2004年1月1日から31日まで


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2004年1月25日 多摩美映像演劇学科FT発表会に通い詰める。


上映会場入り口
 発表会上映会場入り口
「espace」イベントに参加した学生たち
 嶋田衣里子作品「espace」のインスタレーション
 のイベントに参加した学生たちその1
「espace」イベントに参加した学生たち
 「espace」のイベントに参加した学生たちその2
「espace」イベントに参加した学生たち
 「espace」のイベントに参加した学生たちその3

 この1月19日から25日までの一週間、多摩美・映像演劇学科では「Field Trial2003年度後期フェスティバル"ATOMIC FLASH"」が開かれている。映像演劇学科では2003年度からカリキュラムを一新して、2,3年生が6つのコースに分かれて、「Field Trial」という授業枠の中で創作の演習を行い、年に2度発表会を持つことになった。今回の発表会はその1年目の成果ということになる。発表された作品は全部で62作品、内訳は映像作品が16mm、8mmフィルムとminiDVを合わせて27作品、写真の展示が12名、講堂の舞台を一杯に使う大がかりなものからノートパソコン上絵本まで含めて展示作品が16作品、演劇が3作品、ダンスが二つ、人形劇が一つ、それに校庭での身体パフォーマンスが一つあった。演劇は概ね1時間以上、映像作品は3分ほどの短いものから1時間程のものもあって、全部見るには毎日午後1時から10時までのプログラムと、上映会場となった映像スタジオや演劇スタジオなどの9つの会場を縫って、月曜日から金曜日まで掛かってしまった。それぞれの作品が精一杯に作られていて、圧倒的な力迫ってくるように感じられて見応えがあった。そして若い人たちのある点で繊細な、またある意味で直截な表現に立ち会って、「表現」ということについて改めて考えさせられることにもなった。

 「表現」というときの、その意味合いがわたしの意識と若い学生たちの意識とははっきりと違う。わたし自身、表現ということについて意識の持ち方が変わってきたが、その変わってきたところで、わたしは現在自分が表現者として作品を作り出すに当たって、「何もないところから出発したい」とは思っているが、その「何もない」ところから出発しても、作品が出来たときにはそこに何かがあるはずだと思っている。そのわたしの意識からすると、「彼ら彼女ら」の表現は、「何もないところ」を「何もないままに」表していると見える。実は、この「何もないところ」というのは、「個人」という存在の場のことで、わたしは「個人」というものは存在するとまだ固く信じているが、彼ら彼女らはどうもそうではないらしい、ということなのだ。わたしの意識からすれば、「個人」から出発して「個人」を越えたところに至れるというのが「表現」ということになるのだが、「個人のままで表現になる」というのが彼ら彼女らの表現意識のようだ。

 今回見た映像作品に竹内仁美さんの「ハネムーンは浅草まで。」という作品があったが、それはお母さんと離婚したために数年間会ってない自分の父親と4日間を共に過ごして、自分にとっての父親という存在を確かめるという内容だった。会ってみたいという気持ちに駆られて会いに行ったものの、いろいろと話しているうちにその思いがだんだんと冷めて来て、もう当分は会うこともないだろうと父親に告げて自分の部屋に帰ってきて、自分は母親の子であって父親の子でなかったという思いを抱き、自分の部屋の窓を開けて外を見る。父親の籍にあった自分の戸籍を自分自身の手で母親の戸籍に移したという「入籍届」の書類が最初に出てくるが、そこに作者の父親と決別する決意がった見られる。その過程をminiDVのカメラで綴っている作品。作者自身が撮影した自分の顔、作者が手に持ったカメラで撮った父親の姿、父親の部屋、一緒に行った所などが写されている。父親の話から、若い頃は小説を書いていて雑誌に応募したことがあるとか、娘には会いたいと思うことがあるが、別れた女、つまり彼女の母親には会いたいとは思っていない、などということが分かる。父親が海が好きだったというので、一人で海に行って、砂浜を走ってみるが、父親の気持ちとは重ならない。初冬の日差しに照らされた皺の深い男の顔、夜暗い部屋で鼾をかいて寝ている男の顔、男の話、見ていて作者の気持ちが冷めていくのが感じさせられる。そして、街中の道路で突然父親に別れを告げ、父親が去っていく姿を写してから振り返り自分の部屋に向かう。娘は父親への思いを断ち切ったというわけ。その自分の気持ちを語ったという表現だ。「娘の父親という存在に対する気持ち」とか、「娘にとっての父親の存在」とかいうものでなく、ただただ「竹内さんの気持ち」がそこにある。わたしは竹内さんとよく話をしたりするから、その気持ちがよく分かって、彼女への親愛感は一層深くなった。表現として竹内さんを知らない人がこの作品を見た場合のことを考えると、竹内さん自身が現在学生で映像表現を志していること、そしてお父さんが送っている生活なども描いて、客観的な視点があった方がよかったのでは、とも思った。

