![]() 「ルデコ」5F写真展会場・右側石井さんの作品 |
![]() 「ルデコ」5F写真展会場・左側わたしの作品 |
「ルデコ」での石井茂さんとの一週間の写真展が26日で終わった。会場を閉める5時前にひっきりなしに見る人が来た。今回は来てくれた人が多かったなあ、という印象だった。「ピンホール」と「魚眼レンズ」、レンズ無しと全写角、両極端といえるような写真が両側に並んでいる。見に来た人はそれなりに楽しめたのではないかと希望的な観測。この画廊の近くの並木橋を渋谷川を挟んだ三点から撮った写真を十分以上も眺めていた若い人がいたが、その写真を撮った当のわたしにしてみると、何をそんなに見ているのかと、落ち着かない気分になってくるのだった。彼は帰る時、足早に立ち去った。まあ、写真の何かに出会ったに違いない。また、通りかかったらビルの表の看板に「鈴木志郎康」の名前があったので、といって入ってきた人は、わたしが二十年ぐらい前に和光大学に講演に行った時、そこでわたしの話を聞いた人だった。彼もわたしもその時何が話されたか忘れてしまっている。何故か、今回はわたしが居た時は長く話し込む人が多かった。それと、多摩美の卒業生が来てくっれたのも嬉しかった。そして旧友が来て二点買い上げてくれた。これは意外な驚きだった。
石井さんの作品には身体の腰の辺りを撮ったものが多かったが、それがピンホールで撮ったものなので、柔らかい印象になっていて、会場にエロチシズムを漂わせるという雰囲気を醸し出していた。見に来た女子学生が「石井先生って、エロいんだ。」と感想を書いていたが、作品が日頃の風貌を裏切っているように見えたのだろう。石井さん自身は、「ピンホールカメラの、暗箱の中には光が舞っている」と書いていたが、その舞う光が女性の曲線の奇跡を作っているというのが美しかった。わたしの写真は、同じ場所で撮った外接魚眼の円い画像を三枚で一組にして展示したもの。魚眼で百八十度の視野で写っているから、視点を変えたのが直ぐに分かるかと思ったら、見る人によっては、それが見えない人もいたり、その視点を追いすぎて、頭がくらくらするという人もいた。雨の夜撮った写真は、レンズの表面に付いた雨滴が写っていて、それが球形に見せる効果になって、写っている家がガラス玉の中に入っているように見えると人気があった。
片づけ終わった後、石井さんとまた来年もやろうと話し合った。また見に来てください。
![]() 若林奮さん |
![]() 2002年5月4日 |
![]() 吉増剛造さんと関口涼子さんの |
![]() トークセッションの会場で |
11日の朝、新聞を読んでいて若林奮さんの訃報を見つけて吃驚してしまった。若林さんが病気で入院していたなんて知らなかったから、全くの不意打ちだった。若林さんにはわたしの詩集の装丁をして頂き、特に1992年刊行の『遠い人の声に振り向く』では、挿画に若林さんの銅版画そのものを全冊、一冊一冊ごとに一枚宛入れて貰った。敬愛する芸術家だった。その若林さんが亡くなった、ああ、と暫く新聞を拡げたまま目を瞑った。
若林さんの作品に出会ったのは、1976年か77年の頃か、銅版を重ねた作品と「振動尺」という題の付いた作品を見た時だったと思う。重ねた銅版の中を見せないという作品のあり方に驚いたのだった。その時、確か若林さんから直接、地層とかアルタミラの洞窟の話しとかを聞いたように思う。いつだか忘れたが、お宅に訪ねた時、テレビを点けっ放しでデッサンをしていると、そのテレビの画像の色彩がいつの間にかデッサンに流れ込んでいる、ということを聞いた時も驚いたのだった。そして、武蔵野美大のアトリエに行った時は、窓から見える空気や植物の生長を、アトリエの中に鉄の部屋を作って、その中に鉄のオブジェとして置き換えているのを見た時も驚かされた。わたしにとって、若林さんから与えられた最後の驚きは、昨年の12月に豊田市美術館の「若林奮展」に行って見た「樹皮と空き地ー桐の木」という作品だった。桐の木が床に並べられ、その脇に大きな銅版の作品があった。その情景が目に焼き付いている。驚かせてくれる人は少ない。その一人の若林さんが亡くなってしまった。悔しい気持ちで一杯です。冥福を祈ります。
![]() 今年の魚眼写真 |
