![]() 氷屋とこども |
![]() 自来也Aと男 |
![]() 黒子で人魚のエルとアール |
![]() 同僚と自来也B |
![]() 自来也C |
![]() 電飾パレード |
![]() 役者の父とその愛人と息子の役者 |
![]() 盗賊改め |
![]() 役者と自来也D |
![]() 自来也Dが盗賊改めに唆されて役者の首を切る |
![]() パンクバンドと共に現れた大蝦蟇 |
![]() 舞台挨拶の後のメケメケレヴュー |
![]() 「自来也」の稽古風景 |
先週も連日「自来也」の稽古に立ち会った。舞台が立ち上がっていく様に立ち会うのは、一昨年の「カラザ02」以来だが、今度は台詞のある演劇で、演出がそれなりに方法を手探りで見つけながら、形を決めていくので、傍らで見ているととても面白い。先週は、先ず図書館から歌舞伎のビデオを借りてきて役者たちに見せて、「形」の取り方を各自に考えさせてから、場面の仕草を作り、週の後半になると、ストレッチ体操と発声練習が終わると、役者全員にヒップホップダンスをやらせていた。多分、それは稽古に入る前に気分を高めるということもあるが、ヒップホップ調というわけではないが、舞台に立ったときの身体の動きをリズムに乗せるということの訓練なのだろうと思う。いくら思いを込めても、それが客に見えるようにしなければ、舞台として立ち上がったことにならない、と演出の野上さんは役者さんたちにしきりに言っていた。確かに舞台上に「ドラマ」が立ち上がってくると、今度はそれをどう観客に手渡すかということが問題になる。その作用というのが面白いと。わたしは考えるわけです。
役者が台詞を遣り取りする舞台には、そこに一つの世界があって一応完結している。観客はその外側にいて、無関係ということになっている。ところが、劇場という場の中では、役者と観客はその無関係性に於いて、互いに強力に引きつけられるという関係性を求めている。役者は、舞台上の世界を完結させる同時に、その完結を破って、お客さんに向かって訴えかけなければならない。つまり、役者は。世界を閉ざしながら開いてみせるという矛盾を実現するわけだ。それが上手くいくと、ものすごい力が生まれてくるというわけであろう。演劇は瞬間瞬間で「矛盾」」を実現すると言えそうだ。実は、役者が生み出す芸としての「形」って、「矛盾の結晶体」なんですね。それが客席で爆発するわけ。「嘘」を「本当」にするっていうのが「芝居」だといわれるが、その「本当」というのは、劇の世界が観客に移る瞬間の力ということなのでしょう。この「自来也」で、多摩美の演劇スタジオにどれほどの力が爆発するか楽しみです。
![]() 朝咲いた水色の朝顔の花9時 |
![]() 朝咲いた紫の朝顔の花9時 |
![]() 1時間後に萎れた朝顔の花 |
![]() これも、1時間後に萎れた朝顔の花 |
この一週間は、多摩美上野毛キャンパスの映像演劇スタジオに通って、連日行われている「自来也」の稽古を見ていた。先週末で一応、最初の場面から最後の場面までの出入りと立ち仕草が出来て、その次の段階として、場面ごとに決めて行くという作業が、演出による特訓と、それを受けた上での自主練習を経て、どうにか全体の流れが見えるところまで来た。そして、7日には音響と合わせての通し行った。人の動きと台詞の言葉が、時間に従って変化していく空間が組み上がっていくのを見ているのは、刺激的でとても面白いですね。最初は声を張り上げて何を言っているのか分からなかった台詞が聞き取れるようになり、ぐずぐずだった仕草の形が少しずつ決まってくる、その変化はわたしには驚きです。そして、わたしはその舞台空間の意味合いを探るという思考の流れにはまっていくというのが気持ちのいいことなのです。
