
Room 5
知識人とは何か
エドワード・W・サイード Edward W. Said (1935−2003)
『知識人とは何か』(大橋洋一訳・1995・平凡社)
知識人とは何か
(略)しかし、当時にあっても注目すべきことは、イラクに対するアメリカの声高な非難も、ブッシュ政権の悪辣な手口を知ると、きわめてうすっぺらなものにみえてくるということだ。まずブッシュ政権は、その強大な権力にものをいわせて国連に圧力をかけ、国連を戦争へとかりたて、おまけに反攻開始の〔一九九一年〕一月十五日以前の段階で、クウェート占拠を撤回させるための交渉可能性をすべて黙殺し、そのくせ合衆国や合衆国の同盟国が関与した不法な領土占拠と侵略について国連で審議することを拒否したのである。もちろん、湾岸において現実に問題となったのは、合衆国に関するかぎり、石油と石油戦略であって、ブッシュ政権が表明している政治的原則など、ほんとうは二の次であるのは誰の眼にもあきらかであった。ただそれにしても、不法な侵略と略奪の結果手に入れた土地は承認すべきでないといった、合衆国の知識人たちの議論がなんともしらじらしいのは、不法に手に入れた土地を承認しないという原則が、普遍的に自国に対しても適用されていないからである。湾岸戦争を支持した多くのアメリカ知識人たちは、合衆国そのものが、それよりすこしまえにパナマに侵略し〔一九八九年暮れ−一九九〇年はじめ〕、しばらくのあいだそこを占拠したという事実を、都合よく忘れていたようだ。どうせ、イラクを非難するなら、当然のなりゆきとして、合衆国も同じ罪で批判にさらされるのではないか。ところが、答えは否である。なぜなら「われわれの」動機は高尚な正義にもとづくものであり、サダム・フセインはヒトラーにほかならず、また「われわれは」おおむね利他的、博愛的な公正無私の精神でことをおこなっているのであって、それゆえこの戦争は正義の戦争となるからである。(略)ほんとうに現代の知識人−−とはつまり、客観的な道徳規範とか、賢明な権威と思われていたものがすべて消滅し混迷をきたしている時代に生きる知識人ということだが−−にとって、自国のやりかたならこれを無批判に支持して、自国の犯罪行為に眼をつぶるか、さもなくば、「どこの国でもそれをしていると思うし、それが世界のやりかたではないか」とたかをくくってしまうというふたつの選択肢しかないのだろうか。むしろ、わたしたちはこう要求すべきではないか。知識人とは、きわめて偏った権力にこびへつらうことで堕落した専門家として終わるべきではなく−−これまで語ってきたことのくりかえしになるが−−、権力に対して真実を語ることができるような、べつの選択肢を念頭におき、もっと原則を尊重するような立場にたつ、まさに知識人〔司書注・この「知識人」に傍点〕たるべきではないか、と。(略)
環境問題と医学者
飯島伸子 いいじまのぶこ (1938− )
『環境社会学のすすめ』(1995・丸善ライブラリー)
環境問題と医学者
(略)わたくしは、一九六八年に東京大学医学部保健学科に新しく設置された保健社会学研究室に、社会学系からは、ただ一人の助手として就職しました。研究者としては、社会学の大学院に、水俣病、新潟水俣病、四日市公害問題、沼津・三島市・清水町の石油コンビナート進出反対運動の四事例に関する調査をもとにして修士論文を提出していた程度でしたが、公害・環境問題の社会学的研究をライフ・ワークにしたいという気持ちでいたものでした。
