2004年4月1日から30日まで


[ 総目次へ] to The Index Table]
「曲腰徒歩新聞」表紙へ戻る
現在: Document lastmodified:

2004年4月25日 新学期もようやく一段落。

雑草の花
 下水口に咲いた雑草の花

 今年度からわたしの担当する授業が変わった。月曜火曜の4コマの≪表現活動(Field Trial=FT)≫という授業のカテゴリーの中の、2、3年生のコースの一つを、海老塚耕一さんと一緒に担当することになった。年に1回か2回、学生が作品を作るのを指導するという授業で、12日にガイダンスがあり、13日に希望する学生のエントリーがあった。選択した学生は49名で、6つあるコースの中で一番人気だった。16ミリの映画を作りたい学生、DVで映像作品を作りたい学生、アニメーションを作りたい学生、映像を使った展示物を作りたい学生などなどだが、言葉を使って表現をしたいという学生もいた。4月は、表現についてどういう考え方を持っているかということを、海老塚さんとわたしとが講義して、5月からそれぞれの学生が求める「創作の内容」について話をして行くことにしている。どんなものが出てくるか楽しみです。

 夜、多摩美に行ってガイダンスなどをやっている間、昼間と深夜、新作の映像作品『極私的に臨界2003』にナレーションをつける作業をして、出来上がった作品のminiDVテープを17日にイメージフォーラムに持って行った。これで、「イメージフォーラム・フェスティバル2004」での上映に間に合った。10日には出来るはずだったので、一週間のオーバーになった。ナレーション付けといっても、マイクに向かって喋って、それをカセットテープに取り、テープからPowerBookG4に取り込んで、そのファイルを「Final Cut Pro」のタイムライン上に貼り付ければ済む。16mmフィルムで作品を作っていた頃の、ダビングスタジオで録音してシネテープで編集するのに比べたら、比較にならないほど楽になった。だが、パソコンが相手なので、画面のノイズやら音跳びやら、パソコンの機嫌に左右されることがあるので、最後まで気は抜けなかった。

 この『極私的に臨界2003』は、昨年まで編集していたWindowsマシン上の「Premiere」ではなく、PowerBookG4に外付けのハードディスクを付けて編集するというシステムを取ったので、始めは戸惑って、初心者のような気持ちでしたね。「Premiere」とは、タイムラインを使う点ではほとんど違いはないが、タイトルやテロップやスクロール文字を入れるところでちょっと引っかかりました。ノートパソコンが熱に弱いということも分かった。

 わたしがこういうガイダンスやら作品の編集やらに日々を過ごしている間、テレビと新聞、それにインターネットの掲示板では、イラクの日本人人質のことで大騒ぎでしたね。久しぶりに政治が露出してきたように感じました。特に、3人の人たちに対する雲行きが、途中からがらっと変わったのには驚きました。政治のあり方が、組織対組織や体制反体制というところから、個人対国家体制というあり方になってきたと思いました。もともと合衆国の国家対テロという構造で始まったイラク戦争の、その構造が、個人の勝手な振る舞いが国家に迷惑を掛けているという言い方に現れた、国家と個人を対立させる構造に反映されていると思います。個人が所属するイデオロギーや組織のない侭の個人で政治的な存在になってきたということなんでしょうね。「自己責任」という言い方と、「国歌を強要された教員」とは通じるところが感じられます。共に国家の前に引きずり出されてしまった個人という気がします。わたしなど自分が国家に対して無防備だなと思います。個人的に政治的な局面ということを考えておかないといけないのかもしれませんね。





2004年4月12日 山吹が満開。

満開の山吹の花
 満開の山吹の花

 8日に多摩美造形表現学部の入学式があって、次の日の昼間はシアター「X(カイ)」に卒業生の末浪伸二君作・演出の坂本竜馬を扱った舞台「Japan・戦争」を見に行き、夜は2,3,4年生のガイダンスに顔を出し、その次の日は朝からイメージフォーラム付属映像研究所で「パーソナル・ドキュメンタリー」について話をした。という具合に、またまた慌ただしい日々が始まった。そこに、「イラクでの邦人人質事件」のニュースが流れて、テレビとWebにかじりついていた。12日には解放されることになったということでほっとした。国家政策と個人の生命が天秤に掛けられるということで、政府は救出に全力を尽くすと言っていたが、アメリカ頼みの裏に国歌のための犠牲という考え方が透けて見えるようで憤り感じたのだった。

