![]() デンドロビウムの花 |
多摩美の映像演劇学科の入試があったのはもう二週間も前なんですね。今年もおよそ30人ほど受験生が減って、数年前の多かった頃の半分余りになって、専任の教員としては心細く寂しい感じがした。人気がなくなったからではなく、世に言う少子化現象が露わになってきたということですね。ちょと危機感が出てきて、映像演劇学科では来年度から「生き方入試」と称した自己推薦入試をやろうという話になっている。映像と演劇の枠を越えて表現というところに絞って教育するのだから、「生き方」を問う入試が適切なのではないかというわけです。これまでにも、映像演劇学科は受験生全員に面接をするというやり方を取ってきたので、そのコミュニケーションに一層力を入れるということでもあるわけ。わたしは今年の入試で40人ほど受験生と面接したが、素直な子が多くなったなあ、という印象だった。
多摩美の入試の後、すぐに「イメージフォーラム付属映像研究所」の第27期生卒業制作展があって、72作品が11のプログラムに分けて、イメージフォーラムの「シネマテーク」で一週間に渡って上映された。わたしは専任の講師でもあるので、連日通って全部の作品を見ました。6、7本の作品が上映されるプログラムを続けて三つ見ると目がしょぼしょぼしてくる。でも、わたしには一般に公開されている映画より遙かに面白い。例えば、この卒業展で大賞を受賞した平田孝広君の「The train」という作品は、次々に通過する山手線の車両の連結がどんどん伸びていき、永遠に車輌が通過し続けかに思えたところで、今度は一輌一輌の車輌がどんどん短くなってなっていって、遂に運転席だけの車輌になってリズムを刻んで通過して行く、という5分の作品だった。「やったね、平田君!」ですね。DVカメラで山手線を撮影して、パソコンで車輌を伸縮させて見せたわけ。どうやって作ったのか、訊いてみたら、「企業秘密ですよ」といって、教えてくれなかった。
優秀賞になった大木千恵子さんの「つぶつぶのひび」は、納豆工場でアルバイトする女子学生の作者自身の話。1分に120個で1日で60万個の納豆ケースが生産される工場で働いて時給850円、風俗で働く高校時代の友人に会って話を聞くと、彼女は月収30万円だという。彼女は悪びれずに風俗の仕事の内容を話してくれる。彼女は彼女、わたしはわたしということで、二人は友だち。空を飛ぶ夢を見るのは欲求不満だからと聞いて、ボーイフレンドと寝てみたがどうってことない。いっそ実際に空を飛んでみようとアルバイトで貯めたお金で小型飛行機をチャーターして乗って、自分が働いている納豆工場の上空を飛んでみる。子どもの頃、畑で空を飛ぶ飛行機に手を振っていたのを思い出し、実際に畑に行って飛行機に向かって手を振ってみる。そして、スーパーで自分が作った納豆を買っていく人を目撃して感動する。
多摩美の1年生の作品「たんざわ」でも触れたが、この大木千恵子さんの作品「つぶつぶのひび」も、自分のこととして語られているが、彼女なりの社会に対するアクセスの過程が語られていると言えると思う。そのアクセスの仕方は、個人的にアクセスしていくのだが、一つの行動として試みられているところが今までにないやり方なのだ。風俗で働く友人は、事務所で働く女性のように、相手の男たちに対して仕事として誠実に対応していると素直に屈託なく語る。それを聞く作者も普通のこととして聞いている。そして、映像作品にするからとは言え、小型飛行機をチャーターして上空から納豆工場を撮影する。俯瞰して空間的に自分が生きている場所を確認して位置づける。スーパーに行って自分が作っている納豆が売れるのを見定める。つまり、流通の中に自分の日頃の作業を位置づける。これらのことは、個人的に社会とコミュニケートするためのアクションといえよう。映像作品を作るということが、若い人たちに取ってコミュニケーションの行動を起こすこととなっているのですね。映像というものの持つ意味合いがやや変わってきているように思います。
このところ二、三日肌寒い日が続いています。咲きかけていた桜も身を縮めているようです。21日にイメージフォーラム付属映像研究所の卒業式がありました。25日は多摩美の造形表現学部の卒業式です。まあ、いつもの三月に卒業式があって続いて四月に入学式があるという流れなのですが、わたしの意識は例年とはちょっと違います。多摩美は後二年で定年になるので、多摩美の卒業式も入学式もあと二回、なんて数えてしまうからです。寂しさがだんだんと色濃くなって行くわけです。季節の変わり目ですね。
![]() 「韓国インデペンデント映画2004」のチラシ |
