
Room 4
聖なる淫者の季節はじまる−−六〇年代後半から七〇年代にかけて
白石かずこ しらいしかずこ (1931− )
「るしおる」27(1996・書肆山田)
聖なる淫者の季節はじまる−−六〇年代後半から七〇年代にかけて
(略)女とか男とかをこえて、難解と言われる現代詩を声に出して読むのは邪道だという見方が世の大半の考えであった。詩の朗読はNHKラジオの朗読の時間がお手本とされていて、人々は、それが朗読だと思っていたから、ジャズの即興演奏と共演の詩の朗読など全く無縁だと思って、それを聴きもしないで否定していた。それにエンターテイナーとしてのジャズとは全くちがうニュージャズ、クリエイティブな実験に実験を重ねてきてできた前衛ジャズ、フリージャズなどは騒音として耳をかたむけもしなかった。そういう時代に、詩人であり、女であり、ビート詩を愛し、ジャズを愛し、それのセッションで新しい詩とジャズの結合した芸術をめざそうと努力する者などは白眼視され、全く相手にされなかったから、生きて詩の創造行為を自分の信念にしたがってやろうとすることは容易ではなかった。七〇年代に入ってからはフェミニズムも世界的な潮流となった。するとわれもわれもとこれに飛びつく、という時代になり、女が子宮について書き、性交について書く。しかし、これが女性詩のはじまりではない。その前、六〇年代から七〇年代にかけてこそ、女性詩が解放される前の受難と闘争の季節、踏絵の時代であった。男根詩人という不幸にも名誉ある呼び方で、その言葉だけがポルノチックにとりあげられて、あげつらわれたその時代こそタブーの解禁をまだまだ遠くにして、タブーを破ろうとした最初の季節だったのである。
わたしが最も敬意と感謝をこめて思うのは、西脇順三郎が「週刊文春」のスキャンダルを書くのを目的にやってきた記者に「あの方は、近代の立派な詩人です」と話したということだ。西脇婦人は、わたしへの一言のために西脇先生の名誉に汚点がつかないか、と傍らで内心はらはらしていたと聞いた。この時に、人々の態度は二つに別れた。数少ないが、わたしの生き方と詩を正当に評価した発言をした人たち。匿名で非難へまわったもの。これらは、過ぎてしまった砂嵐のようなもので、今では歴史の彼方の、もう聞こえない遠い声だ。だが埋めてしまってよいものもあるが、掘りおこして実証しなければ、今日立っているところすら見えなくなるものもある。現在のコトバの解放を思えば、そんな六〇年代があったかなどと、今では半信半疑で信じる者すらいなくなっているのだ。では、どうして、いつから性詩人はタブーでなく詩人として認められるようになったか。これまで性(セックス)詩人とポルノと詩を同一視し、このような詩人の作品をうちの雑誌にのせられるかと、わたし自身に向かって罵倒した編集長も、クルリと変わって、ぜひ書いてください、と変わったのは、一九七〇年代に入り、詩集『聖なる淫者の季節』がH氏賞をもらってからだ。タエコは、H氏賞は新人賞だ、あなたは全詩集も文庫も出て、すでに確乎とした詩人としてその作品も立派なものを書いているのに、なによ、新人賞なんて、屈辱的だから、そんなの受けるのよしなさい! と言ってくれた。その気持ちは嬉しかったが、この社会には、そのようなものが必要なのだということには、賞をもらってから気づいた。人々はもう男根詩人とも性詩人とも言わず、スキャンダル扱いをやめてしまって、一八〇度変わったのだ。ジャーナリズムしかり。おろかしいことだが、その通りで、わたしは、それをヤユする意味でも授賞式には黒のレインコートを着て、つつしみ深く見せ、いざ、ステージにあがる時は、それを脱いで、白のデシンのヒタヒタのミニのドレスに赤いストッキングで現れたから、ウワーッ! という驚きの歓声が客席から起きた。
