Room 3





河原温の「不在」
宇佐見圭司 うさみけいじ (1940− )
『20世紀美術』(1994・岩波新書)

河原温の「不在」

(略)なぜ彼が戦略的であったかと言えば、次のような単純な論理だ。
 絵には何かが描かれる。その何かのオリジナリティが問われるとすれば、やがてすべての辺境は探索しつくされて、モチーフは「品切れ」状態になるだろう。今自分が身を置いているアメリカ現代美術(インターナショナルな現代美術)の最後のモチーフこそ、「品切れ」を「不在」として表現し直すことだ、というのが彼の戦略であったのであり、その後の彼の活動は見事にそれを証明したのであった。
 七〇年代に入って(正確には六六年からか)彼は郵便によって「不在証明」の葉書きを友人たちに送り続ける。その文面は「I GOT UP AT 7 A.M.」というような起床時間を書き記したものだ。文面はそれだけで、毎日毎日ニューヨークの観光絵葉書きで友人や美術関係者に一〇年間も送り続けたのである。
 私の所には六〇日続いて毎日、I GOT UP AT (  ) A.M.の葉書きが来た。それは彼のニューヨークにいて東京にいない不在証明であり、同時に一日一日の始まりだけを告知する連続は、それによって日付けの枠組をまるで書込みカレンダーのように示すものであった。
 一〇年の後に、さらに彼は完全な内容の消去を作品化する。始まりだけとはいえ、起床時間は彼個人の一日の生活内容の一部を示していよう。彼はそれをも消した。しかし何もなければ表現にならない。日付けだけが残ったのである。最初の「デイト・ペインティング」はいつの日付けであったのかを知らないが、日付けだけを内容とし、自分自身を完全に不在化した。彼は今も「デイト・ペインティング」を描き続けている。日付けをパソコンに登録して決してダブらないように管理しながら。
 冗談のような話であるが、彼の作品は欧米の現代美術館のコレクションとして着実にその数を増している。オン・カワラのオリジナリティを疑問視する人はいないし、彼の完全な内容の消去は、ニューヨーク派がつくりあげた現代絵画の文脈の究極の姿の一つを示していたから、それは当然だと言える事態かもしれない。
 その上、彼は「デイト・ペインティング」にサブライムを付け加える。これはまだ見ていないのだけれど、彼は一〇〇万年という本を二冊つくったのだそうである。今から一〇〇万年先に続く日付けでびっしり埋まった本と、今までの一〇〇万年を日付けだけでさかのぼる本。その大部の二冊は、平凡な日常性を示す「日付け」を近よりがたく、圧倒的なもの(サブライム)にするアイディアであった。彼の戦略は的を射ており、「一〇〇万年の本」が何冊も美術館に売れたのだという話を聞いた。
 一九九三年の夏、ニューヨークのDIAファンデイションで「One thousand days and one million years」(千日と一〇〇万年)という河原温の個展が開かれた。電話の向こうのはずんだ声は、それがエンターテインメントに堕したニューヨーク・アートワールドに衝撃を与えたのだと語る。
 彼の成功を友としてうれしく思うかたわら、私はまた別の側面を考えている。彼が忍耐強い戦略家なら、私もまた戦略家として、今世紀の還元的情熱を、もう一度、人間的に総合するような新たな美術の流れをつくろう。河原温が引導を渡してくれた、と私は思う。
 「不在」がすばらしいわけではない。
 彼の「不在」によって、パーティーという人と人のコミュニケイションの場の、エンターテインメントに堕してしまった日常性が浮かびあがるとしよう。もちろんそうだ。彼のうしろ姿が昂然としている。しかし私はパーティーにとどまろう。どんなに困難でもコミュニケイションの場に。
 −−画家になろうと志したということはそういうことではなかったのかと思い返す。「不在」がじだんだ踏んでくやしがるような、驚きや喜びに満ちた場の夢を捨て去れば、表現の世界に新たなホリゾントはもはや現われないだろう。



個性の抛棄
大島洋 おおしまひろし (1944− )
鈴村和成編著『写真とフィクション』(1991・洋泉社)