今年の1月から韓国では「第4次日本大衆文化の開放」が施行されたのを機会に、文化庁主催の「韓国インデペンデント映画2004」と銘打った韓国映画の上映会が、東京の青山の「シアター・イメージフォーラム」で、3月6日から12日まで開かれて、劇映画、ドキュメンタリー、アニメーションなどの作品25本が、9つのプログラムに分けられて上映されている。わたしは、上映された作品全部見た。5日のオープニングパーティに行って、招待されて来日している監督たちが若いのに驚いた。今回上映される作品の監督たちはほとんどが30代で、あとは40代と20代だ。翌6日に、朝から出かけて、二つのプログラムを見て強烈な刺激を受けて、7日は朝から夜まで、4つのプログラムをぶっ続けに見た。すごく面白かった。映画に真っ正面から向き合っている。それぞれの作品が独自のスタイルを持って強引なくらいに自己主張している。それが力になって迫ってくる。すっかり引き込まれて、9日と10日とで9つのプログラムを全部見てしまった。
最初に見たのが、キム・インシク監督の「ロードムービー」という作品。妻が持っていた株の取引に失敗した若い男が身を持ち崩してホームレスの中に紛れ込むと、そこのボス的存在の男に親切にされる。実はこの男は元登山家でホモセクシアルだが、彼に一目惚れしたというわけだった。このホモの男は最後の方になって初めて自分の愛を告白するのだが、映画は、彼が一途な思いを抱いて一目惚れのホモでない若い男の心を獲得するまでを、韓国の様々な土地の様々なシチュエーションを経巡って展開する。ホモの男を好きになる女が絡んできたり、二人に友情を持つ盗みを働いた男が関係してきたり、人間関係も複雑に展開する。都会の地下道から始まり、鉄道や道路で移動して、製氷工場やダイナマイトを使う石切場など、映画的に絵になる場所を使ってのシーンが多く、見せ場見せ場を作りながら、男たちの真情が浮かび上がって来て、最後に塩が積み上げられた海岸近くの小屋で、二人が身も心も結ばれて終わるという作品だった。一途な思いがあっても、関係が関係だけに、命がけで相手に尽くしても、なかなか通じない心がようやく通じるというところで、ホモセクシアルということを越えて感動が伝わってくる。
何本かの作品を見ていくうちに、「ロードムービー」のタフで無口だが、最後まで諦めないで自分の思いを持ち続けて、相手の心を開くというこの主人公の姿が、韓国の映画監督の精神を象徴しているように思えて来たのだった。キム・ホンジュン監督の「マイ・コリアン・シネマ」は、韓国映画からいろいろと引用して作った5つのパートから出来ているエッセイ風の作品だが、その「パート2」は1970年代に行われていた政治的検閲を扱っていて、映画に生きる者の表現の土性骨を語っているように思えた。1975年に公開されたハ・キルジョンの「馬鹿たちの行進」を、当時学生だったホンジュン監督は見ていて、その主人公たちの反抗精神に感動しなながらも、疑問を感じるところがあったという。その疑問に感じたところに焦点を当て、当時の厳しい検閲で切り落とされた部分を復元してみせるのだ。当時は学生が長髪でいるだけで警官に捕まって髪の毛を切られということがあったいうことだが、「馬鹿たちの行進」の主人公たちはまさ長髪で街は中を警官に追い回されるという反抗的な学生だが、それが、彼らが後半になってがらっと変わって、すっかり現実的になって、「東海の海原に鯨を捕りに行くんだ」というような台詞で終わっている。ホンジュン監督は当時その変わり目に疑問を抱いていたという。実際、検閲で切られた部分を復元してみると、単に心が変わったというのではなく、学生運動の闘いで敗れて苦渋を飲み込みながらの、将来への思いを語ったものだったのだ。その苦渋の思いを表す部分が見事にすっぽりと切られていたというわけ。復元されたカットで、「マイクテスト、1,2,3,4」と繰り返し叫ぶ声がキャンパスに響き渡るが、それがまさに学生たちの政府に対する抗議の叫びに聞こえて、胸に迫って来るものがあった。政府の弾圧を決して忘れていないんですね。それを胸の底に持って、現在の作品を作っている。それぞれの作品のどこかに、自分たちの人生とか、社会の現実とかに向き合う姿勢が感じられるのは、そうした歴史を踏まえているからと思える。