就職一日目に、講座の教授はわたくしを「引率」して保健学科の各教室への挨拶にゆくにあたって、真先に、医学部医学科公衆衛生学教室のA教授の所を訪れました。違う学科の教授の所に連れてゆかれた理由は、その方が、公衆衛生関係の権力構造の頂点に立っている人物だということのようでした。A教授は、わたくしに対して一言こう言いました。「あんたが、公害問題を通産省や企業の立場で研究するならいいけれど、厚生省や住民の立場で研究するなら、わしは、あんたを好かんからな」。この教授にとっては、患者たちから目の敵にされることの多い厚生省さえも、公害問題においては通産省の利益に対立する存在として位置づけられていることがわかる発言でしたが、そのことはともかく、多くの学者を束ねる立場にある人物の口から出たこの言葉は、社会学の自由な雰囲気の中で研究していたわたくしを愕然とさせるに充分なものでした。医学部とは、なるほどこういう所なのかということを、瞬時にして気づかせられる貴重な体験だったとも言えます。
大学医学部の中にあるこうしたヒエラルヒーは、医学者がそこで占める地位に応じて、世間で発生する保健や医療に関連する事柄に、大きな影響力を発揮する組織的な保証機関として機能します。ヒエラルヒーの頂点に位置する医学者であれば、その影響力は絶大なものです。しかし、社会的性格の強い保健や医療にかかわる事件で医学的判断を下すに際して、医学者が完全に科学的であり得る可能性が意外に小さいことは、ここに紹介したいくつかの事例からも推測できましょう。つまり、医学者は、多少の例外はありますが、裕福な家庭の出身者であるとともに、社会科学的な教育を受ける機会が少ない職業の人々です。日常的な交際範囲も階層的に限られていますから、一般的な意味でも、公害患者とは、およし異なる世界に生きている人々です。一方で、医学者に権威があればあるほど、発生源の関係者が接近してきて、さまざまな情報を提供します。大抵は、情報のついでに大小の手土産がついてきます。こうしたことが続いている間に、有力な情報提供者は、有力な判断材料提供者としての位置を獲得していくものです。(略)
日原鐘乳洞の「地獄谷」へ降りていく
氷見敦子 ひみあつこ (1955−85)
『氷見敦子詩集』(1986・思潮社)
日原鐘乳洞の「地獄谷」へ降りていく
その日を境に
急速に体調が悪化していった
明け方、喉の奥が締めつけられるように苦しく
口に溜まった唾液を吐き出す
胃を撫ぜさすりながら
視線が、白み始めた窓の外へさまよっていく
八月、千石からレンタカーをとばし
奥多摩の陽射しをぬって(井上さんといっしょに)
日原鐘乳洞に入った
見学料金
大人・500円 中人・350円 小人・250円
入洞時間
午前8時〜午後5時
蛇行する道を
引き込まれるようにして進む
左右から鐘乳石が不思議な形で迫って来て
躯を小さく沈めるようにして歩く
一晩中、鈍い腹の痛みが続いた
何度も寝返りを打ち
躯を眠りの穴へ追い落とすようにするのだが
痛みに引きもどされ
呻くしかない
まどろみながら夢のない夜を渡っていく
冷気が洞穴に満ちているので
思考する温度が急速に下がり始める
かつて、狭くて暗い道を通って来たことがある
という記憶が
脳の奥で微かにうづくようだが
恐怖はなく
本能だけがわたしの内部をぼんやり照らし出している
柔らかい胎児の足が
濡れた道をこすって穴の奥へ這い寄っていく
下腹部が張り
死児がとり憑いたように腹が脹らんでいる
胃と腸が引きしぼられるように傷み
躯をおこすこともできず
前かがみになってのろのろと移動する
鐘乳石の壁を伝って地下水がしたたり
足元に水溜りを作っていた
「格天井」「船底岩」を過ぎ
「天井知れず」の下で頭上をながめる
重なり合った鐘乳石の割れ目にぽっかりあいた穴の果ては
見きわめることもできず
目を凝らすうちに
とりかえしのつかない所まで来てしまったことに気づく
わたしの足には
もう鎖のあともないが
数百年前、ひとりの男であったわたしは
このような地の底の牢獄に閉じ込められていたような気がする
便が出なくなり下剤を常用する
午前八時に便器にすわり
一時間近くにわたってどろどろに溶けた便を何度も出す
トイレットペーパーが大量に消費され
汚水が滝のように下の階へ流される
「三途の川」を渡って「地獄谷」に降りる
地の底の深い所に立つわたしを見降ろしている井上さんの顔が
見知らぬ男のようになり