個性の抛棄

(略)カメラを手にして写真を撮っているときにはほとんど何も考えない。私がそう言うと、たいがい「ウソをつくな」というような返事が返ってくる。グジャグジャといろいろ考えめぐらせて撮っているに決まっている、というのである。「お前の書いている文章が何よりの証拠だ」ということのようである。べつにここで、強弁するつもりもその必要もまったく感じないのだが、ほんとうに一旦カメラを手にするといわゆる「思考」が停止する。いや、消滅してしまう。ウソいつわりなく、そうなのである。少なくともそういう実感が私にはある。だからカメラを手にすることは、間歇的に襲ってくる言語障害、あるいは思考障害のようにも思われる。
 おそらく思考が消滅するというのは、思考とは異なる位相、それをどのように言えばよいのか、たとえば見るという欲望の位相空間へと移り住むことなのだ。そうだとすると、欲望とはむろん底なしの限りないものであって、「時代感覚」とか「時代が求める必然性」だとか、「トレンド」や「個性」からさえも解き放たれ、無縁となることの方が、見るという欲望の深さに、より近いということになる。「時代感覚」や「トレンド」はもちろんのこと、「個性」すらも時代が付与しようとするスタイルや規範から不自由なのだから、欲望の深さや本質を抑圧しているということになるのではないか。トレンドからトレンドへ、時代感覚から時代感覚へと渡り泳ぐことも、たしかに自由という言葉の範疇である。しかしたとえば、第二次世界大戦時に、自他ともにリベラリストをみとめた写真家やデザイナーが、「個性」的であり、時代の中での証言者としての自由を希求しながら、あきらかに時代の規範から自由であることができなかったし、時代からスポイルされてしまったことを思い起こすこともできる。写真にあっては、例をあげれば木村伊兵衛がそうであった。
 たとえば欲望さえも時代や、さまざまの規範から完全に自由であるとはいえないにしても、私はその視線の欲望の底なし沼の間に開示される世界と位相とに従って、写真に関わりたいと思う。つまり、「時代感覚」からも「トレンド」からも自由でありたい。「個性」なんて知ったこっちゃない、と思うのである。
 欲望の沼に生きることにストイックになることがあったとしても、表現や作品行為や、時代が受容する「個性」や、作家性を揺るぎなく生きる、いわば「いい写真家」として生きることにストイックになることだけは拒絶しようと思う。
 かつて『写真幻論』(注・1989・晶文社)のあとがきに、つぎのように書き記したことがある。
−−もし写真家の「主体性」といわれているものがこの混沌のうちに認められることなく、レンズの選択や白黒やカラーのトーンの保守性など、狭い意味での表現のスタイルや、被写体の共通性や類似性などの明快さに依拠しているというのであれば、写真家としての「主体性」なるものは抛棄してしまいたい−−
 いまでも、その考えは変わらない。(後略)



音楽主義者すべてを語る
フランク・ザッパ Frank Zappa  (1940−93)
「ユリイカ」(ドン・メン、マット・グローニングによるインタビュー、浜野アキオ訳・1994・5・青土社)

音楽主義者すべてを語る

(略)構造というか、音楽の仕組みがわかりだすと、他人が素材をどう消化してるかが見えてくるんだよ。全音階の曲を作るつもりなら、十二音を七つか八つのオクターヴで使用できる。ひどく制限された世界だ。これらの構成要素を利用し、かき混ぜ、組み合せ、楽曲として完成するために、何ができるか? 取り組むべき課題としちゃ、実に興味深い。他の芸術形式は、もっとずっと開かれていると思う……フォーマットとして開かれてるってわけじゃない。もっと多くの素材を利用できるってことだよ。英語を使う詩人なら、三〇万から四〇万の語彙が存在する。その人独自の世界が存在するわけだ。でも、扱うのが全音階なら、構造という点について、その可能性はもう少し制限されている。だから、ゲームの規則に精通するにつれ、他人の解決法も識別できるようになるんだな。(略)最初、ジョン・ケージを聞いたときは、作品そのものよりも、コンセプトのほうがずっと楽しめるように思ったな。でも、もしかすると、それは当時レコードで聞くことのできた演奏のほうの問題だったのかもしれない。だって、演奏しようにも……まあ、無音ってのは不適切な例だけど、作曲者によっちゃ、抽象的な記譜をするわけだろ。で、この場合、演奏者に意識的な参与を促し、作品構成にひと役買ってもらおうとしてるんだな。そんなような考えを気に入ってくれて、しかもそれを巧みにこなすミュージシャンなんて、滅多にいない。間違いない、ケージの初期のレコードじゃ、自分から積極的に参加してくれるミュージシャンに恵まれなかったはずだ。(後略)



カシオペア・ペカ(カシオペア編)1
関口涼子 せきぐちりょうこ (1970− )
『カシオペア・ペカ』(1993・書肆山田)