わたしは「今日はミュージックホールに出るような服で現れれたのに、それでも賞をくださるというので、賞というのは本の表ではなく、内側、なかみに与えられるのだとわかりました。そして誕生祝いというのは、おくれてもらっても嬉しいものです」と話したのをおぼえている。それがわたしのシニカルな挨拶であった。(後略)
虞美人草の太陽−−篠山紀信の「激写シリーズ」における超越の構造(からくり)
草森紳一 くさもりしんいち (1938−2008)
「広告批評」(1994・10・マドラ出版)
虞美人草の太陽−−篠山紀信の「激写シリーズ」における超越の構造(からくり)
(略)「シノヤマキシンは、生。んで、ソクテンキョシしてんだよね、則天去私。グビジンソーしてるのね、虞美人草。んでもって、1泊2日で激写するじゃん」
禅病にかかった夏目漱石は、「則天去私」できたと言えない。志向して、あがいたのである。彼の作品はその墓標である。篠山紀信の「激写シリーズ」は、文弱の徒たる漱石にくらべれば、はるかにこの「則天去私」を一見、楽々とクリアしてみせているのである。この「一見」が大切である。
「つい、アタシはひろげてしまう。シノヤマキシンはひろげない、ひろげて撮ってもソレを出さない。ひろげるのはキミ、キミにひろげさせる、キミにシャセーさせる。そーシャシンする、キシンは、そーシャシンしてる、シャシンしてる、シャシンごっこしてる」
そこにいるのは、モデルたち。「キミ」は読者である。これに「キシン」を加えたのが「激写」の三角構造である。カメラマンを主体にして言うなら、荒木流には「女衒」の構造である。そのようにして生まれでた一枚の写真は、太陽の構造でもある。「女衒」は、太陽のお使いである。太陽の子としての篠山紀信は、同じ太陽の子たるモデルや読者とともに太陽そのものになろうとしているところがある。「激写」はその具体であり具現である。もとより擬似太陽であり、擬似超越だが、人間はそこまでしかできない。「ごっこ」が、重要たるゆえんである。
そのために篠山の写真は、太陽の自然光、ライトという人工の太陽を極限にまで操り、手なずけ、最終的に忘れて、そのものとなる。つまり「まじめ」「まこと」に返る。人間であるかぎり、その「まじめ」も「まこと」もトリックである。これが、そうやすやすとだれの手にもはいらないが、篠山は保持している。
「今夜あたり、光の間で、光を吸った肌の、その光の匂いに、光少女裕子に、夢精、しそーだ、愛人ごっこ」
かく荒木は、『恋人ごっこ』の解説を結んで見せる。例の「荒木天才体」で、この解説も書かれているのだが、私が知るかぎりのまっとうな「篠山紀信論」の白眉だと言ってよい。左転右転上下自在のおふざけ調だが、その中にしっかりと「なぜ、なぜ」、なぜ篠山はこう撮れるのだという問いかけが谺しており、万人を呑む「激写」の秘法に迫り、なおかつ自分の写真を討究しはたしている。(後略)
アポカリプス(キース・ヘリングとの共作のための序文)
ウィリアム・S・バロウズ William S. Burroughs (1914−97)
「ウィリアム・S・バロウズ展−−ショットガン・ペインティング」図録(山形浩生訳・1990・セゾン美術館)
アポカリプス(キース・ヘリングとの共作のための序文)