 10日のイメージフォーラム付属映像研究所での授業が12時半過ぎに終わった後、近くのそば屋でざる蕎麦を食べて、宮益坂をぶらぶらと下って、駅前のビッグカメラでSonyのDVカメラを買おうと思ったら、ワイドコンバージョンレンズがないというので、やめて、澁谷駅前から笹塚行きのバスで帰ろうと、バス停に行ってバスを待ったがなかなか来ないのだった。バスを待つ人の行列がどんどん長くなっても来ない。その間、渋谷駅の上の青空を眺めたり、3回も発車して行った新宿駅西口行きのバスに乗る人を眺めたりしていた。渋谷駅前のバス停で30分余り立っているなんてことは、滅多に出来ることではない。ようやく来たバスの運転手に遅れた訳を聞いたら、渋滞のためだと言っていた。そういえば、この前も富ヶ谷の交差点を通過するのに20分も掛かった。山手通りと井の頭通り交差点が最近工事中なのだった。この日は午後3時頃家に帰ったが、そんなことも滅多にないことだった。



2004年4月4日 矢後智之君の「謝辞」。

チューリップに花
 首をのばしたチューリップの花

 3月25日の多摩美造形表現学部の卒業式で、映像演劇学科の矢後智之君が述べた「謝辞」の全文を手に入れて、読み返してみて、改めて面白いと思ったので紹介します。矢後君にメールして「曲腰徒歩新聞」に掲載したいと言ったら、「喜んで、嬉しい」という返事を貰った。じゃあ、手元にある原稿を送ってくれと言うと、ほとんどぶっつけでその朝書いたから原稿はないという。で、大学の事務所に聞いたらコピーしてくれるということだった。そうかあ、ぶっつけで書いたのが良かったんだと思った。謝辞の用紙は多分決まっているので、書ききれなくなって裏まで書いてしまったというわけ。謝辞を読む矢後君が、紙をひっくり返して裏まで読み始めたときはちょっとはらはらしたけど、その型破りがよかった。俄然、卒業式の話題をさらってしまったものね。矢後君の卒制作品は「無限の自由」という個人が社会にアクセスするゲーム的手法にるドキュメンタリーだった。






謝辞 矢後智之

 本日は、桜のつぼみもふくらみはじめたこの良き日に、このような卒業式を開いて下さりましたこと、心より感謝申し上げます。
 常日頃から感謝の気持ちを大切にしなければいけないと自分に言い聞かせておりますが、実際にはありがたいなどと思えることはほとんど無いと言っていいほど貧相な心の持ち主である私にとって、今日この場で謝辞をのべることは、そうたやすいことではございません。
 けれども、こうして皆様の前で、このような高い所からなにか言葉をたれる機会を与えられたという使命を果たすために、これから、ただ私の考えること、まとまりのないそれらをいくらかのべたいと思います。
 平和というものはどこにもありません。私たちの多くはただ偶然で殺されずにすんでいたり、死ぬほどの悲しみや憎しみにとらわれることなく今ここに、つまりタマビの講堂に立っているにすぎず、私の命や私の心の安定が保証されるなどということ、つまりそれが平和だとすれば、それはむしろ無知や忘却の一部として分類されるべきものであります。本来は平和などというものはみじんも存在しない。私たちは常にこの次の瞬間に殺されるのであり、たえがたいほどの巨大な心の苦痛を経験する可能性を否定できません。それが起らないのは、ただ偶然であって、その状態に慣らされた様を平和と呼んでいるにすぎない。私たちは平和などというものとははなはだかけ離れた存在です。  今、私たちがここにいるのは、そういった現実認識を持ち合わせているからだろうと思います。であるからこそ、美術大学などという所を選択し、さらにあげくのはてには、今日この卒業式を迎えてしまったということだろうと思います。
 社会は常にせめぎ合っています。戦国時代の合戦場であり、やらねばやられるという虚無に支配されています。私たちはこの虚無的消費社会のまっただ中で暮らさざるを得ません。逃れる術はありません。
 私は、このタマビといわれる場所に結果的には5年間在籍することになりましたが、その間、この学校に納めました学費、そして生活費も含めますとおよそ2000万円のお金を消費いたしました。嫌な話になりますけれども、我が家は、たまたま裕福でしたので、その金額自体は取るにたらないものでしたが、そういった2000万円というお金を実際に放出、流出させることでやっとの思いで今日この場所にギリギリ立つことが出来、多摩美術大学卒業という社会的価値を手に入れることが出来たと言えると思います。結局、お金がなければ美大にすら来ることが出来ません。嫌な話ではあります。
 美術大学の卒業式で、しかも謝辞という役目で申し上げることではないかと思いますが、私は美術というものは全くわかりません。では、私はこの大学で何をやってきたのかと言えば、自分の目のまわりにまとわりついて、いつでも視界をさまたげるドロドロをはぎとり続けることでした。ただただはぎとり続ける、続けたい、そして楽をして生きたい。そういう思いでこの上野毛でモンモンとしてまいりました。
 大学という所は不思議な所でして、このようなそう広いとは言えない敷地であっても、外界から遮断された、なにか守られた特別区といった気分になることが出来ます。それが良いことなのかどうかは人それぞれかと思いますが、私にとっては、この場所が大きな影響を与えたことは確かです。私は常々、そのどの地点からであっても人生をもう一度やり直すことだけはさけたいと思ってまいりましたが、タマビを卒業する本日またその思いを強く感じます。もう一度はやりたくない。逆に言えば、他の選択はあり得ないということであって、この大学に在学していたという事実、それから私に与えた影響は絶対的なものだと言えるかと思います。
 終わりに、
 学生の皆さま、そして学校関係者の皆さま、それから先生方、そしてこの場所、それぞれの素敵な出会いに感謝を捧げたいと思います。
 ありがとう、さようなら
 みなさん
 ありがとう、さようなら
 多摩美術大学
 ありがおう、さようなら
 みなさん
 ありがとう、さようなら
 多摩美術大学
 サンキュー、アンド グッバイ

