2004年6月1日から30日まで


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2004年6月28日 蒸し風呂のような暑さの上映会。

中野クリーム上映会DM
 招待状が貼られて送られてきた
「中野クリーム上映会」のDM

 26日の土曜日、「ザ・ボディーシアター中野クリーム上映会」に行った。「中野光座」という閉館した映画館が会場で、冷房が無いので、まるで蒸し風呂に入ったような状態で、午後の2時半頃から8時半までおよそ6時間に、3プログラム25本の作品と2本の展示作品を見た。汗が止めどなく流れて、兎に角暑かった。通路に置いてある扇風機のそばに席を取って、借りた団扇を使い、貰った冷やし湿布をおでこに貼ったり首に貼ったりで見続けた。作品はみな、イメージフォーラム付属映像研究所の卒業生の作品で、既に見たものもあったが、4、5年前の卒業生の作品は新作だったから、「その後」が知りたくて全部見たのだった。この上映会は、1999年度の22期、2000年度の23期生が中心になって、「青空飢饉」というグループを作って、その4回目の上映会だが、わたしは初めて見に行った。行く気になったのは、送られてきたDMにビニールの袋に入ったピンクの招待券がぴったりと貼ってあって、そこに印刷されたいる人物が「どうぞ、ごゆっくりーむ」と言っているのが気に入ったからだった。

 入場して、会場のむっと来る蒸し風呂的な暑さに、わたしは終戦後のお盆の頃の映画館を思い出していた。小学生のわたしは、向島の橘館に休みというと通って、ニュースと本編を合わせて5本立ての映画を昼から夜まで5、6時間見続けたものだった。室内灯も暗く、椅子も壊れ掛けている中野光座の内部は全く戦後の映画館とそっくりだった。そこに、Aプログラムの門脇健路君の「続・戦争映画」(9分)が上映されたとき、「こんなのって、ありなの」とわたしは驚いた。スクリーンには東京大空襲のニュース映像が映写され、空襲警報で防空壕に逃れる女性たちや燃えさかる家が映し出され、更に現在の住宅地を逃げる女性たちが画像処理で炎に焼かれ、やがてスクリーンから映像が消えて、ただ「終戦ノ詔書」を「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」と読んで行く昭和天皇の声が流れ始めたからだった。「終戦ノ詔書」は映像がないままで全部読まれた。耳をそばだてて聞いていても、わたしは、「共同宣言ヲ受諾スル」とか、「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒテ」とか言うところしか理解できなかった。子どもの頃、現実に戦災を体験し、終戦の日にラジオから流れる天皇の声を耳にしているわたしは、過去の記憶と現在の体感が重なって妙な気分だった。門脇君は配られた作品解説の紙に「戦争という言葉というのか現象というのか、それを愛するための映画です。罪を憎んで人を憎まずというのか、戦争という現象自体に罪はないのです。」と書いている。戦争映画の好きな彼は、現実に起こった戦争を全く次元が違うところで捉えているわけで、現に「戦争のニュース」が連日報道されているから、敢えてその立場を主張したくなってこの映画を作ったのだと思った。凡そ40年以上の年齢の開きがあるとはいえ、すごい落差だ。これが現実なんだなあ、と蒸し風呂的な暑さの中に身を沈めた。

 会場の暑さにもかかわらずプログラムが進むにつれて客の数が増えていった。プログラムの合間に席の数を数えたら、真ん中の通路を挟んで、両側に63席で合わせて126席、6時半過ぎのCプロではそのドア側の片方がほぼ満席になり、奥の壁側もかなりの客がいたから70人か80人、いやもっといたかも知れない。同じ卒業生か、その友人たちと思われる。しかし、単に知り合いだから来た、というわけでもないように思う。映像で表現されている何かを求めてきていることは確かだ。門脇君の言葉を借りれば、「映像という現象自体」がそこにあるからだ言えよう。わたしもどんな映像があるかと思って行ってみたわけ。卒業してからも作品を作り続けているのが嬉しいという気持ちもあった。ひらたたかひろ君の「The trains Ver.2」では、運転席一枚に寸詰めされた山手線の車輌が線路のつなぎ目で歌を奏でていた。飯田美保さんの「独習」は二人の女性がストレッチ体操をしていて、それがやがて殺し合いになってしまうというアニメだったが、このところ毎日ストレッチ体操をやっているわたしには印象深いものだった。倉重哲二君の「スクリプティング・ゴースト」は、古い机と共に部屋に住み着いた幽霊が部屋にあるすべての本の漢字を床や壁にびっしりと書き写してしまうという話を味のある絵で描き、リフレインで組み立てて、作品が一層深みを増していくように思えた。蒸し風呂の暑さだったけど、作品を支える情熱の方が熱度が高くて、わたしの心は涼しく心地よかった。