トスカーナ地方の沿岸を帆走中の水夫たちは、丘から木から空からの叫びを聞いた。「偉大な牧神(パン)が死んだ!」パニックの神、牧神(パン):何もかもが生きていてすばらしいという突然の認識。その日は紀元1年12月25日。だが、牧神(パン)は生き続けている。想像力の領域に、文章や絵画や音楽の中に。ゴッホのひまわりを見よ。まがまがしい生気に悶えている。ジョウジョウカのパン・フルートを聞け。牧神(パン)はいまでは薄められ、枠に入れられて美術館送りになり、本の中に葬られ、伝承に追いやられている。でも、アートは枠からあふれ出て地下鉄の落描きとなっている。それでおしまいだろうか? 黙示録めいたせりふを思い出そう:「何も真実ではない。すべてが許されている」−−ハッサン・イ・サッバー。これを、ありとあらゆる無軌道で破壊的な行動への誘いだと解釈してはならない。そんなのはつまらない神話でしかないし、いずれは落ち目になる。すべてが許されているのは、真実が何もないからだ。すべては演技、幻想、夢……アートなのだ。アートが枠を離れ、書きことばがページを離れるとき−−それも物理的な枠やページではなく、決められたカテゴリーの枠やページだ−−現実そのものの根本的な崩壊が起きる。アートの文字どおりの実現。これはデュシャンやクライン、マンゾーニみたいな、手あたりしだいにサインしたり台座に載せたりして流用してしまうのとはまったく異なった方向だ。枠に入れたりサインしたりして流用しないで、枠や台座を取り除こう。そう、サインも取り除こう。真摯なアーティストはみんな不可能を試みる。その成功が、空に大きく『黙示録』を書くだろう。アーティストは軌跡を狙う。画家は、自分の絵がカンバスから抜け出して、別個の生命を持ち、絵の外での動きを持つよう意図している。そして生地のほころび一つで、伏魔殿はたちまちなだれこんでくる。
フェニックスからの手紙
吉増剛造 よしますごうぞう (1939− )
「星座 section rural 」1(樋口良澄との往復書簡より・1994・矢立出版)
フェニックスからの手紙
(略)外に出て、ふと名付けた“精霊の巣”を遙かに遠くの星もこの“巣”をのぞきに来ている、そんな“絵”と“色”を“光”を覚えつつ、“小さな虚構の星座”をもうひとつと、駐車場の少し先のサボテンの繁みに腰を下して、銅版と(若林奮さんの)ハンマーを取り出していました。建設現場のようなここなら音を立ててもよい。それにライト氏のいうように直線ではなく、渦や小切線の延長が庭にも張り出していて、とても身を隠しやすいのです。丘の上のサボテンの繁みと黄色い花の蔭、枝々の作る影の細い線の間で彫った銅版は帰ったらみて下さい。目の下の石も、ライトたちが壁にながし込んだ“余り”の石達。ライトの家の暗闇の片隅の隅に射して来る“光”のその“継穂〔つぎほ〕”か“飛石”のように、“心”を熱くしてしばらく漢字と“ひらがな”を打ちつけていました。写真にとって、“拓”を作り、“孔”のあいた“紙”を写し、そしてみると“澄”という字が“砂絵”のように浮き出してました。“此処まで来たね”、と誰いうともなく、ささやいて居りました。
貴方の作って下さった“図”形、なかなかいいです。下に“光りかがやく丘”を敷くと、Taliesin west の回廊、不思議にゆっくりと歩む“歩”に気がつく“歩廊”の“時”に近くって・・・・。もう、このMotel 、checkoutの時間なので、急いでこれも継穂のように書き添えておきますが、“連続/断裂”と“直線/文法/統辞法”の問題もつながるのでしょう。レンングーラードで、ドストエフスキーの原稿を目にしたときから興味をひかれて読んで来ているミハイル・バフチン(ドスト氏における精神の多様性の共存と相互作用と瞬間性と瞬時の冒険性と驚きと……等)にふれた文章のなかに、折口信夫における書くことによる豊かさの捨象という論文(村井紀氏の引用による佐々木平治郎氏の「口述筆記論」)がありました。「書くことを……する(原稿判読出来ず。