鐘乳石の間にはさまっている
ここが
わたしにとって最終的な場所なのだ
という記憶が
静かに脳の底に横たわっている
今では記憶は黒々とした冷えた岩のようだ
見上げるもの
すべてが
はるかかなたである
九月、大阪にある「健康再生会館」の門をくぐる
ひた隠しにされていた病名が明らかにされる
再発と転移、たぶんそんなところだ
整体指圧とミルク断食療法を試みるが
体質に合わず急激に容体が悪化する
夜、周期的に胃が激しく傷み
眠ることができない
繰り返し胃液と血を吐く、吐きながら
便をたれ流す
翌日、新幹線で東京へもどる
<未完>
ハダカ
鶴見俊輔 つるみしゅんすけ (1922− )
『アメノウズメ伝』(1991・平凡社)
ハダカ
(略)ヴェトナム戦争に反対する運動のなかで、自分の反対する戦争のさなかで戦線を離脱する呼びかけを日米の会議で決議し、ビラをつくって横須賀の米軍基地でまいた。すると実際に脱走兵が出て来た。脱走兵をうけいれるというのは、日本の反戦運動にとってはじめての経験なので、映画をとって、そこで彼ら自身の思想を語ってもらうこととし、その仕事が終ってから、四人のうちの二人をあずかって私は、家に泊めた。
脱走兵うけいれは私にとってもちろんはじめての経験だった。おなじように脱走兵自身にとってもはじめての経験だった。彼らは動揺していた。二人ではなしあっているうちに、ひとりは脱走を中止して軍艦にもどるという。二人で口げんかをしている。私は、この議論にくわわらなかった。それぞれの当事者の思うままにするがよいと言って、その夜は議論を中断してねた。
あくる朝、二人のうち、ひとりは、軍艦にひきあげる支度をしていた。それでは、日本を見ることもこの日かぎりになるのだから、何か見ておきたいことはないか、と私はきいた。
「風呂屋というものに行ってみたい」
では、行ってみよう、ということになって、誰が見張っているともわからないから、私の家に一番近い銭湯をさけて、少し遠いところまで、三人で歩いていった。ちょうど晴れていて、愉快な散歩のあと、誰もいない、あけたばかりの風呂屋に入った。ひろい浴場にさんさんと日の光がさしこんできて、ゆっくり湯に入っているうちに、くつろいだ気分になった。また散歩して、家にもどってくると、軍艦にもどるとそれまで言いはっていた青年は、出発点にもどって脱走をつづけると意見をかえた。
彼が軍にかえると言いだしてから、私は、何の説得もこころみなかった。彼がハダカになってひろい風呂につかるということが、彼の内部に新しい視野をつくり、そこで彼は自分の行く道を考えなおした。
このヴェトナム戦争の時代に、小説家武田泰淳と対談する機会があり、そこで武田は、死体の臭気をかんづめにして売りだすことを提案した。政治家に、そして政治にまきこまれているわれわれ自身の間に、人はやがて死ぬということを思いおこさせる、そのことが政治についての一時の勝ち負けをこえる見方をつくるだろうと、彼は言った。
武田 死骸というものは、生きている人間にとっては困ったものなんです。というのは、もっとも愛国的な抵抗者の死骸でも、馬の死骸でも、臭いは同じなんです。運ぶか焼くかしなければどうにもならないものです。もしそのカン詰めを売ったら、戦争というものはすごい臭いのするものだ、こんな臭いは戦争でなければ嗅げない。そう思ったら、二度とやりたくない、ということになる。 (武田泰淳・鶴見俊輔「国家と政治死」、『現代の眼』一九六八年十一月号)
ハダカのはたらきには、死体のはたらきに似たところがある。うまれた時のあかんぼうはハダカだ。死ぬ時にも、一度は着衣をはがされてハダカになる。ハダカとハダカのあいだに、着衣の人生がある。死体としての終点から、生をふりかえってみるのと似ている。(略)
熱い言葉が似合った時代のこと
大崎節子 おおさきせつこ (1948− )
「ARE 第七号」(1996・AREPRESS)
熱い言葉が似合った時代のこと
