
Room 2
80年代アメリカの環境政策とミシガン
宇井純 ういじゅん (1932−2006)
「三省堂ぶっくれっと」(1996・3・連載「南島通信−「公害原論」補講」)
80年代アメリカの環境政策とミシガン
(略)埋め立て事件のそもそもは、前世紀末に、ナイアガラの滝を迂回して貨物船を通す目的で、ラブという退役軍人が運河を作る計画を立て、何百メートルか掘ったところで金が続かなくて計画を放棄したことからはじまった。この穴は長いこと放置されていたが、地元の水力発電から電気化学工業を経営していたフッカーケミカルが、産業廃棄物の捨て場として目をつけ、廃棄物で埋め立てて市が整地し、全部で1ドルの代金で不動産業者に払い下げた。業者は典型的な庭つきの住宅地をそこへ造成し、まん中に小学校を作り、住宅地として売り出した。元手が安かったので土地はよく売れ、七〇年代半ばにはほぼ完売となった。
子供が学校で手足をすりむいて帰ってくると、どうも治りが悪いということに気づいた主婦が何人もいて、また地下室に変なにおいがこもるという苦情もあちこちから出た。動物にも病気が多い。何かおかしい、保健所に調べてもらおうという主婦のグループができた。ごく普通の、しかし言い出したら納得するまでテコでも動かぬという主婦たちである。何度も保健所とかけ合い、係員をひきずり出し、サンプルをつきつけ、という繰り返しのうちに、PCBが見つかったのである。これが決め手になって、連邦政府も放っておくわけにはいかなくなった。妙なところで日本のPCB騒動の経験も役に立ったものである。大統領選を目前に控えて、カーター大統領もナイアガラ市に呼ばれ、全国に存在することが判明したこの種の産業廃棄物の埋立地に対するスーパーファンド法が成立した。連邦が八〇億ドルの基金を用意してまず埋立地を始末し、かかった費用は裁判で原因企業から取り立てて埋めてゆこうという方法である。何カ所かこういう埋立地を見学したが、たいがいは地価の安い、従って貧困層の居住地の近くに立地しているので、黒人や中産階級下層の組織されなかった住民にとって、環境問題が身近な死活問題となった。これまでのヨーロッパの自然保護運動は、王侯貴族の狩場の保存からはじまった歴史的な経過によって、まだまだ中産階級上層の運動と考えられていたのが、ここに至って明らかに様相が変わったのであった。(後略)
なぜ『天皇の逝く国で』を書いたか
ノーマ・フィールド Norma Field (1947− )
岩波書店編集部編『日本を語る』(道浦母都子との対談より・1994・岩波書店)
なぜ『天皇の逝く国で』を書いたか
(略)二四歳のときだったと思います。平仮名と片仮名しか知らなかった私が、漢字の本を買って一生懸命勉強を始めて、日本とのつながりを新たにつくり出そうとしたのは。しかし大学院に入って、日本文学の研究者になろうとしたときに、それにはまた違和感があって、どっちに行っても自分は装っているんだなという感じから抜けられなかった。でも教授になってしまって、『源氏物語』と近代文学をやっていたんですけれど、研究者を隠れ蓑にしての日本とのつき合い方に、違和感が積もりに積もっていたんでしょう。
それをもうちょっと社会的な歴史につなげてみると、やはりアメリカの六〇年代の世代です。六七、六八年はフランスに留学していたから、五月革命のときにフランスにいたわけです。その前にもベトナム反戦があったわけですが、私の大学は当時もうちょっと保守的で、五月革命みたいに社会全体を問い直すという機会はなかった。六八年のフランスは生涯忘れないでしょう。それで帰ってきて、一一月の大統領選挙が悲惨で、ニクソンが勝ってしまう。ほんとに絶望して、次第に政治冷えしていくわけです。どこでもあった話ですが。
それから一五年もたって大学職についてみると、私の世代の人たちはみんな中堅で、六〇年代をくぐり抜けてきたから自称ラジカルですよ。文学や人類学などやっている。もうここ二〇年ぐらい構造主義からポスト構造主義へと、フランスから輸入した理論を駆使して、アメリカで何が出てきたかというと、ポスト植民地理論です。
みんな学園の外の世界にはほとんど目が行かない。かろうじてエイズのおかげで、ゲイや、レスビアンの理論やフェミニズムがありますけどね。私の周りの文学をやっている人たちは、抽象概念に走っても、小説なんかろくに読まなくなっている。理論しかもてはやされなくなって久しいから、小説や詩が読めなくなっている。それは、新しい文学も紹介しています−−黒人の文学、ヒスパニックの文学と。でも何が出てきても、理論を試す道具としてしか関心がないように思えて空しい。その理論だって、取っ替え引っ替え、論者の斬新なところを見せる道具に過ぎない傾向があります。日本とアメリカの双方に対する違和感と、それから入った学園という職場に対する違和感−−とくに、自称左翼の大学教師の生活と、その左翼性が何かというのがまったく見えない状況からくる違和感が重なってきた。やはり私の文学や社会に対する姿勢と、どうしてもなじまない。でも何だかそれを追求する勇気がなかった。機会もなかったし、そういうものを書いても論文にはなりそうもないしと思っていたんです。