吉増 '93.11.9 )折口は、・・・・あるひとつのイメージを文章表現の線的性質〔リニアリティー〕の鋳型に流し込むことは、同時に他の複数のイメージを捨象しなければならぬという痛い代償を支払う行為、……」と。“継穂〔つぎほ〕”などという造語を使ってこうして横に低く吹いて飛んでいくように樋口さんへの日々の記述を辿りながら、どうして20年も同じことをしているのだろう、アメリカに来ると折口さんを手にして、ある“遠さ”を読んでいるのですね。昨夜も、帰ってすぐにはTaliesin west のことを書き出しはじめることが出来ずに、折口さんを手にして“ほ”の地下の“ひびき”に耳を澄ましていました。歩行はつづいています。さ、New Mexicoにむかいます、こうして次々に貴方からの交信に応えることを楽しみに。では。
注・文中の〔 〕は原文ではルビ
風流夢譚
深沢七郎 ふかざわしちろう (1914−87)
「中央公論」(1960・12)
風流夢譚
(略)それからバスが来て目の前に止ったのだった。みんな「わーっ」とバスに乗り込んで運転手をひきずりおろしたので、私も「わーっ」と騒ぎながらバスの中へ入ってしまったのだった。すぐバスは満員になって動きだして皇居へ向ったのだ。赤坂見附から三宅坂を通って、桜田門は開いていて、バスは皇居広場に向って行った。皇居広場は人の波で埋っているのだが、私のバスはその中をすーっと進んで行って、誰も轢きもしないで人の波のまん中へ行ったのだった。そこにはおでん屋や、綿菓子屋や、お面屋の店が出ていて、風車屋がバァーバァーと竹のくだを吹いて風船を鳴らしている、その横で皇太子殿下と美智子妃殿下が仰向けに寝かされていて、いま殺られるところなのである。私が驚いたのは今、首を切ろうとしているそのヒトの振り上げているマサキリは、以前私が薪割りに使っていた見覚えのあるマサキリなのである。私はマサカリは使ったことはなく、マサカリよりハバのせまいマサキリを使っていたので、あれは見覚えのあるマサキリなのだ。(困るなァ、俺のマサキリで首など切ってはキタナクなって)と、私は思ってはいるが、とめようともしないのだ。そうしてマサキリはさーっと振り下ろされて、皇太子殿下の首はスッテンコロコロと音がして、ずーッと向うまで転がっていった。(あのマサキリは、もう、俺は使わないことにしよう、首など切ってしまって、キタナクて、捨てるのも勿体ないから、誰かにやってしまおう)と思いながら私は眺めていた。私が変だと思うのは、首というものは骨と皮と肉と毛で出来ているのに、スッテンコロコロと金属性の音がして転がるのを私は変だとも思わないで眺めているのはどうしたことだろう。それに、(困る困る、俺のマサキリを使っては)と思っているのに、マサキリはまた振り上げられて、こんどは美智子妃殿下の首がスッテンコロコロカラカラカラと金属性の音がして転がっていった。首は人ゴミの中へ転がって行って見えなくなってしまって、あとには首のない金襴の御守殿模様の着物を着た胴体が行儀よく寝ころんでいるのだ。私は御守殿模様の着物を眺めながら、横に立っている背広姿の老紳士に、
「あの着物の模様は、金閣寺の絵ですか? 銀閣寺の絵ですか?」と聞いた。(後略)
政治少年死す(セヴンティーン第二部)
大江健三郎 おおえけんざぶろう (1935− )
「文學界」(1961・2・文藝春秋)
政治少年死す(セヴンティーン第二部)
−−抜粋・主人公の手紙より
<広島の夏は暑くて最テイです。幹部は弱腰で赤ドモの偽装平和大会をボンヤリ見逃しています、来るほどのこともなかりけり。昨日のみひと暴れ、心気爽快でしたが、過激になればなるほど大御心にかなうのではないでしょうか?