カシオペア・ペカ(カシオペア編)1

ひかる。くるくる、まわりひかる、ゆれる、ゆら
ぎ、ゆらぐ球からいろいろのしずくはこぼれ。い
くつもの糸は静かな確信をもつように冬に張られ、
動きだす、一呼吸前の時間帯にいる。するどく、
ふとたわんでまたつよく直線を描いて弓なりに、
またまっすぐ、ゆるやかにたえず形を変えながら
じっと。なにを。とおくのみず。とおくのみずの
つやつやきらめく水面にあつまるそのさきでひろ
く、なだらかな空間を持ってむすばれるこれから
見るところへの、指標、知らない場所。はっきり
と新しくうつりかわる。誰でも知っているものへ
むけて、調べの番号をひとつひとつ送ってゆく。
番号は組み立て直されるだろう。すぐに解くこと
ができる謎をまた結んで、結び目にまた謎。距離
の謎。位置の、誰でも見ることができる、の謎。
はっきりとものを見る事の謎を知るためにいつま
でも交流を続けたい。二つの視線の位置を確かめ
る事を望んで、開かれる、55、37、22、輪郭が浮
き上がると同時に繰り返される調べの、ひっくり
返される構図の、88、6、9、44、1、予告され
るそれらの番号を、いつでも(謎を解いて)いつ
でも。何を待っている、の、カシオペア・ペカ。



ちょっとそこまで
伊藤聚 いとうあつむ (1935−99)
「壘」第8号(1994・壘発行所)

ちょっとそこまで

 i

森の中で目を覚ましたと言ってみたい。ところが葉ずれがなかった
声の舟は窓に仮泊する。どの声にもここを離れろという意味が混じっていた
逃げ道だった夢のトンネルは唇を閉めて退き
みどり色のホリゾントは手描きの羊を太らせている
ここへ居ろというみせかけと身振りなんだな、と分かる

膝にのせたカメラのファインダーでなりゆきや難儀を見て
ダミーの一本道に起こる転覆をわが身に纏わせた
野立看板は、あなたの起こした追突事故をここに貼れ、と注文付き
シリンダー内の焦り声を締め殺して失せた欲望を輪郭にしたが
クラッシュのテープの片々がわめきはじめた

きのうエスカレーターですれ違ったものは
濡れた芝生の切れ端を背負っていた
滴るしずくを百匹のエビが追っていた 乾いた触覚と脚が働く
教訓ではある。しかし取りかからなくてはならない行いは見送り
さらに下降すれば結露した市が開いている、と当てにする

居座り過ぎた。片端から送りかえされる挨拶である
孕みの始末がついたなら、苔を見習ったら、出て行くつもりはつもり
一方で分厚いはらわたを養うなんてことをしようとしたか?
した。夢のなか ひねったロゴマークを思いつこう位のことをした
いずれにしてもダウンしだした皮膚の袋のなかだった

ねざめを省略して朝食に坐り 昨夜つくったメニューそのままを食う
滑る食卓にも根毛さかんな球根の並走はあいかわらずだ
夢のなかでの涎もそのままに 切れ端のきらめきをフオークに刺して食べた
くりかえし何度も終息したはずの飛び立ち欲が
昼頃には備考欄に移り住んでいる

 ii

家のまわりに地雷を埋めたのだが、その在りかがわからなくなって、攻めこまれもしないが出ていくこともできない。難民旗を窓から突き出すと、無塗装のヘリコプターがやってきて、部屋を覗いていく。まきあげられた庭土の間をニワトリがよれよれになって走り回る。それでも地雷は現れてこなかった。鉤のついた縄梯子を投げると、そういうことではない、と拡声器がわめき、ヘリは高く飛び去って二度ともどってこなかった。地面に落ちた鉤にも地雷は反応しない。ロープを繰り出した際の掌の擦り傷が今回の損害であり、ヘリの報告による家の地図へのプロットが、今回避けたかった失策だ。小康状態の日の照るあの時代に空が似て来れば、なんとかして天井から屋根に抜け出し、ぜがひでも紫外線浴を擬態した甲羅干しを展開したい。たぶん、その時がくるだろうということにして、裸体を被って天井裏に上がっていく。