この「自来也」という芝居は、元々の発想として歌舞伎の「児雷也」と巨大風船の蛙を使うというところから始まって、それを「自分たちのもの」にするために紆余曲折を経て「自来也」としての台本が出来上がったので、話しの流れがすんなりとは分からない面がある。しかし、最終的には書き上げた学生たちの真意が籠められたものになった。その真意を、今度は役者たちが自分たちの真意として受け止めて演じてくれると、独創的な舞台空間として立ち上がって来ると思う。やや大げさに言えば、演劇の「独創性」というものがどのように生まれてくるかの試みだと、わたしは考えている。7日の通しが終わったあと、音響をやってくれる見木君や松下君や山峰君と、演出の野上さんと、脚本担当の一人の篠田さんと、ビールを飲みながら打ち合わせをしたとき、篠田さんが「男の子は女の子の気持ちを基本的に解ってない」という発言していたのが耳に残った。「自来也」では、自来也が4人の女性に成り代わって、待っていた男がやって来ると、「私達は火のように愛しあっていた」と互いに口にしながら擦れちがって行くことになるように書かれているが、その擦れちがいに、20歳を越えるか越えないかの女性たちの、篠田さんの発言の元になった気持ちが籠められているように思える。若い女性の男に向けられた真意ということですね。また、この「自来也」では、事実ということと言葉の嘘、そしてその嘘を事実として演じてしまうことによって愛を確定するという悲劇的な場面も用意されている。これは、演劇を自分の生きる場として受け止めようとする者の真意です。稽古に付き合っているうちに、わたしにはこの「自来也」の公演は、若い女性の心の叫びがあり、きらびやかなダンスがあり、パンクロックの生演奏があり、巨大な風船の見せ物がありで、それだけでも楽しめた上で、実は終わらない物語という「劇性」の問題をちょっぴり提起しているというわけで、見応えのある出し物に思えてきたのです。言葉と身体が空間を満たしていく、そこには「真意」がなければ始まらないということなんですね。
稽古は、本読みから始まったんですが、役者は自分に割り当てられた登場人物の台詞を読むわけです。前もって配られた台本を読んで、それなりにその人物をイメージして、その場面での感情を考えて、思い入れをして読んでいました。それを聞いていて、わたしはその言葉って一体なんだろうか、という疑問以前の感情に襲われたんですね。役者の人たちは、おおむね現実の人間の間で交わされる会話のあり方に重ねて読むのですが、まあ、客席まで聞こえるように言うためには大声で言わなければならないので、つまり台詞として言葉を読むので、発せられた音声は意味を担った言葉というより、台本に印刷された記号に従って発音だけしているように聞こえたのでした。要するに、わたしからしてみれば「あり得ない言葉」だったんです。そして、なぜか役者の人たちは早く言い終えてしまいたいと思っているように先を急ぐんですね。従って、聞いていると何を言っているのか分からないことになる。こういう言葉の存在ということが、先ずはわたしには驚きでした。実際、これまでにも劇場で演じられている舞台を見ているときも、何を言っているの分からないということがあったんですが、それは役者が下手だからと余り気にしてなかったんですが、稽古場で何度も何度も意味が取れない発声を聞いていると、これは、上手下手の問題ではなく、「台詞」という形式の言葉の問題だと考えるようになったわけです。
そういえば、ハムレットの有名な台詞の「生きるべきか、死ぬべきか」なんていう言葉も、考えてみると非現実的で、おかしい。独白ということで納得させられているけど、それは「独白」という形式でようやく存在を得ている言葉だということですね。これに倣えば、台詞はすべて形にしか過ぎない。つまり、舞台という空間に形を与える言葉だということになる。広くいうと、卒業式とか結婚式とかの挨拶も、言葉としてはその場に形を与えているものだ。スポーツの開会宣言なんていうのもそうだ。言葉というのが、生な時間と空間に形を与えて、意味づける。その意味が「機能」ではなく、「表現」として働くところに演劇が生まれる、というように考えることも出来そうですね。で、台詞は形としての言葉なんだから、それを発音する音声も形でなくてはいけないわけなんですね。役者は自分の声を形として発して、そこの時間と空間に形を与えるものの筈ですね。稽古場にいるといろいろなことを考えさせられます。