原爆資料館の日本民族の恥をさらす醜怪な写真その他を見るにつけても、天皇陛下にこのようなケガラワシイものをお見せしてはならぬ、広島行幸を一身をかけてもおとしめなければならぬ。決心固くいたしました。
明治天皇陛下のますらおぶりを偲ぶれど大本営跡荒れに荒れたる
下剋上の世に憤怒しますね>
−−抜粋・主人公の思念より
<自殺しよう、おれは汚らしい大群衆を最後に裏切ってやる、おれは天皇陛下の永遠の大樹木の柔らかい水色の新芽の一枚だ、死は恐くない、生を強制されることのほうが苦難だ、おれは自殺しよう、あと十分間、真の右翼の魂を威厳をもってもちこたえれば、それでおれは永遠に選ばれた右翼の子として完成されるのだ。おれはいかなる強大な圧力、いかなる激甚な恐怖にも、その十分間のあと揺らぐことがない、おれの右翼の城、おれの右翼の社、それは永遠に崩れることがない、おれは純粋天皇の、天皇陛下の胎内の広大な宇宙のような暗黒の海を、胎水の海を無意識でゼロで、いまだ生れざる者として漂っているのだから、ああ、おれの眼が黄金と薔薇色と古代紫の光でみたされる、千万ルクスの光だ、天皇よ、天皇よ!>
−−第九章「死亡広告」全文
純粋天皇の胎水しぶく暗黒星雲を下降する永久運動体が憂い顔のセヴンティーンを捕獲した八時十八分に隣りの独房では幼女強制猥せつで練鑑にきた若者がかすかにオルガスムの呻きを聞いて涙ぐんだという
ああ、なんていい……
愛しい愛しいセヴンティーン
絞死体をひきずりおろした中年の警官は精液の匂いをかいだという……
三里塚で
小川紳介 おがわしんすけ (1936−92)
『シネアストは語る−−5 小川紳介』(1993・名古屋シネマテーク発行・風琳堂発売)
三里塚で
(略)あるいは僕、あるとき、菅沢さん、マガメ(屋号)のおじいさん(菅沢一利さん)っていう人から、小川さん、一緒に宮中へ行ってくれと突然言われた。理由を聞いてみると、我々は明治天皇によってこの三里塚に住みついて、家を作ってもらえたんだ。それが今の天皇は、内閣から言われて御料牧場をつぶした、と。今は栃木県の方に引っ越してますけど、三里塚には御料牧場という大きな牧場があったことを前提にして、言ってるんです。昔だったら天皇の牧場に手をつけたら国賊だ、即座に殺される。幸徳秋水が、そこで突然出てくるんですけど(笑)、今の佐藤栄作は幸徳秋水以上の国賊である。にもかかわらず生きているとは何事だ。私はこれ以上我慢できない。直訴したいと言ったんです。これもオープンに騒がれると大変な問題になってしまいますから、僕たちは反対同盟の内部の若干の人と動いて、おじいさんと一緒にその書状を持っていきました。宮内省に差し上げたんですね。そしたら、どんな返事がかえってきたか。今の天皇には、彼らが出した要望に応える機関も権利もないんだ、そういう手紙が本当に返ってきたんです。そのときのね、年寄りのおじいさんの、一瞬の落胆の表情。これも撮りっぱぐれたんですね。
つまり近代って、日本の近代ってなんだろうと思ったんですよ。この人は、毛沢東バッジと明治大帝と全学連が一緒に生きてるわけです(笑)。そりゃあムチャクチャと言えばムチャクチャですよ。しかしムチャクチャじゃないんだな。体の中に情念がふつふつと沸いてるんですよ。つなげてるんですね。後にガンで亡くなるこのおじいさんは、実は三里塚の第二砦の中で、一番最初に竹ヤリを持って、殺せ! って言うんですよ。それは写ってるよね。竹ヤリで刺し殺せ! 機動隊を殺せ! って言うんです。そこのところは抜いてますけどね。そしたら、あわててみんなが、じいちゃん、そんなこと言うんじゃない、と止めるんです。それで、おじいさんが、殺すんじゃない、そういう気持ちで戦えって、何度も言うシーンが、『第二砦の人々』にあるはずです。