壁の穴のネズミには聖戦がある。下の食堂を横切る間だっただろうか、拭うのを忘れていた生クリームに裸の指先が齧られて、ポリウレタンの切り屑がこぼれる。屋根瓦の隙間がぎらぎら輝くスポットを投げかけ、ネズミとの協定破りに精を出している。直射を避けたところで反射によって各個狙撃されていく。見物していると闇とスポットライトの斑模様が皮膚になり、これでどこへでも出て行けると保証されているような気がしはじめた。迷彩服を欲しがっていたのが夢のようだ。目の前には、直射日光の缶詰がこの前の大戦時の剥げかけたラベルとともに積まれていた。父親たちが梯子に鈴なりで、手渡しリレーで缶詰を運び上げている写真が立てかけられている。空き缶だと知っていて、彼等は写真をいつまでも残すつもりになったのだ。さて今回、記念写真は撮らなくても、天井裏から遁走を図る一部始終はどこかに光ファイバーで送られて監視されているはだ。指先を食いさえすればネズミは全身には未練がない。満足しきったり食当たりしたりして。

待つうちに天気はもとにもどらなくなる。機嫌が坐り心地とは別物になっていく。雨だ。プランターの多産な豆の葉を揺する雨。はじけた莢から落ちた種子はベランダの崖縁まで滑っている、いや、押し流されている。いつまでもこれじゃいけないのだろうなあ、水気を吸って柔らかくなった表皮の凹みが危うい均衡の支点というのは。事態そのものがそれほど珍しくないと分かっても慰めにはならない。豆が地面に達した時の音は聞こえない。家に籠もりいつのまにか過ぎていく危機といったもの。テレビ台のうしろ、そこに隠れていた壁紙の継ぎ目がめくれはじめていた。灯を近づけて、めくれ域を広げようとする壁黴を探し出そうとしたが、すでにそこには破壊が行き届いたとみられたのか空っぽだった。壁紙専用の接着剤を一面に塗り、継ぎ目を合わせて毛ほどのすじも残さないように貼りつける。除湿機が黴を倒してくれて、一晩の平安を得る。

夜明け、運ばれるトランクのキャスターがごろごろとうるさい。転々する難民が裏道を通っているのだ。未だに持ちものがあるということでどこかへ行こうというのか、漂いながらすべてをかき集めることができるといいたいのか。待ち受ける地雷はトランクでは爆発しないのか、静かだ。偶然の幸運というだけではないはず。この時に限って庭に仮橋が架かったとでもいうのか。しかし起きだしてカーテンに隙間をつくるのも面倒だ。通り過ぎるものの煙草の煙が排気扇を衰弱させる。生きながらの破砕を肉に覚えさせたものはいない。踏み外さないように前のトランクを見すえて歩くだけで隣まで行けるのなら、そこから舗装された楽園に出てしまえば腰を下ろす場所に気苦労はないというのなら、ちょっとの援助さえあれば肘かけにセンサーの仕掛けられたソファを捨てることはできそうだ。体重と二本足歩行は気にしたことがないのだから。

ぼろ布みたいにばらばらになってしまったと子供の友達が教える。駆けだした行く手に赤土が跳ねあがる。あれだからまだ安心だ。増殖する地雷がその孫地雷を台所の猫の絵柄のマットの下まではまだ仕掛けてないのだから。今のうちに全身の柔軟体操に励め、ソファのうえでも、とニュース解説が付け加える。そうしているじゃないか、屈伸の回数などを書き込んだ日記帳は、いざという場合の避難場所表示地図が付録だ。いざが盛んに連発されて、玄関までも無傷ではたどり着けないのに、と公演からかかってくる祖母の電話。逃げだしていたのだね。背負った袋にヘリウム詰めて? 地に足をつけずに済むものは天使にいくらか似ているのかも。電話をかけただけで義理を果たしたとして、ボランティアは彼女が皆んな取ってしまうというのがこれまでの大筋であり、今度もまた。飛行許可空域の赤いラインが中空に見えていると言う。

 iii

そこまでいって通信が途絶えた
エアーカーテンのお喋り
青く偏光した唇の連なり
見ているうちに手元では
ティーバッグのようなことづてが萎えた
コントロールしようなんて
ここだけの話だったのだ
盆から取ったグラスに
残滓のかたことを残らず注ぎ
寄りかかった手すりの背後に捨てる
調整役のスプリンクラーがそれを見ていて
慰めのぬいぐるみ付きで滴を浴びせてくる
それでいいのよ、水をかぶって
アクアリウムのキットの一尾
ぶつぶつの泡となり
これまでの無為が結晶したとみればいい
ひさしぶりに身体を起こせば
デスクに溜まっていた独白は消えて
底に残る地の文字が
ひび割れて何か言おうとしている
読めないんだから
なんなりと