2004年6月25日 梅雨らしい雨。

雨に濡れた葉
 雨に濡れた葉
濡れて咲くあじさい
 濡れて咲くあじさい

 雨に濡れた庭の植物が、気分を落ち着かせてくれる。テーブルの椅子に座って、ぼんやりと庭を眺める。雨の中を出かけるのは余り好きじゃないけど、雨が降るのを眺めているのは好きだ。牡丹の葉の上に雨の滴が玉になっているのを見て、カメラを持ち出して撮影した。ついでに、ストレッチ体操をしている自分の姿も撮影してみる。腰に重きを置いて、前、後ろ、左右に曲げている筈なのに、寸胴の筒のように腰の辺りが全然曲がっていない。ドラム缶に頭と手足を書き加えた漫画があるが、ちょうどそんな姿になっている。この不格好は情けないが、長年の運動不足の結果、そうなってしまったというわけ。身体が思うように利かなくなると、心も弱ってくるようでは困る。一ヶ月続いたストレッチ体操、この先もずっと続けて足腰の柔軟性を取り戻そうと思う。

 最近は脚が痛くて歩くのがままならないので、駅まで行くにも自転車を使い、行く先も駅で降りてから歩く距離があると適当にタクシーを使うということになって、家から外出先へ往き還りする道筋がだいぶ変わった。多摩美の上野毛キャンパスに行くにしても、自転車で代々木上原駅に行き、エレベータで改札口に登って、更にエレベータでホームに出る。乗り換えの表参道でもホームに出るのにエレベータを使う。そして、二子玉川ではエスカレータで一階の改札口を出て、構内のパン屋で夕食のハンバーガードックを買って、タクシーで660円払ってキャンパス構内まで乗り付ける。自転車で上原駅に行くのも、上の商店街を行くので、歩いていた下の道は殆ど通らなくなった。わたしが通らないでいるうちに、その道筋にあった上原中学校の解体が進んで、講堂やプールが壊されてしまった。いつの間にか風景が変わっている。ホームに立つ場所も変わって、そこでのわたしの視野も変わる。

 表参道の駅で千代田線に乗り換えるとき、以前は階段から遠い後ろの方に立っていたが、上原駅のホームにあるエレベータに近い位置の階段を下りたすぐのところに立つようになった。そこは階段の下でホームの幅が狭いので、通り過ぎていく人たちの顔が、身を引いて立っているわたしの前のかなり近いところを通り過ぎていく。7、80センチと離れていない。近くを通る人は30センチぐらいのところを歩いて通り過ぎる。30センチという距離は満員の車内なら普通だが、次々に通り過ぎていく顔となると、非常にリアルな感じになる。その顔のリアルな感じが気味悪い。雑踏の人の感じがちょっと変わったなあと思う。若い人がごった返す澁谷のセンター街など怖い感じがする。街頭の人々が与える印象が怖いという、そんな世の中になってしまったのか、と思いながら、なるべく人にぶつからないように脚を引きずって歩いている。



2004年6月20日  梅雨だというのに、晴れている。

庭に生えた猫じゃらし
 庭に生えた猫じゃらし
斉藤君の写真
 K.S君とこ斉藤邦彦君が撮った写真

 梅雨期だというのに雨が降りませんね。11日に降ったきり晴天が続いている。11日には「なかのZero」であった多摩美映像演劇学科の今年の卒業生達がやってる上映会「Bring it on! 」に行った。自分たちの作品と彼らの知り合いの映像作家たちの作品が、午後の3時頃から夜の9時過ぎまで上映された。わたしは、既に見た作品もあったが、最後まで付き合って、更に打ち上げ会までついて行った。雨の中、傘を差して、中野駅周辺の飲み屋まで歩いた。続けて上映会をやっていこうという彼らを、観客が少なかったので、励ましたい気持ちだった。「8月にやる上映会までには新作を作る」という声が出ていた。楽しみだ。

 卒業制作で映像作品を作って卒業したからといって、それで映像作家と認められるわけではない。フリーターをやって、映像作品を作り続けて、自分で上映活動をやって広めるか、コンクールに出して入賞するか、それでも世間的には作家として生活できるということにはなかなかならない。役者を使ったストーリーものの作品を作るには最低数千万円かかるといわれる。フリーターやってちゃ、とても集まるお金じゃない。どなたかどさっと彼らに無条件でお金を出してくれる人はいないものでしょうか。若い映像作家を元気づける潤沢な「制作基金」が欲しいですね。

 先月、写真を撮り始めたK.S君と紹介した斉藤邦彦君がとうとう写真展を開くに至った。掲示板のある廊下の壁に写真を並べて展示したいという「自主企画書」が提出され、OKが出て、14点の写真がパネルに貼って展示された。その前にベンチを置いて、そこに感想を書くノートが置いてあったので読んでみると、初めて斉藤君の写真を見る驚きと、あれがいいこれがいいという品定めの感想文が数ページも書かれていた。中には、何番目の写真が欲しいという声もあって、人気は上々だった。「よかったね」と斉藤君に声を掛けたらにこにこしていた。