(略)翌日一応危機を脱したということで、分散して帰宅することになった。Rと一緒にバリケードから出て帰ろうとしていたとき、天沢さん〔司書注・天沢退二郎さん〕と出くわした。
「千葉屋に行きましょうか」と天沢さんが言った。「友達もいいですか」「もちろん」。こうして渋谷から三人で目黒の天沢さんのアパートの近くの千葉屋に向かった。
常連の人たちは天沢さんが大学の講師をしているということも、闘争をしていることも知っているようだった。その日、ジャンパー姿のうすよごれた三人を見て、常連の一人がからかった。「おっセンセイ、両手にハナだねえ」。天沢さんは黙っていた。お酒をゆっくり飲みながら、私たちはこれからのこととかを話していた。お酒はいつも天沢さんのおごりだった。Rは鼻息があらかった。私は「状況を考えてもっと小さな声で」と心の中で、常連の手前を気づかった。そんなときも天沢さんはいやな顔ひとつしなかった。
なにか、政治の話になったときだった。Rのすぐ隣りにいた客が酔ってRにからんできた。「オイ、おまえよお、なんで学生運動やってんの。親から金もらって大学なんて女のくせに行かせてもらってて何だってんだよお。いったい、何のためにゲバ運動をやっているんだよお。頭の悪いこのおじさんにも解るように説明してくれってんだ」。
やばい! と思った。このおじさん、言ってるうちに自分の言葉に酔って本気で怒ってる。まずい! そう思った。頼む、天沢さんに悪いから、Rよ、だまれ。でも、彼女にそんなこと言っても無駄なのは解っていた。こんどは私たちの喧嘩になるにきまっていた。仕方がないからだまっていた。天沢さんに恥ずかしかった。ああRなんて連れて来なきゃよかった。これから天沢さん、お気に入りのこの店に来にくくなるんじゃないだろうか、と気をもんだ。下をむいていたRは、キッとなって顔をあげると「愛のためよ。愛のためなのよ」と言った。「なあにい! 愛のためえ?」こりゃだめだ。私がRを外に連れ出そうとしたそのとき、スーパーマンじゃないけれど、天沢さんが言った。「そうだよ、愛のためですよ。何か文句はありますか。少し黙っててよ」めずらしく怒った口調で言った。怒ったところははじめて見た。酔っぱらいは「へへん」とか言ったあと、迫力に負けてだまった。私はRを恥ずかしいと思った自分を恥じた。(略)
島田
保坂和志 ほさかかずし (1956− )
『草の上の朝食』(1993、『プレーンソング/草の上の朝食』・1996・講談社文庫)
島田
〔司書注・アパートの取り壊しで「ぼく」の部屋に転がりこんできた島田は、勤めている会社の社長の伝記を書くことを条件に、伝記完成時には一千万の手当を出すと言われて、会社に行かずにぶらぶらしている〕
(略)「『進んでるか』って言うからさ、『まだ、一行も書いてない』って言ったんだ。
そしたら『じゃあ、取材はしてるか』って言ってくるから、正直に『まだです』って言ったんだ」
ヤクザの社長を前にしてまったく島田もいい度胸をしているが島田の話しはつづいて、
「そしたら社長、笑っててさ、『じゃあ、考えてるのか』って言うから『考えては、います』って言ってさ、『一日二時間ぐらいは考えてるのか』って言うから『いまはヒントを探してるところだから、何かあると社長につなげようとしているみたいだ』って言っちゃったんだよ。
や、そしたらさ、『そうか』って言って、何て言ったと思う?」
「だから、わかるわけないだろ」
「『この世界の中に自分のことをずっと考えつづけている人間がいると思うとじつに気持ちがいい。俺はおまえの頭の中の一部屋に住みついたような気がする。おまえはことあるたびにその部屋にいる俺を思い出す。しかし俺は本当はそこにはいないんだ。それでもおまえは、その部屋の住人が俺らしき人間だと思うことでしか俺のことを考えられない』って−−」
(略)「や、それでおれ、いちおう考えてる証拠見せようって思ってさ、これ見せたんだ」