 平成十六年三月二十五日
      卒業生 矢後智之




2004年4月2日 もう4月ですよ。

山吹の花が咲きなじめた
 山吹の花が咲きなじめた

 3月25日に多摩美造形表現学部の卒業式があってから、あっという間に4月になってしまいましたね。卒業式は例年に倣って学長告示から始まって、卒業証書の授与、そして理事長、学部長、教員代表の祝辞があり、最後に卒業生代表の「謝辞」があって終わる、というのでしたが、この「謝辞」を映像演劇学科の代表の矢後智之君が述べたのですが、内容が型破りで面白く、先生たちのその前に述べられた言葉が全部すっ飛んでしまったと感じました。「留年して5年間の学生生活に2000万円掛かったけど、自分の家は金持ちだからどうってことないけど」という辺りで学生たちからどっと笑いを取ったり、紙の表だけでは足らず裏を返して読み進めたり、そして最後には「ありがとう、さよなら。ありがとう、さよなら。サンキュウ、アンド、グッドバイ」と三唱して終わり、着物袴の女子学生たちからも拍手喝采でした。一人の女子学生に「その袴、借り物?」と聞いたら、祖母と母が来て3代譲りと言ってました。

 今年の卒業生は、1年生の時、作品制作の発表会に「多摩王」というタイトルを付けてそのDMにわたしの半裸の写真を使った連中なのですね。その発表会には、人形アニメと実写と実演を一緒にした意表つく企画や、「ドキュメンタリー・アニメ」と称するサンショウウオのいる森を訪ねるドキュメント映像を全部アニメに描き起こした作品などがあって、この連中は何を考えているんだと驚かされたのでした。その表現意欲は4年経ってどうなったかというと、一人一人がものを言える普通の人たちになりつつあるということですね。社会に出て自分たちの独自の表現を切り開いてくれることを期待してます。卒業式の後、謝恩会と二次会に行きましたが、そこでわたしは、勤めるとそこには必ず上司というのがいるが、彼の言うことをはいはい聞いてはいけないと忠告。それで、ぶつかってまた表現に熱を入れるようになるだろうと思うのです。

 翌26日は「イメージフォーラム付属映像研究所」のカリキュラム打合会議。最近の受講生の作品を見ていると、実験映像ということが希薄になってきたようなので、そのコアをはっきりさせた教え方をしようということで、話し合った。DVカメラで撮影してパソコンで編集すれば、映像作品は手軽にできる。それはそれでいいけれど、映像というものの本質を考えるところから表現を考えなければ、新鮮で深い表現は生まれてこない。そういう道筋に生徒を導くために、制作に入る前に作家や研究者である講師が映像の本質について話す時間を取ろうということになった。