 18日の昼頃、上原の家の近くからタクシーを拾って、茶沢通りを三軒茶屋に向かっていく途中、下北沢の踏切で踏切が開くの待つ僅かな間、車の窓からぼんやりと雑草が生い茂った空き地とその向こうの建物を見ていた。家が密集しているところに空き地があったからというわけでもないが、わたしは何か廃墟に立ち会っているような気分になったのだった。真夏のような日差しがわたしの心に空隙を感じさせた。人に説明しても、説明が無駄になる気分。手応えのある空っぽ。この気分を基に今後わたしは生きていくのだろうというスリルもあった。

 タクシーで三茶に向かっていたのは、4人の学生が合宿して「自来也」という演劇の台本を書いている部屋に行くためだった。その日は合宿3日目で、それまでに話し合った結果、「純愛」で纏めようと決めて、場面なり展開なり、それぞれが内容を書いてみるという日になっていた。わたしは傍らにいて作者たちが遣り取りする会話を聞いているだけで、19日の午前中までに台本として纏めさせるという進行役。この台本は、8月の21日と22日に上野毛キャンパスで開かれる多摩美の今年の「進学相談会」で上演する芝居の台本なのだ。歌舞伎の「児雷也」を元に学生と卒業生が中心になった芝居をやって、受験生や父兄や高校予備校の先生たちに、映像演劇学科をおおいに知って貰おうというわけ。「児雷也」は、攻め滅ぼされた城主の息子が仙人から授けられた蝦蟇の妖術を使い、犯行現場に「自ら来たる也」と書き記す義賊になって敵を討つという話しだが、いろいろな「児雷也」があって、結局は終わりのない話しになっている。その「児雷也」と高橋士郎学長の風船作品の巨大な蝦蟇とを使って、新たな演劇を組み立てようという試みだ。話しに終わりがないということと結ばれないということが重なって「純愛」になった。そして、「自ら来たる也」と自己主張する児雷也が、結ばれない愛のために絶えず変化する複数のセルフイメージに悩み、月世界に飛び出すことになった。

 この4日間は、若い作者たちの次々に出てくるアイデアに付き合い、または授業に出て表現の話しをし、その合間に学生たちの作品制作の相談にのって時を流れて行くという日々だった。それは時空を斜めに旅していたと言ったらいいかもしれない。左脚の痛みは、連日15分ほどストレッチ体操をして、食事の量をほぼ半分にしたせいか3キロほどやせて、少し楽になった。



2004年6月4日 あじさいの花が色づき始める。

あじさいの花
 色づき始めたあじさいの花

 あじさいの花が色づき始めた。先日の雨では首を垂れていたが、晴れた空の下で首を伸ばして色を深めていくようだ。その花を部屋の中から眺めているわたしの気分は浮かない。左の膝と大腿が痛くて、50メートルぐらい歩くと、キクッと痛みが走って立ち止まるといった歩き方になっている。歩行がちょっと困難ということ。ところが、自転車を漕ぐ分には痛みはない。で、最寄りの代々木上原駅までは自転車で行き、この4月から利用できるようになったエレベータで改札階に昇り、改札を通ってまたホームまでエレベータに乗る。といった具合にバリアフリーの厄介のなっている。階段は昇りの第一歩がきついのでとても助かっている。先々週、病院に行って、レントゲンなど撮って見て貰ったら、関節に異常はないが、老齢で軟骨が減って来ているのと、太り過ぎと、運動不足でしょうという診断だった。それで、サメのヒレの加工食品を食べ、食事の量をほぼ半分にして、毎日ストレッチ体操をしている。それにしても、歳を取るって情けないなぁ、と思う。

 6月3日の新聞に長崎の小学6年生の女の子が仲のいい同年の女の子をカッターで斬りつけて殺すという悲惨な事件が報じられていた。夕刊では、ホームページを作っていて、チャットに悪口を書き込まれたのが動機とかと書かれていた。Web上の言葉はすごい力を持つということを改めて感じさせられた。その力に幼い女の子は突き飛ばされてしまったといえよう。もともと言葉は感情を襲う力を持っている。会話の場では、その力が表情によって吸収されるが、会話の場を離れたところでは、つまり書かれた言葉になると、吸収されるところがない上に消えずに残ってしまうために、読み返すたびに感情が累乗的に働くということに、慣れてなかったからだろう。書き言葉は、形式を整えることによって、発現する意味が限定される。形式が整えられてない書き言葉は暴走する。Webではそれが爆発的に暴走する。気を配らなければならない。Webという空間が身近になった現在、作文を書くという訓練する場合、そういう言葉の働きについても訓練が必要だと思う。





  















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