『この人を見よ』を読むことが考えている証拠になるのか知らないが島田はここを社長に見せたんだと言って、ぼくにも同じページを開いて見せた。
そこには「私は人に反感を持たれる方法を知らない。反感を持たれた方がよっぽどありがたいと思う場合さえそうはならない。私は自分で自分に対して反感を抱いたことさえ一度もない。私の生活の表も裏もとくと調べてみるがいい。誰かが私に悪意を抱いたという痕跡は、私の人生の中ではただあの唯一の場合を除いて他に見つけられないだろう。そして、好意を受けたという痕跡なら、多すぎるほど、見つけられるだろう」というようなことがじつにウソくさくしかも昂揚した謳い上げるようなニーチェ独特の断定的口調で書かれていて、そこを読んだ社長が、
「ニーチェか。おまえはいいセンスをしている。
こういう調子で書け」
と言ったと島田は言う。
そう言われて相変わらず度胸のいい島田は「だってこんなの何から何までフィクションですよ」と、島田こそ勝手にフィクションだと決めつけてそういうことを言って、それならどうして見せたんだとおこられても仕方ないところだけれど社長はそうは言わなくて、「フィクションのどこが悪い」と言ったのだと言う。
「人間なんか死んでしまえばみんなフィクションにしかならないだろう。他人の記憶する俺なんてものはフィクションでしかないじゃないか。だから俺のことをあまり知らない人間が読んでそうだったのかと思うようなものがいいんだ」
と社長は言って、最後に、
「俺自身の事実なんてものは、俺だけが知っていれば充分だ」
と言ったのだと島田は言って、ぼくは喜んで「文学だねえ」「思想だねえ」「社長だねえ」などと口走ったのだけれど、ところが島田の話にはまだつづきがあった。(略)
70年代
アラム・サロイヤン Aram Saroyan (1943− )
『ニューヨーク育ち』(中上哲夫訳・1996・晶文社)
70年代
(略)それからぼくは夜、ウェスト・ヴィレッジのジョーンズ・ストリートでかれの新しい仕事、テレグラフ・ブックの明かりのついた入口の看板の下に立っているアンドリュウに会った。かれはその夏生計をたてるためにタクシーを運転していた。そしてベレー帽をかぶり、黒の皮のジャケットを着ていた。かれの書店兼住居の内部はヘラクレイトスからアルトー、ぼくらの同時代人の数冊の本まで、厳しく選びぬかれた題名の蔵書が棚にきれいに並べられていた。そしてそこでアンドリュウはヴィクター・ボクリスにぼくを紹介した。ボクリスは精力的なバンタム級のイギリス系アメリカ人で、ジョン・キーツに驚くほど似ていて、ペンシルヴァニア大学を卒業したばかりだった。
(略)ぼくら三人はなんとか自分たちの幸運がつづくかもしれないとだんだん気がつき始めた。ぼくらが計画したプロジェクトが離陸するかどうかわからなかったが、計画はどんどん進み、ぼくらはみななんとか折り合いをつけて友人になろうとしていたようだった。そしてそれが前夜同様、翌朝をほとんど血気盛んでおもしろいものにした。ぼくは二人に持ってきた『ザ・レスト』という詩の原稿を渡した。それから別れの言葉をいい、ボストンへ帰るグレイハウンドに乗るためにアップタウンに行った。ぼくらの小さなアパートにもどると、ぼくは並はずれた関係を持ったことを知った。
秋が始まり、大ボストンの小学校と高校の《ポエット・イン・ザ・スクール》としての義務をはたすことに専念するにつれて、ぼくらのポケット・ポエッツ・シリーズが出始めた。ヴィクターはフィラデルフィア郊外の印刷屋と共同で働き、ぼくらが望むように本ができるように目を光らせるという勘所を押さえていた。カバーに著者の写真が載った大量販売のペーパーバックの大きさだ。ぼくの詩集『ザ・レスト』の最初に仕上がった本が届いたとき、ゲイリンとぼくはその成果の心配りと職業意識に驚いた。それはぼくらが手にした真の新しい本だった。
