメージにはなっていませんでした。それに比べると、「自来也」の舞台は「映像(イメージ)」に近いものになっていたと思えます。これが、新しいのかどうかは分かりません。しかし、わたしの受け止め方では、漫画世代の舞台のあり方が「身体」というところから「イメージ」というところに移っていくのかなということですね。
この「自来也」は時空がいろいろなところに移っていくように書かれていて、しかも一貫性を要求されているので、場面をイメージ的に扱わざるを得なかったのかも知れません。そして一度イメージ的に作ってしまったら、イメージの特徴としてその要素が象徴性を帯びてくるのですね。演劇では仮面による象徴的表現ということがいわれますが、それとは異なって、場面がイメージ的になると、その要素がすべて象徴的な意味合いを帯びてくるわけです。それはまさに漫画の世界ということです。漫画は象徴化された図像の関係で展開する世界ですから、作者の思いのままが実現されます。それは、関係でがんじがらめになって動きが取れなくなっている現実とは対照的な世界ですね。ちょっと飛躍すると、舞台のイメージ的展開ということで、演劇の持つ開放性はかなりの力を発揮するかもしれません。若い人たちが演劇に熱を入れるのはそういうところに惹かれるからとも考えられます。イメージの方がリアルだという日常の生活環境ですからね。