 嶋田衣里子さんの作品は、更衣室とシャワー室を使って、展示とインスタレーションと称したイベントを仕掛けた作品。その一つは「relation」と題して、シャワー室の天井から円形の銀紙が垂れ下がり、壁に写真を入れた透明な半球が展示してある。もう一つは、更衣室とその狭い通路にビデオカメラを設置して、入ってきた人に何かやってくださいと言って、何かやらせてそれを撮影して、持ってきた貰った好きなCDを聞きながら見るというもので、「espace」と題してある。わたしは好きなCDとしてアフリカの民族音楽を持って行って、カメラの前でやっている学生たちのアクションを見たら、これがぴったりだった。わたしにも何かやれと言うことだったが、実際カメラの前で身体を動かすことなど出来ないので、それは断った。しかし、カメラの前に来た学生たちが次々にほとんどアドリブで踊ったり何かアクションをやってしまうのに驚いた。学生たちは、少々照れたりするが、アクションを始めてしまうと、なかなか止まらなくなるのだ。中には、一度やった後、振りを考えて二度三度とやりに来る者たちもいた。わたしは、彼ら彼女らの映像や実際やっているところを見ていて、気分に乗りやすい連中だなあと思っていたが、ドアを開けて入って来てはカメラの前で演じる彼ら彼女らを見ているうちに、ここに今の若い人たちの表現ということの原点があると思えてきたのだった。日常の位相から表現の位相に境目もなくすぅっと移ってしまう。それが、現在時点の表現の有り様なのだと感じたのだった。身の回りにゲームがあって、カラオケがあって、何処ででもミュージックが聞けて、ビデオを見ることが出来る。そういう日常の生活の中では、現実と虚構の間の境目が薄くなっているから、その移行が容易に出来うるわけだ。表現はその薄い境目に瞬時に発生して直ぐさま消えてしまう。これは、従来の形というものを前提にしてきた表現とは明らかに違う。しかし、人の手から人の手に伝わって行くにはしっかりした形が必要だ。では、その希薄な表現が持ちうる形とはどういうものか、そこに問題があると思った次第。



2004年1月9日 「Final Cut Pro 4」のチュートリアルをクリア。


「Final Cut Pro 4」を開いたPowerBookG4
 「Final Cut Pro 4」を開いたPowerBookG4"

 この正月は散歩と「Final Cut Pro 4」のチュートリアルで過ごした。チュートリアルは2日の夜から始めて、夕方の散歩を挟んで昼と夜は「Final Cut Pro 4」に取り組み、5日目の7日にクリアした。付属のDVDに入っていた「NTSC Tutorial」を使った。実は、だいたいマニュアル本のチュートリアルは分かり難いと思いこんでいるので、「Final Cut Pro4 スーパーリファランス」という解説本を買ってきて、それで使い方を覚えようと、始めたのだった。クリップの取り込みまではうまくいったが、いざ編集となったところで躓いた。躓いた原因は、解説本の1ページにはいろいろなことが一辺に出てきて、書いてある通りにやってもその通りにならない、ということが続出したからだった。要するに、「Final Cut Pro4」はいろいろなことが出来る複雑なソフトなので、一つ一つの手順に対して選択の余地が多い、そこで間違えるのだ。「Final Cut Pro4」には、500ページを超えるマニュアルが3冊と100ページ余りの「チュートリアル」が1冊付いている。解説本はその1500ページ分を300ページで間に合わせようとしているわけ。で、分からなくなったところで、「チュートリアル」を開いてみたら、こちらは手順を限定して直線的に順を追っていけるように書かれていた。まあ、解説本はひとまず中断して、「チュートリアル」をやることにしたわけだが、それでも、途中引っかかるところがいくつかあって、一通りクリアするのに、五日も掛かってしまったというわけ。