その老人の「のような気持ち」で戦え! ね。繰り返し、繰り返し、竹ヤリを前に突き出していった老人の情念を撮れたか。撮れてないですよ。撮れるわけないです、そんなもの。老人の姿をただ撮ってたって、撮れるもんじゃないですね。日本人の作家で徹底してそれを追ってったのは、僕は上野英信の『眉屋私記』ぐらいだと思う。その年寄りの情念だけでさえも、人間は一生かかったって解けないですよ。その情念を見てしまったら、それをどうやって解こうかと思って、一生かかるくらいのもんですよ。とてもできるもんじゃない。そんなものまで、ごろごろあったんです。で、なんかそのときは三里塚だからそういうものがあったように思ったんですよ、僕は。実はそうじゃないんですね。どこにでもあるもんだって、後でわかってくるんですけどね。でも、そういうことをやってました。そうやって、だんだん内部がわかってくればくるほど、僕たちのキャメラは廻るんです。ガラガラガラガラ廻っちゃうんです。(後略)
妙義山
パトリシア・スタインホフ Patricia G. Steinhoff (1941− )
『日本赤軍派−−その社会学的物語』(木村由美子訳・1991・河出書房新社)
妙義山
(略)突然、高沢さんが、丘の向こう側の杉林から私たちを呼んだ。駆けつけると、彼は小さな木の杭を指差し、これは多分一九年前、警察が遺体発掘現場の目印として設置したものだといった。杭の根元は腐っていて倒れそうになっていたが、高沢さんは森の草の絨毯と雪のなかからわずかに出ているその目印を見つけたのだ。一九七二年にここにいた人間だけが、これが何を示すものか知っていた。それはあの悲劇の、遺された最後のモニュメントだった。高沢さんが杭をまっすぐに立て直すと、塩見さんはその前に花を捧げた。
このとくべつな場所で、粛清で死んでいった人びとの冥福を祈っていると、私には犠牲者や他のメンバーたちの当時のようすが生き生きとよみがえるように思われた。連合赤軍の埋葬班は、杉におおわれたこの秘密の墓地に何度となく足を運んだ。遺体を埋めるのを手伝ったメンバーの幾人かは、のちの犠牲者となった。旅をつづける私に衝撃的だったのは、痛ましい粛清の止まるところをしらない勢いだけではなく、連合赤軍のメンバー全員の、驚くべき強固な不屈の決意だった。粛清の恐怖に徹底的に対峙して、彼らは一九七二年の冬、信じられないような偉業を成し遂げたのである。一九年ののち、彼らの足取りの一部をたどってみてはじめて、私はそのことをこころから理解することができた。
連合赤軍のメンバーは、榛名ベースから車で一五分もかかるところに死体を埋葬しただけではなかった。粛清の嵐のまっただなか、彼らは榛名から六〇キロも北にある迦葉山に、第二のベースを建設した。遠い山道を建材を運んで登り、ふかい雪に埋もれながら小屋を建てたのである。迦葉山ベースでは三人の新たな犠牲者を出すことになったが、グループから逃げ出す人間も増えてきて、ここも安全とはいえなくなった。二月の半ば、捜査の手がのびてくるにつれ、残ったメンバーは迦葉山から妙義山にふたたび移動することになった。こんどは榛名山の反対側、南へ四〇キロの地点だった。
一九九一年のいまでさえ、凍りついた山道を行くにはかなりな距離だった。当時、重い荷物を運ぶときにはレンタカーを利用することもあったが、ほとんどは歩くかバスに乗ってこれだけの遠方に移動するのは、じつに困難を極める作業だったにちがいない。迦葉山ベースはあまりに遠かったので、私たちは見に行くのをあきらめた。倉渕近郊の埋葬場所から直接妙義山へ向かったが、それにしても、曲がりくねった山道を越え、松井田町の広い谷間を渡っていくのはかなりな距離といえた。