真昼へ
津島佑子 つしまゆうこ (1947− )
『真昼へ』(1988・新潮社)

真昼へ

(略)待ってよ。わたしの子どもなのに、どうしてお姉さんの子どもになってしまうの。忘れろったって、そんな無茶な……。
 私の声は泣き声に変わっていた。
 だから、あなたの子どもじゃないんだってば。こんないい子をあなたのおかげでつらい目に合わせてしまって、わたしたちこそ本当に情けない思いよ。この子がかわいそうで、かわいそうで。
 でも、わたしたちは楽しく暮らしていたわ。なんの不満も感じていなかったわ。楽しくって、面白くって……、ねえ、あんた、そうだったでしょう。お母さんだって、知っているでしょう、なんとか言って下さいよ。
 息子の肩を揺すぶりながら、私は息子にも母にも泣きついた。息子と共にいた頃のさまざまな場面を思い出していた。息子と二人で白玉を作ったこと。息子におんぶをしてもらったこと。オフロアガリ、オフロアガリと叫びながら、真裸で部屋中を駆けまわっていた二歳の息子と、それを追いかけている私。ワタシ、アポロ、ゾーサン、バッタノ、と、幾度聞いてもこのようにしか聞えない言葉を口癖にしていた同じ頃の息子。おばけの本を二人で作ったこと。一緒に、公園にスケッチをしに行き、息子の方が上手で感心させられたこと。
 目の前にいる息子は、にこにこと私をなつかしそうに見つめてはいるが、なにも言おうとはしなかった。母も気弱に身を縮めて、なにも言わない。体のなかの記憶のあまりの眩しさに、私は涙を流した。息子と分かち合っていたあの輝きを、せめて姉に伝えたい。が、どのように言えば分かってもらえるというのだろう。証拠になるものがなにひとつない。楽しかった、と何回叫び、二人の生活はすばらしかった、と何回言いたてても、私の口から出る言葉だけでは、誰も信じてはくれない。だって、あんな貧しい生活だったのに、あんなひどい安アパートにいたのに、いつも仕事で疲れ果てて、子どもの服装さえ充分にかまってやっていなかったのに、父親もいなかったのに。このように言われれば、私は頷くしかないのだ。そして、それが眼に見える証拠とされてしまうのだ。確かに、そうでした。その通りです。でも、私たちは楽しく生きていた。大きな喜びに包まれていた。私のなかで現に、その光が輝き続けている。分かって下さい。お願いです。
 もはや、私にとっては息子が誰の子どもか、ということはどうでもよいことになっていた。姉の子どもでもかまわない。けれども、息子を自分の手で産み育てた十年近くの光だけは認めて欲しかった。その光が、私自身なのだという気がした。私はおろおろと泣き続けた。私の願いが通る可能性は、どこにもないのだった。息子が一言、楽しかったねえ、お母さん、と言ってくれれば、それだけでなにもかもが解決するのに、どういうわけか息子は口を開こうとしない。
 だったら、どうしてぼくは死んだの。
 姉に手を握られている息子の沈黙が、私にはそうも聞え、体が崩れていくようにつらく、私には呻きながら泣き続けることしかできなかった。



HIV感染を兄弟に伝える
大石敏寛 おおいしとしひろ (1968− )
『せかんど・かみんぐあうと−−同性愛者として、エイズとともに生きる』(1995・朝日出版社)