 パソコンの画面の操作では、グラフィカル・ユーザー・インターフェース(GUI)ということがよくいわれるが、「Final Cut Pro4」ではそれが徹底して活用されていると思った。ボタンは当たり前だが、そのボタンも様々な操作のボタンがたくさんある。その上に、「オーバーレイ」や「ポップアップメニュー」が使われる。フレームの画像を見ながら編集する「キャンバス」ウインドウに素材のクリップのアイコンをドラッグすると、「編集オーバーレイ」が現れ、そこで「上書き」「挿入」などの編集の仕方を選択するとか、「タイムライン」上のクリップをコントロール・キーを押しながらクリックするとポップアップ・メニューが出て、そこから細かい設定が出来るとか、といった具合に操作がどんどん細かく別れていくという次第になっている。そこで、どれをどう選ぶか迷ってしまうわけ。昔、映画の編集といえば、フィルムを手で持ってスプライサーで切ってセメントかテープで繋げるなんていう単純なものだった。ビデオ編集でもボタンとスライダーの操作で済んだ。それが今やマウスとキーボードを操って、すべてイメージの中での作業となった。パソコン一つ使えこなせば、数千万円の編集機材に匹敵する作業が出来るということだ。

 ところで、すべてがイメージの中の作業となったところで、そのイメージと作業に名前が付いている。多分、「Final Cut Pro4」のデスクトップ画面を見たことない人には、「編集オーバーレイ」といっても何のことか分からないと思う。その使い方は、何度もやって覚えるしかない。見えるのはまだいい。見えない操作概念となると厄介だ。今回、わたしは「キーフレーム」という言い方が、それが実際どういうものかなかなか掴めなかった。「キー」って「key」だ。辞書で引くと「鍵」「要所」という意味がある。「キーマン」というと「中心人物」だ。とすると「キーフレーム」は「中心齣」ということね、と受け止め、そのフレームを中心にするということと理解した。それにしても、「キーボード」って「鍵の板」だけど、「キー」を押して「画面」に入るというわけで、「キー」って「鍵」なんだと改めて思った次第です。





2004年1月4日 散歩から。


北沢4丁目の元牛乳屋の店
 北沢4丁目の元牛乳屋の店

 新年お目出度うございます。ということで、「曲腰徒歩新聞」のトップページは桜の花芽にしたのでした。年賀状の方は昨年の夏から秋にかけて沢山花を咲かせてくれた朝顔の種をデジカメで撮影して作った。種は芽を出すものだけれど、枯れた房の中にある。その枯れた姿が怖いような感じもするので、ちょっとためらったけど、人間として枯れつつあるわたしの姿もこんなものかと思いながら、でも芽を出し花を咲かせるんですよ。という意味合いも籠めたのだった。

 わたしの元旦は、ここ数年あまり変わりない。普段通り8時頃起きて、年賀状を見て、それから雑煮の朝食。そして、出さなかった人に年賀状をプリントして近くのポストに投函しに行く。そのまま散歩する。今年の散歩は、左脚の痛みが取れてきたので、リハビリということもある。余り遠くまでは歩けない。せいぜい2キロから4キロ程度で、1日は上原の自宅から笹塚まで往復4キロ歩いたので、家に帰り着く頃はちょっときつかった。十年ほど前は、冬は決まって散歩していて、高円寺辺りまで歩いたものだった。高円寺までだと7、8キロある。街の中を歩くといっても、表通りは避けて住宅の間を縫って足に任せて歩く。と、この辺の渋谷、世田谷、杉並だと、だいたい曲がりくねった道を歩いている。多分、住宅が建ち並ぶ前は畑の中の農道だった道だと思う。そういう道は決まって神社か地蔵様に行き当たる。住宅が密集した場所に昔の畑が浮かび上がる。畑の道を歩いていて、そこに密集した住宅地を想像するのは難しいと思うが、住宅地に畑を想像することは容易いことで、この辺りに想像力の働き方というものを考えさせられる何かがある。想像の中で事物を消すのは容易だが、築き上げるの難しいということか。