 27日には、代々木上原の古賀音楽記念館前からバスに乗って渋谷区役所前で降り、「UPKINK FACTORY」で公開された、映像演劇学科の卒業生の三宅流君の新作映像作品「白日」を見に行った。渋谷に行くのに、時々、わたしが住んでいる近くの井の頭通りを通る笹塚澁谷循環路線のバスを利用する。この日は、山手通りの工事で、上原から代々木公園まで20分近く掛かってしまった。でもバスの中から道行く人を眺めるの好きなので、眺める時間が長かっただけよかった。三宅君の「白日」は、円形の部屋の中を一人の男男が歩く、その男の前で黒衣の女が砂浜に作られた首つりの縄の周りの円形を歩く、それが重なる、黒い衣装が首つりの縄につり下がって燃えている、実は最初のシーンで男は水が流れる隧道で両目から血を流している、というような象徴的なイメージによる、一種の黙示劇だった。男が何者で、燃える黒衣が何で、どうしてそういうことになっているのか、そういう説明は一切ない。ただ、砂浜のシーンと部屋の中のシーンが交互に出てくる。作者が抱いたイメージがスクリーンの上に実現されているだけという映画だった。三宅君はこの27分の作品を作るのに2年余りも掛けたということだ。イメージだけで作品を立ち上がらせるために、それだけの時間と手間が必要だったのだろう。映像は絵画的で美しい。映像を黙示的なイメージとして自立させている作品は珍しい。その抽象性が見終わった後にさわやかで気持ちいい印象を残した。

 それから、ぽんぽんぽんと4月になってしまった。今年も、かわなかのぶひろさんが「イメージフォーラム付属映像研究所」の卒業作品の全部の講評を書いたので、例年に従ってそれをわたしのHPで公開することにして、そのHTMLファイル作りをしたのだった。講評だけでなく作品のスチルと作者の顔写真を載せるので、およそ150枚ほどのWeb用の画像ファイルを作ったので、まあ、時間が掛かったということ。といっても、かわなかさんがこの講評を書く手間からいったら何のことはない。卒制作品は一週間の上映期間中に2回だけしか上映されない。それも、かわなかさんは最後の上映日に行われる卒業式の日に、全部の作品の講評をプリントして小冊子に綴じて卒業生に配布するのだから、上映期間中の前半に見て書かなければならない。つまり、一回見て上映中に暗闇の中でノートを取って書く。わたしなどは印象の薄い作品は見終わって控え室に帰るまで内容を忘れてしまう。それをかわなかさんはノートに書き留めて、どの作品についても同じ字数で書くいてしまう。全く驚かされる。是非読んでみてみてください。作品としてイメージできなくても、今の若い人がどういうこと関心を持っているかを読み取ることができると思います。





  















1996年9月23日
1996年10月
1996年10月16日
1996年11月15日
1996年11月16日
1996年12月1日
1997年1月
1997年2月
1997年3月
1997年4月
1997年5月
1997年6月
1997年7月
1997年8月
1997年9月
1997年10月
1997年11月
1997年12月
1998年1月
1998年2月
1998年3月
1998年4月
1998年5月
1998年6月
1998年7月
1998年8月
1998年9月
1998年10月
1998年11月
1998年12月
1999年1月
1999年2月
1999年3月
1999年4月
1999年5月
1999年6月
1999年7月
1999年8月
1999年9月
1999年10月
1999年11月
1999年12月
2000年1月
2000年2月
2000年3月
2000年4月
2000年5月
2000年6月
2000年7月
2000年8月
2000年9月
2000年10月
2000年11月
2000年12月
2001年1月
2001年2月
2001年3月
2001年4月
2001年5月
2001年6月
2001年7月
2001年8月
2001年9月
2001年10月
2001年11月
2001年12月
2002年1月
2002年2月
2002年3月
2002年4月
2002年5月
2002年6月
2002年7月
2002年8月
2002年9月
2002年10月
2002年11月
2002年12月
2003年1月
2003年2月
2003年3月
2003年4月
2003年5月
2003年6月
2003年7月
2003年8月20日まで
2003年8月27日
2003年9月
2003年10月
2003年11月
2003年12月
2004年1月
2004年2月
2004年3月

 

 
 
 
 
 


|「曲 腰徒歩新聞」表紙へ戻る|

My Email address
クリックして、メールを送って下さい。
srys@m1.catnet.ne.jp


[総目次に戻る to the table]
  hh