妙義山は、中国の水墨画に見られるような、険しい峰々や垂直に切り立った岩場をもつ山だった。道路から、狭い、見るからに危険そうな登山道や、黒々とした洞窟の入り口が見えた。あのうちのどの道かを登っていく途中で、連合赤軍のメンバーは洞窟を見つけ、数日をそのなかで過ごしたのである。粛清の最後の犠牲者はここで死んだ。その死体を埋葬するころには、榛名や迦葉山のベースは警察に発見されていた。森と永田はこの洞窟に戻ってきたが、一帯はすでに警察に包囲されており、他のメンバーは数時間前に急いでこの洞窟をあとにしたところだった。森と永田はここで逮捕され、他のメンバーは長野のほうへ逃げのびた。
妙義山から私たちは、一九七二年、連合赤軍の残存メンバーが長野県へ向かった道に平行して走っている旧道を行った。この両側をふかい雪におおわれた道路は、彼らが実際に使った道ではない。彼らは山頂をまっすぐに越えていく登山道をあえて選んだ。そして山を登るのは夜間だけにし、捜索のヘリコプターが飛び回り、機動隊のジープが道路をパトロールしている日中は、洞窟に潜んでいた。このルートはそれほど遠距離ではなく、彼らはふた晩をかけて移動した。しかし、熟練した冬山の登山家でも、連合赤軍の人びとが行なったことを知ってびっくりしたのである。(後略)
父の死
五味太郎 ごみたろう (1945− )
「三輪車疾走」34(1993・雲母書房)
父の死
(略)事件はそれからですね。電話に出たその病院の婦長みたいな人が、救急車に電話してくれって言うから、「だって死んじゃったんだよ」と言ったら、「いや、そんなことはあなたが決めることじゃない」って言われたんだよ。だけど、当人が死んでいるんだから。(笑い)当人が決めているんだから、おれが決めてるわけじゃない。(中略)あまりドラマぽく解説を入れないで、行われた現象だけをまずしゃべります。救急車を要請したのですけど、事情が事情ですからあまり騒がないでくれってぼくがたのみました。そしたら、遠くの方でピーポーピーポーなんて鳴ってる。で、家に近づいてきて音が止まりました。おれはもう、当人は死んでいると言ってあるわけですよ。ところが職業的任務というんですか、担架持って小走りでくるのね。(笑い)近所の人が見てるからさ、フラフラ歩いてくると真剣そうに思えないじゃない。トットットットッと小走りで入ってきて、タッタッタッタッと二階に駆け上がって行ったわけです。
それで、一応調べたんです。「死んでます」とか言って。(笑い)おれは、まあそのへんは笑っていたの。つぎにお巡りさんが来ました。たぶん、その救急車の人が電話したんだと思うんですね。ここから急遽ね、取り調べ風気配が出はじめたわけ。ノートなんか出したりして、「これは危ないかなというふうに思われたのは何時でしたか?」なんて言うわけ。それで、なぜそのときに救急車を要請しませんでしたか、となったわけです。
それで、母親もおれも、「まったく知らなかったわよねぇ」なんて二人で顔を見合わせて。(笑い)「あんた思った?」「おれも思わなかった」なんて話している。そうすると、警察官は「思わなかった」なんて書いちゃうわけ。(笑い)それでだんだん訊問っぽくなるわけだ。救急隊員もそれに近いことを言うわけ。(中略)そういう議論をやっていたんだけど、むこうは必ず三人のチームでいる。その中に一人、ちょっともののわかった人がいて、その人が「これはあの、形式ですから」って言うわけ。それをずっとくり返すんだよ。形式ですからって。形式でなんでおれが不愉快になるんだ、と押し問答になる。また警察官がきて、「亡くなったのは、何時何分でしたか?」って聞く。「そんなこと分かるわけないじゃないか」とこちらが答える。「なんで救急隊員に連絡しなかったか、それはおかしいじゃないですか」と始まる。「その、おかしい、おかしくないというのはだれが判断するんだ? おもてに出ろ」ってなるわけ。そうするとまた年寄りがきて、「まあまあ、これは形式ですから」。(笑い)