 1日に笹塚まで歩いたのは、家からポストへ行く方向を延長すると、東北沢の駅の踏切に出る。そこから最近道路幅が広くなり風景が変わった大山の交差点に行ってみようと思った。そして、今まで歩いたことない路地に入り、適当に左に曲がって歩いていったら、大きな樹に出会ってデジカメに撮った。近寄って見たら世田谷区保存樹木と立て札に書いてあった。そこを通り越してまっすぐに行くと突き当たって右に曲がり、そのまままっすぐに行くと、京王線の高架を潜り甲州街道に出た。脚が痛くなってきたので代々木上原駅のところを通るバスに乗ろうと、バス停を探したが分からず、仕方なしに中野通りが甲州街道を横切って大山にのびる工事中の道を行って、大山交差点から井の頭道りに出て家に戻った。結構汗をかいて帰って直ぐシャッツを着替えた。

 2日は、昨日分からなかった笹塚のバス停を確かめようと、今度は、渋谷から笹塚循環という路線の古賀音楽記念館前のバス停から「笹塚行き」のバスに乗った。夕方の4時前、乗客はわたし一人だった。バスは次々に井の頭道りの人気のない停留場を通過して、環七と交差する大原一丁目に来た。実は、この路線が「循環」となっているのは、大原一丁目から先がループになっていて、バス停に書かれている路線図は数字の9を裏返したようになっていて、そのループがどこを通り、その中の笹塚は実際にどこにあるのか、わたしはそれも知りたかったのだ。路線図のバス停に「泉南」というのがあるが、それは何処なのかということも。大原一丁目から環七を右折したバスはまっすぐに走って、甲州街道の大原交差点を右折するかと思ったら、突っ切ってしまった。そして、しばらく行って、右折して新宿方面に向かう水道道路に入って、止まった。そこが泉南だった。泉南って、杉並区の「和泉」の泉と「方南」の南を取ってできた名だった。バスは水道道路を新宿の高層ビルに向かって走り、中野道りを右折して甲州街道に出て、更に右折して再び大原交差点に向かった。そして笹塚駅の入り口を過ぎたところで止まった。そこが、昨日見つからなかった笹塚の停留場だった。ループの中にあるから、終点なのに終点ではない。昨日、わたしは甲州街道のずっと新宿寄りの方を探していたというわけ。そうか、こっちの方だったのかと納得してバスを降りた。そのときバスは既に渋谷行きになっていた。何人かの客が乗って、バスは発車した。笹塚から渋谷に出るには、電車だと京王線で明大前で乗り換えていかなくてはならないから、道路が空いていればこのバスの方が早く着くだろう。

 バスを降りたわたしは、京王線の高架をくぐって「玉川上水」に沿って歩いた。といっても、鉄のフェンスで囲われた上水の水が見えるのは100メートルほどで、直ぐに暗渠になっていた。そこで左に曲がり、細い道を歩いて井の頭通りに出て信号で渡って北沢4丁目を下北沢方面に向かって歩いた。モルタルのアパートと低層のマンションと一戸建ての家が建て込んでいる。門松を立てている家はほとんど無い。せいぜい正月飾りつけているだけ。何の飾りもない家も多い。でも、正月の夕方だからか、幾組かの家族連れと出会った。父親が中学生くらいの娘さんに歩きながら仕切り何か話していた。擦れちがったとき、言葉が聞こえたが、記憶に残らなかった。いくつも曲がって歩いて行くと、お風呂屋さんがあり、その前に「森永牛乳」という看板の店があった。ガラス戸がベニヤ板で内側から打ち付けられていた。商店街というわけでなく、住宅地の中に風呂屋とクリーニング店とこの元牛乳屋と思える店が固まっている。それだけで、ある過ぎ去った時代の日常生活がイメージとして浮かび上がってくるように思えた。毎朝、この店の前から牛乳瓶を載せた自転車が何台も配達に出て行ったに違いない。それが、牛乳はコンビニやスーパーで紙パック入りで売られるようになった。そこから暫く歩いて東北沢に駅に出て踏切を渡り自宅に戻った。

 歩きながら、詩や映像についての考えが頭を過ぎる。詩って何だ、人がいて、表明したい何かを持って言葉を使う、しかし言葉を使う上で何らかの工夫をしなければ、そこに詩を書く人が現れてこない、っていうようなことなのかなあ、で、その工夫ってどういうこと、などなど。では、読者の皆さん、皆さんにとって今年がよい年でありますように。





 





  















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