HIV感染を兄弟に伝える

(略)「お前、へんな病気にでもかかったのか」食事を待っているときに、兄はいきなり私に言ってきました。数年ぶりに再会した兄弟なのですから、積もる話もありました。なのに、なぜ会話の初めの段階で病気のことを兄のほうから切り出してくるのか−−何もこんなに早く言わなくてもいいのに、と内心思いました。兄は私の病気のことを知っていて切り出したわけではありません。ただ、なんとなく冗談を言ってみただけだったのでしょうが、私は返す言葉を一瞬失いました。実はその兄が冗談だと思って言っていることを、私は話しにきたのですから。私は「そう」とつぶやくことしかできませんでした。すると今まで流れていた和やかな雰囲気は一瞬にして、暗い陰気な雰囲気へと変わってしまいました。兄がこのとき、何を考えていたか、私にはわかりません。ただ、兄自身そうとうショックだったことは、兄が涙をこぼしながら、出てきた焼肉定食を食べていたことから伺えました。
 もうこうなると、話ができる状態ではありませんでした。日曜日の昼下がり、他のテーブルは家族連れで和やかに食事をしているのに、私たちのこのテーブルだけは寒々とした空気が流れていたのです。食後のデザートを食べるだけの気力は兄にはもう残っていませんでした。兄はお金をテーブルにおいて、「車で待っているから」とだけ言って席を立ちました。私は一人テーブルに残され、私と一緒においてけぼりをくったデザートと兄の後ろ姿を見つめていました。
 食事を終え、私はアカー(注・動くゲイとレズビアンの会)の事務所に電話を入れました。兄も私の感染の事実を聞かされ、ショックだったと思いますが、そうした兄の反応を受けとめなければならなかった私も、そうとう参ってしまったのです。誰かに話をして元気を取り戻さないことには、私は次の行動には移れませんでした。電話の向こうからは、事務所で作業をしているメンバーの和やかな声が聞こえてきます。それを聞くことで、私には仲間がいるんだという勇気が湧いてきました。電話に出てきたメンバーに兄とのやり取りと、そして、これから兄に続きを話すことを告げました。電話に出てきたメンバーが「がんばって」と応援してくれました。私にとってはそれだけで十分だったのです。
 電話を切り、兄の車へと向かう途中、こんなはずではなかったのに、もっときちんと話をしたかったのに、と思いながら歩いていました。これから兄にどのように説明していけばいいのかを考えながら、兄の待つ車へと歩いていきました。しかし、今日私が兄に会った目的は、きちんと自分の感染の事実を伝えるということなのです。車で駅に向かう途中で、私は兄に感染の事実をきちんと話しました。兄は涙を流しながら車を運転しました。話を聞き終えた兄の口から出たのは「どうして、あのとき、首に縄をつけてでも実家へつれもどさなかったのか」という言葉でした。私が会社を辞めたときのことを兄は話していたのです。そして、兄はそうしなかったことを腹立たしく思っているようでした。しかし、兄の責任ではないのです。たとえ実家へつれもどされたとしても、私の行動が変わるわけではありません。根本的には、エイズをとりまく日本社会の構造を変えていくしか、私を救う道はないのですから。(後略)



犯される身体権−−レイプをめぐるディスクール
蔦森樹 つたもりたつる (1960− )
藤本由香里 ふじもとゆかり (1959− )
「イマーゴ」(1993・4・青土社)

犯される身体権−−レイプをめぐるディスクール

(略)
蔦森 私がこういう女装といわれる格好をすごく好きだと思ってやりだして、その時痴漢にあったのね、中央線の電車のなかで。初めて痴漢にあったとき、夏。やっぱり自分のなかに痴漢に対する興味があったの。痴漢されたらどんな感じかなって。怒らないで聞いてくれる? 私のなかに、レイプとかセックスの理解にポルノの意識を持ち込むところがやっぱりどこかであったのね。それが自分のなかで高じてさ、痴漢されたら気持ちいいんじゃないかなあ、そういう意識がどうしても拭えなかった。(略)
藤本 向こうは蔦森さんを、女だと……。
蔦森 思っていたんだね。その時初めてパニックになったわけ。最初は自分で自分の身体の安全を確保できるだろうと感じてた。そう感じてたときには余裕があったの。でも、ヤバイと思ったその時に真っ青になって、でも、私の場合声を出すと男だと分かるのがすごく嫌で、葛藤があって声が出せなかったのね。ただ手を払ったりとかして、次の駅で降りて走って三両先ぐらいに乗ったんだよ。そしたらついてきて、本当に恐かった。
 男の姿をしていた時には、何やってるのよ、バカヤローってポコってやれる力を持っていたはずだったのに、でもそれが出てこないんだよね。女性の抑圧性というのも内面化してきた時期でもあって、何か知らないけれど、とにかく恐ろしくて恐ろしくて。また次の駅で降りて駅員のところにしばらくぴったりくっついていたの。(略)
藤本 そう! 私も夜道で襲われたというか、後からタタタっと歩いてきて、いきなりはがいじめにされて、押し倒されたようなことが二度あって、一度めは叫んだら気の弱い奴で逃げちゃったんです、幸い。二度めはすぐ人が来てくれて助かったんだけど、どっちにしろ、そういう時って一瞬身体が全く動かないんですね。護身術も何もあったものじゃなくて、その時はそれこそ身体がカチカチになる。
 時々、男が女を強姦するには相当な体力が必要でそう簡単にできるものじゃない、っていわれるけど、私は自分が襲われた時の感じからすると、わりと簡単な気がする。本当に身体がすくんじゃうんだから。(後略)

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