そのうちおふくろが、「あなた、この人たちは私たちが夫を殺したと思ってるのよ。絶対そうよ」なんて言い出した。(笑い)「ロープで親子で締めたんだなんて思っているのよ」なんてさ。そんなばか言ってんじゃないよ、みたいな話をしながら、おふくろもだんだんいやになってきちゃったの。ところが、その警官が帰ると今度は刑事がくるわけ。もう正に殺人現場よ。その次に法律のお医者さんがくるの。それもみんな小走りで。(笑い)それが、だんだんだんだん重たい顔になってくるわけだよ。(後略)
いのちと水とゴミと
田島征三 たしませいぞう (1940− )
「くらしの本だな」1996・5(首都圏コープ事業連合)
いのちと水とゴミと
(略)「水からの速達」という映画を観ていただいた方は、ゴミと水がいかに繋がっているかということを知っていただいたと思うんですが、いま、日本中の山間部に産業廃棄物と一般廃棄物の処分場がどんどんできています。これはすごい量です。ひとによって五万カ所という人、三万カ所という人がいます。
日本ではいま、ゴミを燃しています。焼却、埋め立ては日本のゴミ行政の基本になっているんです。これになんの疑問ももっていないということがリプロ・ヘルス(リプロダクティブ・ヘルス)を傷つける原因になっているんです。ゴミは燃やすものだと決めていたんです。リプロ・ヘルスというのは、「世代間健康」というとわかりやすいかもしれません。両親の健康だけでなく、その両親が生んだ子どもの健康のことです。
ところがいま、ぼくたちの生活にはプラスチックやその他の化学物質が入ってきています。重金属類は燃やしたからといってなくなるわけではない。焼却場でごっちゃに燃やしています。生ゴミの中には大量の塩素イオンがあります。その塩素イオンとプラスチック類がいっしょになってダイオキシンというものができるわけです。重金属類やダイオキシンが多量にふくまれている焼却灰をわが国では水源地に埋め立てているのです。そして、水源地の最終処分場(埋立地)からダイオキシンなどが漏れだし、地下水や河川を汚しはじめています。
ダイオキシンというのは、地上最強の毒物なんです。もちろんサリンより強いんです。ダイオキシンは青酸カリの一万倍強いんです。わずか八五グラムで一〇〇万人が即死する。
ダイオキシンは、ご存知のようにベトナム戦争で枯れ葉剤としてまかれていまだにリプロ・ヘルスが傷つけられて、たくさんの子どもたちが不幸な目にあっています。ダイオキシンには、生物濃縮度が高いといいましたが、他にもいろいろな性質があります。体内にはいると、外へ出ていかないんです。ウンコとかオシッコになって出ていかないんです。体内脂肪に溜められてしまう。そして恐ろしいことに、染色体異常を引き起こすんです。女性の場合は生んだ子どもに、また男性だけが浴びても赤ちゃんに被害が出ます。脂肪に溶けやすいということで、母乳にも出ていきます。日本の赤ちゃんはアメリカ人のダイオキシン摂取量の十万倍くらいを毎日母乳から取り入れています。
ぼくらの愛する子どもたちが、これから生まれてくる子どもたちがひどい目にあう。その種をまいてぼくらこの世を去るなんて、あまりにも情けないです。いま、生きている大人たちがこの環境を守ることが、大きな責任として未来の子どもたちに問われているのです。
注・明らかな誤植は訂正した
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