![]() アメリカ映画「KEN PARK」のチラシ |
![]() 中国国家話劇院の「故事新編」のチラシ |
たちまちのうちにもう11月も終わってしますね。ちょっと意気込んでやらなければならないことがあって、それが一段落して、気が抜けているところで、わたしの今月は終わろうとしている。先月の終わりに見たアメリカ映画「KEN PARK」と今月の19日に見た中国国家話劇院の舞台「故事新編」が頭に残っていて、考えてみたいと思いながら考えが動かない。両方とも、互いに全く関係ないけど、東京で暮らしているわたしが偶然に一月の間に見たということだが、これってどういうことのなの、というわけ。尤もその間にピナ・バウシュのダンスも見たけど、そっちはわたしの頭からすり抜けてしまった。
アメリカ映画「KEN PARK」は都市郊外に住む高校生達のセックスを主軸にした青春映画といえるもの。ガールフレンドの母親から誘われて関係を持つ少年の話、常に息子が柔な性格であるのを叱咤しているマッチョな父親が実は性倒錯者で息子にまで手を出してしまう話、亡くなった妻の娘時代の清純を娘に無理強いしている信仰心の厚い父親が、その娘のボーイフレンドとのサディスティックなセックスシーンを目の当たりしておかしくなってしまうという話などなど。チラシには「アメリカで最も危ない二人、ラリー・クラークとエド・ラックマンの夢のコラボレーションが7年ぶりに実現した21世紀の青春映画!」と書かれていた。大人達への反抗を、家庭の外で社会に向けるというのではなく、狭い地域の家庭環境の中で身近なな大人達に向けて実行していくというところが不気味に感じさせられるという映画だった。母親が自分の娘のボーイフレンドの少年を誘って、夫のいない間にセックスにふける。その場面がチラシの写真になっている。撮影はドキュメンタリー風でリアルな印象を与える。それだけに、人間関係のけじめがなくっているという感じが強い。日本でも高校生の愛人に自分の幼い子どもが殺されながら、その高校生を庇った女性の事件があったが、その不気味さは、親子とか家庭とかいう人間関係の基本になっている倫理が崩壊していることを感じさせるところにある。単に個人のことに帰せるわけにもいかず、そうかといって社会のあり方に原因があるとも片づけられない。じゃあ、どうすればいいのか、といっても簡単には答えを出せない。
中国国家話劇院の「故事新編」は、原作が魯迅で、林兆華という高名な現代劇の演出家の演出による舞台だった。舞台は全部中国語で進められたが、日本人の役者が登場して、劇中の語り手の役者と遣り取りしたり、話を日本語でなぞったりして、筋書きは何となく分かるように作られていた。人間の心理的な展開というより、荒唐無稽な話の筋に従って踊りや歌が入るというものだったので、話が分からなくても十分に楽しめた。でも、わたしは話の内容がどういうものか気になったので、家に帰ってきたから、魯迅の本を引っ張り出して、原作の「故事新編」に当たってみたら、その中の「鋳剣」という話が主になっていたのが分かった。剣を作る名人が、それに勝る剣はないというような剣を作って、王様に献じると、王はそれに勝るものを他に作らせないために、その剣を作った名人を殺してしまう。しかし、そうなることを予測した名人はもう一本同じ青光りする名剣を作って、自分が殺されたら幼い息子が成長した末に仇討ちさせようと残していた。その仇討ちの話が舞台のストーリーになっていたようだった。仇討ちといっても、変な話で、息子は仇討ちするために王宮に出掛ける途中で、黒い男と出会い、命と剣をその男に与える代わりに、その剣で王を必ず切ってもらうという取引をして自分の首を与える。黒い男は王と闘い、煮えたぎる大きな鍋の中に、王の頭と自分の頭を切り落とし、名人の息子の頭も落として、結局、どの頭蓋骨が誰の頭蓋骨か分からなくしてしまったということなのだ。舞台は中央に石炭の山、両袖に五つずつのストーブを置いてあった。衣装は緑灰色の質素なもの。だが、京劇で鍛えた歌は心に響き、ややアクロバッティックな踊りと熱の入った語りとで、空間が息づき、硬質の美しいものを手渡されたという感じになった。