アンドリュウとぼくの作品のあと、ヴィクターはトム・ウェザーリー、ジェラード・マランガ、ロン・パジェットの回想記、トム・クラーク、テッド・ベリガン、そしてパティ・スミスの第一詩集『セブンス・ヘヴン』を出した。スミスはマランガがアンドリュウに推薦した。そして新しい才能を見抜く鋭い目を持ったアンドリュウは、かの女の作品と、甘美な底流を持ったかの女のタフガールのストリート・スタイルにすぐさま説得されてしまった。
トーク・ショウの翌朝
チャールズ・ブコウスキー Charles Bukowski (1920−94)
『ブコウスキーの酔いどれ紀行』(中川五郎訳・1995・河出書房新社)
トーク・ショウの翌朝
翌朝電話の音で目が覚める。「ル・モンド」紙の評論家からだった。「素晴らしかったよ、このとんでもない男め」と彼が言う。「ほかのやつらはマスターベーションすらできなかったよ……」「わたしは何をやったんだ?」と尋ねる。「覚えていないのかい?」「まったく」「じゃあ、教えてあげよう。きみのことを悪く書いている新聞は一紙もないよ。フランスのテレビ局が何か正直なものに出会ういい潮時だったんだ」
その評論家の電話を切ってから、わたしはリンダ・リーのほうを見た。「何が起こったんだい、ねえ? わたしは何をしたのかな?」
「いい、あなたはあの女性の脚をひっつかんだの。それからボトルをラッパ飲みし始めたわ。そしてあれこれと話したのよ。なかなかよかったわよ、特に出だしのあたりはね。それから番組の進行役の男があなたに話させないようにしようとした。彼は自分の手であなたの口を覆って、『黙れ! 黙れ!』って言っていたわ」
「あいつがそんなことをしたのか?」
「ロダンはわたしの隣に座っていたわ。彼はわたしに言い続けていた。『彼を黙らせてください! 彼を黙らせてください!』ってね。彼はあなたのことがよくわかっていないのよ。いずれにしても、あなたは最後にはイヤホーンをむしり取って、ワインを一口あおると、さっさと出ていってしまったのよ」
「ただの酔っぱらい野郎か」
「それからあなたはセキュリティのところまでいくと、警備員の一人の襟首をひっつかんだの。そしてナイフを取り出して、彼ら全員を脅したのよ。あなたがふざけてやっているのか、そうじゃないのか彼らはよくわからなかったみたい。でも結局はあなたを押えつけて、表に放り出したわ」
わたしはバスルームに入って小便をした。可哀想なリンダ・リー。ドイツとフランスでは、新聞でも雑誌でも、彼女はいつもリンダ・キングとして扱われていた。リンダ・キングはわたしの以前のガールフレンドで、彼女と別れてからとっくに三年は過ぎていた。そのことに彼女はとても傷ついていた。わたしなら別の誰かに間違えられても大して気にはならない。昔のボーイフレンドならなおさらだ。「ところでここにいるのはリンダ・リーでリンダ・キングじゃないんだよ」とインタビュアーたちに言っても、彼らは彼女の名前のことなど意に介さなかった。このわたしとの暮らしを耐え忍ぶことのできる女性は、誰であれ正しい名前で呼ばれなければならないと、わたしは声を大にして言いたい。(略)
遠い挿話
ポール・ボウルズ Paul Bowles (1910−99)
『優雅な獲物』(四方田犬彦訳・1989・新潮社)
遠い挿話
(略)朝の灰色の光のもとで、その男は彼を無表情に見下ろした。彼は片手で教授の鼻を抓った。教授が息をしようと口を開けると、男はすばやく舌を掴み、満身の力をこめて引張った。教授は猿轡をされ、驚愕に襲われた。なにが起こっているのか、わからなかった。荒々しく舌をもぎ取られる痛みは鋭いナイフのそれと区別がつかなかった。息苦しさと唾がまるで彼本人とは別の機械のように際限なく続いた。「手術」という言葉が脳裏にちらついた。暗闇へと沈みかからんとする彼の意識のなかで、その言葉は恐怖心をいくぶん静めた。
