鈴木志郎康の詩

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『罐製同棲又は陥穽への逃走』極私的分析的覚え書

極私的分析的覚え書



又は缶製同棲は本当に罠であろうか
又は幻滅の予防

                    鈴木志郎康
1
 現在詩集出そうとしていて、ひどい幻滅を感じながら、その幻滅を私自身に幻滅を感じはる私の詩と共にここに印刷しておいた方がよいと思う。そうするのは記念のためでもなく、教訓でもなく、この幻滅が何がしか生活に意味を持つものとしてではなく、この幻滅は私に表現を要求する。この幻滅は極めて大きくて、私を圧倒してくる。この幻滅は私の詩が私に与えるものなので、私の詩を読む人が決してその人には伝わらない。しかし現在の私の真なるものが何かといえば、この詩集の中の詩よりもこの幻滅がそれだといえるのではないだろうか。私は詩を書き、詩と私との間にはある距離が生じる。そしてその距離が全く無視されるか、又極めて小さなものと受けとめられるのを私はひどく恐しく思う。詩について、又私自身について、自分で云々すればする程、他人が何か言葉を交せば交す程、私は自分の存在について不安になり、その距離が人間の通過を拒むものとなって、私は自由を失い、私はとてもみじめなものになってしまうのではないかと恐れる。実は私は完壁な無視の中に葬り去られてしまえばよいと思う。私は全く無名でありながら、同時に私は私自身を生み出したということで栄光を与えられればよいとも夢想する。だが、そんな価値ある私自身が存在する筈がないのだ。他人に対して私は何も持っていない。
 けれども、私は私自身どんな価値も持っていないのに、私はひたすら大きな愛を求めている。その愛の実現を私は極めて性急に求めているので、他人の行為について常に幻滅を味合い、そして殆んど嫉妬の気分の中に生活しているといってもよい。しかし、私は誰かが私の詩にではなく、私自身に何らか未来を見て、愛の手を差しのべたとしても、勿論愛の手を差しのべるのが私自身であっても、私は一切の私に向けられた愛を拒絶するしかない。私は退屈してしまうのだ。無償の関係が私をとりまく範囲内には決して存在しないと固く思い込まされて、私は自分の生活を作らされて来た。私は自ら無償の行為をしたことがない。いや発想に於いて無償であっても結果までそのままであったためしがない。更に私は無償の行為がどう実現されるのか出合ったことがない。無償の行為が可能となって、純粋に個人の将来が価値あるものとなるためには、人類にとって物が極めて豊富で、物という概念さえも忘れてしまう程の生活が実現されなければならないのではないかと思う。そんなことを考えると、私は追われるように歩くか、何か急いで食べることになってしまう。
 この私の詩集はやはり全くの浪費であると感じないわけには行かない。それはこの詩集の行き着くところが考えられないからなのだ。私は自分の詩を自嘲しているのではない。この浪費の意味をはっきりさせることは、私の自分の詩に対する態度をいくらかでもはっきりさせることになるだろう。私は他人に訴えなくてはならないと考えて詩を書いたことは一度もなく、更に私はそのような考えで発表したことは一度もなく、そして私には自分の書いた詩が価値あるものだという確信に至っては全くない。そもそも私は自分の詩について真面目に考えたことなど一度もないのだ。他人の詩については尚更のことだ。それなのに、私は詩を書き続け、発表し続け、今ここにその上自ら浪費であると判断しながら詩集を作ろうとしている。私は確かに自分の詩について真面目に問いかけたことはなかった。しかし私は自分の詩を必ず読んだし、他の人々の詩も読み、又他の二、三の人が私の詩を読んでくれていることを知っている。けれども、私は、いくらか目分に向っていたとはいえ、自分を含めていわゆる読む人に向って意識山に詩を書いたことはなかった。勿論、私白身他の人々の詩を読むのであるから、同じように私の詩も読まれることを予想出来た。私の詩はひとりひとりの読む人に単独に読まれていることは想像できた。しかし、私には私の詩が受け入れられる共同体まおろか、やや広い集団というのも考えられなかった。私はいくつか同人誌に関係して来たのは、そうした私の詩の読み手を求めていたことというように理解することも出来る。しかし、根底にあっては、自分の詩の受け手としての集団はどうしても考えることが出来なかったといえよう。詩の作者である私と別の私とに引裂かれることについて恐怖を感じないではいられないが、それよりも先きに、私には私の詩を受け入れる相手のないことの絶望と不安があることをいわなくてはいけない。本当に、私の書く言葉はどこに行き着くのであろうか、この不安が自分の詩集を作る行為を浪費と判断させるのに違いない。