いやー、もう十月になってしまいました。今月の23日から渋谷のGallery LE DECO「ルデコ」の5Fで今年も石井茂さんと写真展をやります。それを決めたのは、去年の秋の写真展の直後、その写真をそろそろ撮らなきゃなあ、思い始めたのが5月頃、でも脚が痛くて、と延ばし延ばしで夏休みが過ぎてしまい、DMの原稿の締め切りが9月24日となって、九月の半ばから慌てて撮り始めた。マッサージに行ってる松岡接骨院の帰りに撮ったのが、この一枚。秋の日差しに広がる空き地。それから近くの古い家を撮って、カメラ屋に現像を頼みに行ったとき、慌ててカメラを開けたので、巻き戻したが残っていて、一部光を被ってしまった。やれやれ、というところです。
昨年の写真展で、初めて写真に言葉を付けてみたら評判がよかった。自分でも面白かった。で、今年はもっと工夫してみようと考えているうちに、魚眼写真三枚を一組にしてパネルに貼ったらどうか、と思いついた。写真展のタイトルも「三点全点」と決めた。これだと、写真を枚数で考えないで、シーンで考えればいいわけで、痛い脚を引きずってあちこち歩き回らないで済むというわけ。苦肉の策でそういうことにして、イメージフォーラムの授業が午前中で終わった20日土曜日の午後、青山から金王八幡のある渋谷三丁目を抜けて、「ルデコ」に立ち寄って会場の図面を貰い、並木橋から猿楽橋を渡って山手線を越え、鶯谷町と桜丘町の路地を歩いて魚眼写真を撮りまくった。前日と合わせて三十六枚撮り3本。そして、22日に腰痛の診察で青山病院に行った帰り、「クリエイトフォト・タカ」に行ってベタ焼きと前に撮ってあった写真の伸ばしを頼んで、写真展の準備の第一歩を何とか踏み出すことができました。
鶯谷町と桜丘町は、普通の住宅とビルが混在している街並だが、その普通の家が最近ブティックになっていたりしている。わたしは渋谷に向かって行ったが、代官山に向かえばそういうファッションの店がもっと増え、歩いている人も、短いトランクスの若い男や髪の毛を染めて装身具をゆらゆら揺らさせた若い女ということになる。この辺り歩いている人たちは、身を飾ることに情熱を掛けている人たちなんですね。土曜日だったせいか、結構、女子高生も見かけた。あるところで、道筋の家にカメラを向けたら、歩きながら携帯を掛けている女子高生がフレームに入るので、止めて別方向にカメラを向けたら、またその女子高生が入って来てしまい、更に避けて、二転三転することになって、変な親爺と思われただろうなと気落ちした。とは言っても、道を歩いて人って、瞬間的な存在で直ぐに消えてしまうのですね。
写真になる家を探して歩いていると、どうしても古い家に目が止まってしまう。樹木があったりすると目が動かなくなる。人家の脇に生えている樹木っていうのは、すらっと生えているのは少なく、何処が多少は変形してしている。それが写真を撮る時に魅力的に感じられる。古い家で樹木があれば「当たり」ということになる。家の古さ年月を感じさせ、更に樹木がその年月に時間の濃さを加えているように思える。つまり、存在感があるっていうわけ。でも、なんで写真を撮る時、存在感を求めることになるのだろう。分からないですね。とにかく、写真機を持って歩くと、やたらに撮るわけではなく、選ぶことになってしまう。面白い写真じゃないと見る人に印象を与えられないからと、選ぶのは一般には当たり前になっているけど、出会いということでいうと、すべてのものが出会えるはずのものなのに、出会いとならないというところが妙だ。
この10日余りの間に、イメージフォーラムシアターに通って、普段のわたしには考えられないくらいの沢山の映画を見た。25日にカレル・ゼマンの「前世紀探検」とデレク・ジャーマンの「テンペスト」、26日にデレク・ジャーマンの「ヴィトゲンシュタイン」、27日にデレク・ジャーマンの「エンジェリッゥ・カンバセーション」、28日に、昼間は「イスラエルビデオダンス作品集」のAプロ、Bプロ、夜はドイツの青春映画「ビタースィート」、そしてレイトショーでデレク・ジャーマンの「ラスト・オブ・イングランド」、10月3日に多摩美映像演劇の卒業生の村上なほの監督作品「アイノカラダ」をテアトル新宿で見て、4日にはまたデレク・ジャーマンの「BLUE」、そして昨日の5日にはデレク・ジャーマンの「ウォー・レクイエム」を見た。尤も、昨日は昼間は下北沢の本多劇場で加藤健一の舞台「詩人の恋」も見に行ってきたんですね。映像作家のデレク・ジャーマンはホモの人、「アイノカラダ」はレスビアンの人たちを描いた作品、「詩人の恋」はイスラエル人の音楽教授とピアニストが主人公、そしてイスラエル人の舞踏家のビデオダンス、偶然だけれど、通底していくものありました。