隊商は午前中なかばに出発した。教授は人事不省でこそなかったが、われを失った出血状態のまま、猿轡をされ、折り畳まれて袋に詰めこまれると、駱駝の片方の背に括りつけられた。巨大な円形競技場の低い側の端には、岩でできた自然の割目があった。この旅に備えて駱駝でも駿足のメハリ種には軽い荷積みがなされていた。一行は縦一列となってなだらかな傾斜をゆっくりと登り、砂漠の始まりへと出た。その夜、低い丘陵地帯で停ったおりに、男たちは彼を引き摺りだした。依然として思考など不可能な彼の襤褸服のうえに、彼らは缶詰の底を紐で繋いでこしらえた奇怪なベルトを締めさせた。きらきらと光る帯を胴から腕へ、さらに足へ、また顔までへと針金を使って巻きつけた。その結果、彼はすっぽりと鎧に包まれ、さながら円い金属の鱗で全身を覆われたかのような姿となった。教授が正装をしている間、連中は馬鹿騒ぎを止めなかった。笛をもち出してきた男がいた。ウレッド・ナイルの空缶踊りをかなり上手に真似てみせる青年もいた。教授はもはや正気を喪失していた。正確にいえば、他人によって命じられる動きによってだけ存在していた。彼らは望み通りに着付けを完了すると、顔のうえにぶら下っている錫の飾り物をどけて、その奥に食物を詰めこんだ。彼は機械的に噛んだが、実際はほとんどを地面に落としてしまった。彼らは教授を袋に戻すと、そのままにした。
(略)傷は全治し、もう苦痛は消えていたが、彼はいつまでも思考を止めたままだった。食べ、排便し、命ぜられると踊った。意味もなく飛び跳ねたり屈んだりする踊りに、子供たちは喜悦の声をあげた。それは主に躯を動かすにつけ、じゃんじゃんと音が生じたせいであった。そして彼は太陽の熱を避け、駱駝の間に横になって眠るのがつねだった。(略)
司書注・どうしても出ない漢字を開かせていただきました(「もぎ取られる」)。
水獣
富岡多恵子 とみおかたえこ (1935− )
『水獣』(1985・新潮社)
水獣
(略)「皆美も、高坂さんみたいなことをいうねえ−−。夫婦でレイプなんてあるはずないじゃないか」と東田は笑った。
「そういう風に、逃げているパパの娘だというの恥かしいわ。あなたって、負けるのが嫌いなのよ。子供っぽい意味でね。勉強も負けたくないからやったんでしょう? でもママには最初から負けなのよ。ママは理屈を超えてるから。だからママに憧れたのよ、パパは。でも、いっしょに暮すと負けていられない。理屈を超えたママをまかすには、レイプしかないでしょ。ママを憎んでるのに、ママを愛していると錯覚しているから、レイプだなんて思わないだけよね。女に負けるなんて、とんでもないのよ、パパには。あなたはママを、特別に、他と比べられないぐらいに憎んでいるわ。だから、憎んでいるなんて思ってもみないでしょ。愛していると思ってきたし思っているでしょ。パパはね、ママを、うちまかしたいだけなのよ。とてもかなわないから、男の最後の、唯一の手段、レイプするだけよ。でも、愛しているのに、こんなに尽しているのに、どうしてこうも受けいれてもらえないのだろうと思いつづけてるんでしょ。パパはね、ママに限らず、女を愛せないわよ。ステキだったり、才能があったりする女のひとに憧れるけど、そのステキさや才能に負けたくないからそれを憎んでやっつけたくなるんだから。負けたくないって、つまらない不幸な性格ね。家族も他人も不幸にするんだから。しかも、パパはそのことに気がついていないんだから。パパのようなひとが、家族をもつなんて傲慢よ。パパは学生が好きだってよくいってたでしょ。あれは学生は知識でも階級でも、絶対に自分を負かさないから好きなんでしょう。ママは感性が鋭敏なだけでキチガイじゃあないわよ。ママをキチガイにして、勝ち負けの範疇から外へ出して、パパは安心したかっただけでよ。パパ、聞いてるの? 高坂さんだって、今わたしがいったくらいのことはわかってるわ。きっと、パパから家庭の話を聞いたひとはわかるわ、これくらいのことは。ただ、わたしのようにパパにいえないだけよ。他人だもの。パパ、娘のわたしのいうことを聞き流しているようじゃ、あなたはほんとに、人間のクズね。娘だから、ホントのこというのよ。うんざりさせられたから。もう、ほんとに、うんざりなんだから。パパは、自分をハッキリ見ないと、これからだってだれにも好かれないわよ。だれだって、パパの傲慢にはうんざりするものね。もう、二度とこんなこといわない。はじめてで、最後。家族で、パパという、傲慢で無智な幼児をもてあましているってことを忘れないで」と皆美はいい、靴を履いた。(略)