 他人のことは別としても、私自身で私の詩を受け入れようとはしていなかったのではないか。私は書いてしまった詩を孤児院に入れるように扱って来たとはいえないか。私は余りにも貧しく自分の詩を育てることができなかったからなのか。むしろ私は自分の書いた詩を憎んでいたといった方がよいだろう。私は自分の書いた詩を捨てるために、次から次へと詩を書いたともいえる。私は今、それらの詩を拾おうとしているのだ。私は今自分の詩を認知しようとしているのだ。本当にいやなことだ。しかしそれをやらなければいけない。私はもう三十才を越えて、何かを終えたからなのか。そして、更に終った何物かについて、ここに金と労力をかけて試みるのはやはり浪費だと判断しないわけには行かないのだ。私は自ら自分に手を差しのぺるのか。いやこの浪費が最早三十才を越えて見えて来た老年を安楽にするための保険であれよかしと願っている次第でもあるのだ。だから私は今まで捨ててかえりみなかった詩を引きとるに当って、弁明にこれ努めなければならないというわけなのか。今度は詩に私が捨てられないようにしなくてはならない破目になったということなのか。


4
 私はどうしても自分を弁護するような口調になってしまうのをどうしようもない。私が何といおうと、私の詩の貧困を救えるものではない。私はこの文章を進めるに従って、幻滅はますますひどくなって行く。私の詩は想像力がひどく希薄で、自分で読んでいても解放された気分というものが感じられない。私自身でさえも、何かを求めたら、私を黙殺してしまうだろう。この不幸はしかし誰れのものでもなく私のものなのだから引受ける以外仕方がないのだ。とはいっても、その引受け方は、鏡の中に自分の姿を見ていて引受けるというのではなく、眠っていて目を覚したら、他人がじっと今まで眠っている自分の姿を見ていてその瞬間に目をそらしたその彼の視野の中の私の姿はどんなものであったか私自身には皆目わからないまま、私の身体は私のものなので仕方なしにその姿も引受けなければならない羽目になったように、今ここに自分の不幸を引受けなくてはならないのだ。私は自らの希薄な現実感の中で自分の死を予見しながら永遠に溺れ続けている気分だ。私の詩のどの言葉も私自身のっまらない現実をつき抜けていない。状況は偶然のままばらばらに私を取り巻いているに過ぎない。この放置されたような言葉を拾って、何か意味をたどろうとするには私個人への興味がなければとてもできるものではない。言葉というのが常に言葉が示す一般な意味の方から近寄られるものであってみれば、その私の言葉が余りにも私自身の身体的境界内にしか意味を持ち得ないものであるのだから、ここのところで作者と読者が断絶してしまうのは必然である。ここでもし作者と読者の間に関係が成立し得ることがあるとすれば、そのためには先に述べたように詩に先行して作者に関心を持つか、又は詩と同時に作者を直接に知るかすることが必要だろう。つまり、愛が必要なのだ。このあたりの私の詩を生きたものとして捉えようとすれば、どうしても私自身の身体を通過するか、叉自分の身体を通過した言葉というものを知っていなくてはならないということなのだ。
 やがて私が加わった詩作者のグループ「×」(バッテン)や「凶区」(キョウク)にあってはこのことが可能であった。私たちの間では表面切ってお互いの現実認識を問うというよりも、それぞれ質的な違いはあっても物体化した言葉を生きているということで共通していたといえよう。ということは、お互いに素早く相手の身体を通りぬけて、お互いの詩をある程度作者と同じように生きることができた。私たちにとって詩の内容は即言葉なのであった。言葉が一般的に持っている意味をそのまま自分のものにするということはなかった。誰もが言葉に立ち向っていたといえる。