「もし、あなたなら」という作品は、現在もっとも注目すべきといわれる6人の若手監督が「国家人権委員会」のために作った短編のオムニバス映画で、この作品にも驚かされた。ヨ・ギュンドン監督の「大陸横断」という話は、脳性小児麻痺後遺症の身体障害者の俳優が、日頃差別されているところをユーモラスに描き、最後に大都市の大きな交差点で、自動車がびゅんびゅん走っている最中に、松葉杖をついて斜めに横断して行くの高いところにカメラを据えて撮影する。行き交う自動車の間をよろよろと行く俳優が中程まで行くと、二人の警官が笛を吹いて慌てて追いかけ、捕まえて連れ戻そうとするが、俳優は路面に寝転がって横断させろと喚き散らすところで終わる。パク・ジンピョ監督の「神秘的な英語の国」は、子どもが英語に上手くなるようにと、親が子どもを歯医者に連れ行って舌の先を切らせるという話。母親が泣き叫ぶ子どもの脚を押さえて、手術を受けさせるところを延々と撮影して、術後、母親の抱かれて看護婦からオミヤゲを貰うところで子どもはそれを床に叩きつけて終わる。韓国では英語が出来ることが出世の条件ということらしいが、そこまでやるのかと、思わず溜息が出てしまった。パク・チャヌク監督の「平和と愛は終わらない」は、ネパールからで稼ぎで韓国に来ていた女性が、財布を忘れたためにラーメン代が払えず、無銭飲食の疑いを掛けられ、ネパール語しか話せなかったために精神病の患者と間違われて、病院や施設に8年間も留め置かれたが、ネパール人の青年と話す機会を得て、ようやくネパール人と認められて帰国することが出来たという話。それを、当時彼女と接した店の人や警官や医者などの証言で展開している。恐ろしい話だが、作品はネパールに帰って、自分の村で踊る女性の姿で終わっていて、言葉が通じ気持ちが通じる故郷で暮らす喜びが強調されていた。
キム・コク/キム・ソン兄弟監督の「半-弁証法」は、リンゴを写生しながら、ビデオ編集に追われる男を、幾筋もの時間軸を捩るように展開して、人間の存在の曖昧さを浮き彫りにしていく作品で、その実験的な手法が面白かった。パク・キヨン監督の「ラクダ(たち)」は、中年男女の密会の丸一日を、喫茶店、モーテル、食堂などのシーンで、固定カメラの長回しで描いて、男女の人間的な存在感を滲み出させている作品だった。また、チェ・ヒョンジョン監督の「ビーイング・ノーマル」は、大学の同級生の両性具有者を扱ったドキュメンタリーで、身体は男性で心は女性という人間が、心の葛藤を経ながら徐々に男性になって行こうとするところをぐいぐいと描いて、見ているものに迫ってくる作品だった。
わたしは、次々に見て行くうちに、刺激を受けるたびに、ついつい「日本の」映画と比べている自分に気が付くのだった。今の日本の映画にはこういう力はない、映画ばかりでなく、文学でもその他の表現でも、こういう強烈な刺激を与えてくれるものない、などと思い、「日本人ももっとしっかりしなければ」と、いつの間にかナショナリストになっていたんですね。
![]() ノートパソコン用クーラー |
![]() 増設したモニター |
新作の映像作品『極私的に臨界2003』は映像の編集がほぼ終わった。「Final Cut Pro 4」の編集にも問題はなかったが、シーケンスをつなぎ合わせて、全体を通してテープに出力するところでコマ落ちが発生して、タイムライン上の再生ヘッドが止まってしまい、テープの画像が止まっまま録画されてしまう事態が起こった。メモリは1GBも積んであるし、CPUのスピードも1GHzで問題ない筈、勿論HDDからの転送はFireWire800のポートを使っているから転送レートも問題ない。おかしい、と思ったが、もしかして「熱か」と思い当たって、PowerBookG4の裏側に触って見たらものすごく熱くなっている。そこで終了して時間を置いて冷えるのを待ってやり直すと、今度はすんなりと行ったのだった。やはり熱のせいでコマ落ちが起こっていたと判断した。 PowerBookと机の間には僅かばかり隙間を作ってあったが、4,5時間続けて使っていると温度が上がってCPUの働きが悪くなるというわけ。で、渋谷のビッグカメラで「ノートパソコン用クーラー」を買ってきた。結構よく冷えるし、音も静かで、これでコマ落ちは解決。
映像の編集が出来て、後はナレーションを入れて音楽をつければ出来上がりだ。音楽は昨年に引き続いて学生の見木久ヲ君に頼んだ。わたしはナレーションの言葉を考えて、自分で録音して入れることにしている。ナレーションの言葉、実は今度の作品では「臨界」なんていう言葉がタイトルに入っているが、その辺りの意味合いはナレーションで展開するしかない。映像は、自宅の庭のいろいろな花、特に朝顔の花の消長と、「越後妻有トリエンナーレ」に参加した海老塚さんの彫刻の設置風景と、何人かの人の作品とで構成されている。ナレーションでは、それを説明するだけでなく、わたしの芸術的表現の独断的な考えを述べたい。このわたしの「独断」の内容を今考えているところだが、自然の中に芸術作品を置くことの意味合いとか、建造物とか装置になった作品をどう受け止めるかということで、なかなか考えがまとまらない。テープに出力した映像を繰り返し見て言葉を考えているが、テープデッキの画面が小さすぎるので、使ってないディスプレイをモニターにして増設した。机の上にテープが散乱して、どうやらビデオ編集の室の雰囲気が出てきた。