夜と夜の夜
佐藤信 さとうまこと (1943− )
『夜と夜の夜』(1981・晶文社)
夜と夜の夜
雨あがりの午後 土埃のにおい
ひんやりとした風 揺れるかげろう
それはぼくの知らないタオのまちだ
ぼくはまだ生まれていなかった
日照りのまちにぼくは生まれた
ひと目見ただけで ぼくには解った
ぼくの生まれたタオのまちは
夜を待ち望む真夜中のまちだ
明るさが闇のしるしのまちで
ぼくは道には迷わなかった
いつもつきまとう短い影が
足もとを照らす灯火だった
まちがぼくを怖れぬように
ぼくもまちを怖れなかった
けれどもまちがぼくを拒むようには
ぼくはまちを拒めなかった
ぼくはまちに質問した
大抵は答える声もなかった
時おり嘲る百万の声が
ぼくの問いそのものを打ち消した
たとえばぼくはまちに尋ねた
ぼくには賢さが必要だろうか?
自然の愚かさをまちは模倣する
それがまちの答だった
ぼくには強さが必要だろうか?
せせら笑いがひとしきり聞こえ
取り繕ったいかめしさでまちが答えた
強さは弱さの隠れ蓑にはならない
ぼくにはずるさが必要だろうか?
今度はまちは大笑いだ
君の質問は充分にずるい
しかしわれわれはその手には乗らぬ
ジャングルに生まれた獣のようには
このまちで生きることができなかった
賢さでも強さでもずるさでもない
まちの悪意をぼくは知った
ぼくは飢えても渇いてもいたが
ただ歩きつづけるほかはなかった
行く先々で出会うぼく以上の飢えや渇きを
ぼくは顔をそむけて通り過ぎた
憐みや同情は求められていなかった
足をとめない理由はほかにもあった
立ち止った人々の妬みや優越が
まちの悪意の理由だったからだ
もちろん 好意や友情もあった
いたわりの言葉や握手のかわりに
ささやかな暴力が証しにされた
無一物のぼくから盗もうとした友人さえいた
ぼくが学んだ暴力は
どれもはにかみながら途方に暮れていた
ぼくを産み捨てた母親は
素早く忘れることでその罪を償った
暗闇とガソリンのにおい
金メッキと硝煙のにおい
モーター・サイクルとどぶ泥のにおい
嘘とナフタリン ホルマリンのにおい
ぼくは次第に答を求めなくなった
譬え話と現実とはしばしば容易に入れ替り
無価値な死はたちまち比喩の餌食となった
死者は死者であることを許されなかった
暴力を真似る必要はなかった
ただ暴力の仕組を見透すだけで
ぼくはまちと折り合いをつけた
かくしてまちの悪意の第二の根拠が明らかとなる
意味はそれ自体暴力であり
暴力はそれ自体意味である
自然への遁走は自由だったが
それとて比喩の詐術の罠が仕掛けられていた
奪われてはいたが孤独ではなかった
そのようにしてぼくはまちになじんでいった
飢えの苦痛も耐えられなくはなかった
それがまちに生きる資格ならば
知識はいつの間にか身についた
知識は生きる術を教えたが
生きる術そのものとはならなかった
知識を忘れるためには努力が必要だった
ぼくは自分の地図をつくった
タオのまちはいくつかの点であらわされた
ひとつの点がひとつの暴力を意味した
ぼくのタオには輪郭がなかった
地図を歩くぼくの中で
青ぐろい魚がゆっくりと泳ぐ
ぼくの足もとから影が消えて
真夜中のまちで いつかぼく自身が夜になった
雨あがりの午後 土埃のにおい
ひんやりとした風 揺れるかげろう
それはぼくの知らないタオのまちだ
ぼくはとうの昔に死んでしまっていた
司書注・ト書きを一行省略させていただきました。
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