「KEN PARK」と「故事新編」は作者達の意図も背景も全く違う作品だが、今の東京で見ると、共通しているところは、いずれも違う意味合いでセンセーショナルなところを持っているということに思えた。別の言い方をすれば、いずれも刺激的だったということ、つまりわたしなどは「刺激」というところでしか表現を捉えられなくなっていうことなわけ。これはちょとやりきれない思いになることだ。この先、どうなって行くんだろう。心許ない。
![]() 秋雨の庭 |
![]() 草の枯葉 |
9日の夜は、寝る時寒いと感じて掛け布団を変えた。そして10日11日と雨。秋が深まるという気配。公園の樹木も色づく始めている。写真展の後、わたしの写真を買い上げてくれる人があったので、6日にはその写真のプリントとコーティングの出来上がりを「クリエイトフォト・タカ」に見に行った。その日は丁度、9月の末から腰痛の治療で通っている青山病院で、血管を広げる薬の点滴があったので、先ず午前中に青山病院で点滴をすませた。そして病院の入り口で、100円玉を入れて鍵の開け閉めをする傘立てから傘を取ろうと思ったら、入れたはずポケットの中に鍵がない。さっき、診察予約のシートを発券する機械のところで落としたのか、又は点滴する時ジャンパーを脱いだ時落としたのか、それからトイレに行ったので、トイレで落としたのかと、探し回ったけどなかった。守衛の人に言うと、庶務課に行けと言われて、庶務課に行ったら、係の女の人が入り口付近の事務の人などに聞いて回ってくれたがなかった。写真が出来るのは午後ということだったので、雨も降ってなかったし、諦めて、傘を傘立てに残したまま、腰が痛くて歩くのがきついので、タクシーで銀座の伊東屋に行って来年の日記帳とスケジュール帳を買うことにした。銀座でタクシーを降りようとして、料金を払うために財布と小銭入れを出そうとポケットに手を入れたら、何とポケットの中にさっきなくしたと思った鍵があるじゃないですか。ポケットの中をよく探ると、何とポケットが二重になっていたのだった。自分のズボンのポケットが二重になっているなんて知らなかった。で、また日記帳とスケジュール帳を買ってから青山にタクシーで引き返した。結局青山銀座間をタクシーで往復することになって、二重ポケットの存在が高く付いた。
この銀座から青山に戻る時、その青山病院の玄関口までタクシーを乗り付けるための道順が面白かった。あの辺の地図に詳しくない人には興味のないことでしょうが、青山病院は、ほとんど右折出来ない青山通りに面した「子どもの城」の裏手にあって、一方通行の細い道に門があるので、裏側から回って行かなくてはならない。最短距離でどういう道順を辿って行き着くか、それが面白いというわけ。というのは、この渋谷区渋谷の辺りの裏道はすべて一方通行で、しかも、行き止まりだったり、T字路だったりする。やや迷路めいている。そこをどう切り抜けるか、運転手さんの知識と腕次第。最近は脚が痛いのでタクシーに乗ることが多いが、ひどい運転手に当たると、道順は客任せ、ということで、高く付いても、客の先導のせいにするという輩もいる。わたしが乗ったタクシーの運転手さんはベテランだった。銀座方向から246を行って、表参道を右折して、キディランドの手前を左折した。そこからが青山の迷路だ。道は細いし、すべて一方通行だから、一つ間違って曲がると思わぬ方向に行ってしまうことになる。左に曲がって右に曲がってまた右に曲がって左に曲がって、大丈夫かなと思っていたら、見覚えのある古い旅館の前に出た。それが青山病院の門のある通りだった。お見事、ということ。点滴通いは週に一度、今週は渋谷まで歩く途中で、入り口が凝った感じの喫茶店を見つけて入った。古い焼き物などが飾ってあって雰囲気は悪くなかったが、コーヒーが一杯800円はちょっと高いな、と思った。でも、デートスポットとしてはいいかも。しかし、わたしにはデートは縁がなくなっている。それは寂しいことですね。