結果的にはそれぞれ新しい意味を引き出すことになっていたかも知れないが、その立ち向うという行為の内容はそれを目的としていたのではなく、各自の孤独の自覚がその行為を導いたのであり、言葉を生れながらのものとして扱う態度を止めて、自ら作り出したもの或は自覚的に使い始めるものとして扱ったことなのだ。最早言葉は口にすればそれで通じるものなのではない。それは恐らく現実の流動の激しさが原因だとは考えられるが、人間が真に生きようとすれば、その流動の激しい中にあっても通じ合おうとするものであるし、そのために激しい流動の様々な様相にあって通じ合うための工夫をするのは当然ではないか。そのとき言葉は手の中にはっきりつかめる物体のようなものとなる。しかし、言葉は本質的に生れながらのものでもあることを止めない。私たちはこの辺のところをよく知っていた。私たちの詩作行為はお互いに極めて私的であり、更に私自身を例にとれば、ひとつひとつの言葉に殆んど他人の入る余地のない程に個人的な具体的な生命を込めていたのだから、十全の理解は不可能であったけれども、私たちの間では十全な理解がなくそれで感情的にこじれてお互いに立ち去ってしまうなどということはなかった。これが私にとってはよかった。言葉に生きているという共通点、この結びつきは私には大きな意味を持っている。つまりそれは私の言葉に対する態度の肯定であり、この肯定はそれまで私をとり囲んでいた無視や否定とは全く違ったように私に作用した。
 私の周囲のあらゆる方面から、自分の言葉の使い方が否定されていると、私にとっては私の身体に代りがないようにそれ以外の言葉の使い方というのがないのだから、自分を全く否定して相手に従うか、相手を拒絶して自分の中に閉じこもるかしなくてはならない。私は周囲に従うためには不器用過ぎだし、私は又高慢でもあったから、自分の中に閉じこもった。つまり、そうなると自分の現実感と言葉が全く重っているような錯覚に陥るのである。これが先にのべたところなのだ。しかし、これとは逆に少しでも自分の道が肯定されるいずれかの広場へ通じていると知ると、言葉について明るい気分になり、自分の言葉から少しずつではあるけれども身を離すようになる。このことは言葉の以前に存在する現実ということの自覚でもある。言葉と現実が切り離され、現実の物をいちいち自分の内部に引き込む必要もなく、言葉に生きるということが許されているように思った。つまり、この詩作者としての仲間の存在は私に言葉への偏愛を助長した。こうなって、私には純粋に個人的な体験である意識内の言語映像を書きしるすことが可能になった。(もっとも、この頃私はアンリ・ミショーの”La Vie dans Les Plis”を通読して流れる水のような生命の実在感に驚いた。その影響もあると思う。)ここに詩として書かれた言葉は客観的にどんな実体も持っていない。しかしそれは私にとっては生命の言語的現れとして価値あるものだったのだ。それは風景や光景を形成しているが、いわゆる心象風景といわれるものとは別である。なぜなら、心象風景といわれるものには、その心象の持ち主の現実に於いての体験の反映か、或いは叉彼自身の主観の情緒的処理かのいずれかの実体があるが、この言語映像はそれがそのまま実体なのである。つまり、その言葉は作者の身体の一部としてそこに提出されているといってもいいのだ。だが勿論言葉は身体ではないが、その言葉は私によって生きられたものではなく、今度は私そのものででもあるかのように生きることを求めているといえる。とはいっても、私が自分の使う言葉のひとつひとつに対して批判的であるということがないのだから、習い億えた言葉が私の具体的な生活を背負ってストレートに出て来てしまうことにはどうすることもできず、私の生きるという力が稀薄なものになってしまっているのはあらそえない。しかし、集められた言葉と生み出された言葉は本質的に違うのだ。ところが、他人との関係でこの詩を見ると、それが私から生み出されたものであればある程、言葉は空っぽのものに見えて、いわば他人にとっては他人事なのだ。そしていざ詩が書けてしまうと、今度は私の収集物として私自身に対応する関係がないので、極言すると私にとってさえも、その詩は他人事のように思えてくるのをどうすることも出来なかった。これは明らかに、詩作中の自分とその後の自分とが分裂した様相を示している。この分裂は恐らく、言語映像が殆んど純粋に個体的なものであるのに対して、書くために使われた言葉がひとたび記述されるとその普遍性を指向するという本来的な性質が前面に出て、書きつつあったときの言語映像の個体性が失われてしまうことによって起るものなのであろう。つまり、生活する私が当然持っている筈の、この言語の普遍性へ向う面に加担している極面を、詩という表現の中で外へ置き忘れて来ていたということなのだ。以上のような私自身の言語状況のもとにこの詩集に収められている詩は始まっているといえよう。