![]() 蔓を伸ばして咲き始めた朝顔の花 |
「曲腰徒歩新聞」の読者の皆さんには半月振りのご無沙汰でした。このところ、パソコンの前に座る時間が余りなかったんですね。7月の後半は、多摩美の共同研究「自来也」公開公演の本読みから稽古が始まり、それに多摩美映像演劇学科の卒制合宿が重なって、家にいる時間が少なく、パソコンもメールを見るぐらいでした。朝は結構早く目を覚ますのですが、ベッドでテレビを見て、起きるのは9時近く。それから朝食を食べながら新聞を3紙読むと11時近くなって、その後6月から膝の筋肉を強化するストレッチ体操をやっている。そして、1時頃家を出て、多摩美の上野毛キャンパスに行って、稽古場になっている「演劇スタジオ」の鍵を開けて冷房を入れて、その後、ずっと稽古に立ち会っている。帰宅するのは11時を回ることが多い。というような生活をしているので「曲腰徒歩新聞」の更新が滞ってしまったというわけです。
「自来也」というのは、歌舞伎の演目の「児雷也」ものを元に学生たちが台本を書いて、卒業生と学生たちが舞台を立ち上げて、8月21日、22日、大学の進学相談会の日にぶつけて、映像演劇学科の「演劇」を大いに宣伝しようという企画で、わたしが、その元締めということになっている。「児雷也」というのは、大蝦蟇に乗って妖術をあやつる盗賊の話だが、1年前にそれを多摩美の学長でもある風船作家の高橋士郎氏が作った蝦蟇の巨大な風船を使って、多摩美映像演劇学科の教授である清水邦夫さんが台本を書いて、同じく教授の萩原朔美さんが演出するという話が持ち上がったのだったが、その台本が出来なくなってしまった。そこで、清水さんが書いたシノプシスにあった「わたしたち火のように愛し合った」という言葉を元にして、学生たちは純愛ものの台本を仕上げた。幾つかの難儀を経て「児雷也」が「自来也」になったというわけ。それも、4人の女の自来也が登場して果てしない物語を展開するということになった。歌舞伎の「児雷也」ものにはいくつもの脚本がある。野上絹代さん、木元太郎君、篠田千明さん、北川陽子さんの4人の作者たちは、その「いくつもある」というところをつかまえて、終われない話しとして作り上げた。4人の女がそれぞれ愛を語るが、物語は終わらない。わたしには思いがけない台本になったというわけですね。
稽古は、参加して来た学生諸君にオーディションをして役を割り振って、一通りの本読みが終わったところで、俳優の長畑豊氏に来て頂いて、発声訓練から始めた。喉を開いてお腹から声を出すというのがなかなか出来ないんですね。わたしは発声訓練というものに初めて立ち会ったのですが、喉を開いて横隔膜の上下で鼻から空気を入れて口から出すというやり方で、身体を鞴のようにするというのが面白かった。それから立ち稽古に入って、ほぼ一週間で7、80分の芝居の粗通しが出来るところまで来た。舞台稽古というものに立ち会うのは初めてなので、とても面白い。演出を担当している4年生の野上絹代さんは、達者なところがあって、先ずは下級生たちには自分で役所を考えさせて、所作を工夫させるようにしているが、思うようにいかないと思わず自分でやってしまう。それが面白いのでみんな見とれてしまうということになる。1年生の女優さんたちは、高校で舞台を踏んだ経験があるとはいっても、大きな声を出すと前屈みなり、生な感情を入れてしまう。せっかくの美しい立ち姿もそれでは台無しになる。役の姿と日常の姿が混ざるところを、役所の形を持った姿になるように稽古は進められている。稽古を見ているといろいろと考えさせられる。映像の場合は、現実の事物の中での演技となるので、本当にその気になって演じなければ嘘っぽくなってしまうが、演劇の場合は、その逆で、舞台の上では本気ではだめで、見る人に思い込ませる嘘でないと力がない。その思い込ませるというところで「目線」を働かせ、仕草の「形」で納得させる、ということのようだ。わたしは、稽古の後の反省会で、そんなような考えたり感じたりしたことを話している。あと3週間で本番、どんな舞台が出来るか待ち遠しい。