 実に、私が使う言葉の普遍的な極面が忘れ去られているということが、私の文学活動の大きな特色なのである。私が陥っている主観性に対する殆んど全面的な信仰がそれである。この信仰は私の社会生活から導き出されてくるものだろう。つまり社会的状況への極めて消極的な態度がそれを養っていたのだ。「×」や「凶区」という詩作者のグループが私に与えてくれた環境はある意味では割合と不快なものであったが、別な意味では極めて快いものであったといえる。それは先きに述べたように、言葉に対する態度が非常に共通していて、私はそこで息をつけたということもあるが、それぞれの主観性が犯されなかったということでもあるのだ。私とグループ内の他の人たちの間に総体的な人間関係が回復されていたということはなかった。私は長い間他の人たちの詩以外のことについて殆んど何も知らなかった。そして私たちはそれぞれ詩作行為以外の違った生活を持っていた。私はその詩以外の生活の次元での人間関係を開いて行こうとは余りしなかった。私は広島市というグループの殆んどの人たちが住んでいる東京とは離れたところで生活していたことにもよるけれど、私自身が総合的な人間関係の回復をはかろうということを意図しなかったのだ。勿論、私たちは機会が許す限り会って一緒に時間を過し、お互い自分の生活を話すから詩以外のところへ人間関係が発展して行くこともあるけれど、私の場合に限ればそちらの方に本腰で身を入れるということはなかった。しかし、私としては常に安保条約反対斗争の経験を人間関係の見えない主観的な媒体としていたので、あのときとった態度がどういうものであったかを気にしないではいられなかった。しかし、それを私は表面に押し出すことはしなかったし、今後もしないだろう。なぜなら、それを表面に出したら、私は極めてみじめな状態へ落されてしまうからだ。私は現在自分をどう弁護しようと、あの斗争を主観的にしかとらえることが出来ず、そのために斗争の途中で脱落してしまったことは確かなのだ。それは私にとって苦痛なのだ。このとき脱落しなかったものの方に視点を移すと、私の関心が自分自身から離れ得なかったことは恥しいと思うし、更に私は結果的に裏切り的な行為をしてしまい、最早受け入れられることはなく、抹殺されてしまうのではないかと恐れていたといえる。こうした自意識が引き起す不安定な気分の中に私は絶えず引き込まれて、他人に対しては殆んど常に嫉妬の感情を懐かずにはいられないのであった。こうして嫉妬こそ正に私の生命の構造なのかも知れない。嫉妬とは自己保存的な価値体系なのだ。この価値体系の狂暴な存在に対立して、私自身は極端な自己否定的な態度を取ることになってしまうのであろう。
 私はここから脱却しなくてはならない。詩はその出口となり得るだろうか。私は詩作する際に、自分の個別性を言葉の中に極度につめ込む仕方を取っていたというのも、この自己保存的な欲求から出ていたものに違いない。そしてその個人的欲求の満足に終ってしまうものであれば、私のより本質的な力である表現、つまり他人との真の交流には至らないであろう。そこではその本質的なカは抑圧されて、私は不安、危惧、更にいえば恐怖をいだいて、孤立した生活を続けなくてはならないだろう。詩はその出口となり得るだろうか。この問に対して私は悲観的にならざるを得ない、私には自分の生命の構造としての嫉妬からは遠い、他人の方に開かれたそれを持ちたいという強い願望があるが、その願望の達成が詩によって可能であると思えない。なぜなら、詩を構成する言葉の意味が幸福に一致し十全な理解が成立つためには、現在私たちが余儀無くされている非常に狭い生活と非常に広い範囲に及ぷコミュニケーション媒体に囲まれているということは、どうしようもなく絶望的に思えるからなのだ。


『罐製同棲又は陥穽への逃走』所収(1967年3月発行)
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