天皇が倒れたとき日本に来ていて、沖縄で日の丸を焼いた知花さんのことなんかを読み出した。そうすると、祖母や母の熱烈な社会党に対する期待とか、美濃部都知事を夢中で応援していた姿とかがよみがえってきて、何か未処理のまま、まったく切れていた過去とつながるチャンスが期せずして回ってきたのかと思ったのです。新聞記事に、小さくスーパーの経営者が日の丸を焼いたと出ていた。いまごろ国旗を焼くなんてアメリカでもほとんど聞かない話で、ましてや今日の日本には縁遠いことに思えて、強い好奇心が起った。そこから次々と、まったく無計画にあの本(注・『天皇の逝く国で』大島かおり訳・1994・みすず書房)の旅が生まれてきたわけです。(後略)
書評『山谷(やま) やられたらやりかえせ』(山岡強一著・1996・現代企画室)
上野俊哉 うえのとしや (1962− )
「朝日新聞」(1996・2・18)
書評『山谷(やま) やられたらやりかえせ』(山岡強一著・1996・現代企画室)
寄せ場労働者の現実を描いたドキュメンタリー映画『山谷(やま)、やられたらやりかえせ』の監督だった佐藤満夫は、一九八四年山谷の路上で刺殺された。八六年、その映画を完成にみちびいた山谷争議団の山岡強一は新大久保の路上で射殺された。ともに労働者に敵対するある勢力によって。
遠い国のことではない。この国で起こったことだ。
『やられたらやりかえせ』。しかしそれはこの本で山さんも書いているように、「殺られたら殺り返えせ」ではない。それは自己批判の回路をもった闘いの身ぶりであり、あくまでも相手とは別のかたちでおとしまえをつけることだ(かつてマルコムXが弱者の暴力を別のかたちの知性と呼んだように)。
この遺稿集の多くの部分は、いわゆる“運動”の文体で書かれている。だから、ときにわかりにくかったり紋きりに見えることもある。けれども読んでいくうちに、山さんの思考が原則論をこえてしなやかに日本の資本主義の現状と世界のそれとの連関やずれを言葉にしていることがわかる。それは特に組織や集団をめぐる言葉を彼がくり返しきたえなおし、より広い地平に向かって投げ返そうとしている点にうかがえる。
八三年の横浜での中学生ホームレス襲撃と、同時期に山谷を暴力で支配しようとした勢力、さらにこれと連動する警察による弾圧がひとつながりのものとして分析されていくとき、今のぼくらは同じ、しかしより深刻な危機をむかえていることを認めざるをえない。
それは一月の東京都による新宿地下道からのホームレス強制排除によってまさに現実化した。一月十三日(山さんの命日)にはたまたま路上生活者の様子を見に行った人が突然新宿署に逮捕、連行され、護送バスのなかで暴行されろっ骨を折る重傷を負った。
遠い国のことではない。この国で起こったことだ。
十三億円の「動く歩道」のためにホームレスの生活の権利をおかし、彼らに無償で協力する人々まで排除しようとしている“青島”都政と警察はこぞって学校でのいじめや街でのホームレスいじめの手本を子供たちに見せているようなものだ。この馬鹿げた事態のなか、ぼくたちが山さんのこの思考のうねりからえられるものは決して少なくはないだろう。
ビデオで幻視する
ナム・ジュン・パイク Nam June Paik (1932−2006)
カルヴィン・トムキンズ『ザ・シーン−−ポストモダン・アート』(高島平吾訳・1989・PARCO出版)
ビデオで幻視する
(略)ぼくがこんなに長くWNET(注・実験工房を設けているアメリカの公共テレビ局の一つ)でやってこられた唯一の理由は、アンダーグラウンドのはけ口をもっていたからなんだ。体制のなかではたらいていると、フラストレイションはすごくある。それで、彼らに腹を立てても、ぼくは喧嘩をしないで、家に帰って、小さなところで何かばかげたことをやっていると気がおさまるから、またはたらけるんだ。アンダーグラウンドのはけ口こそぼくの安全弁。ぼくは世界で最も有名なバッド・ピアニストでけっこう。でも、WNETの仕事もやっぱり好きだしね。重要だからね。社会に影響を与えられるとすれば、おそらくそこにいるからなんだもの。
ぼくらはいま、象形文字を使っていた古代エジプトの段階にいるんだ。最近まで、TV機材はとても高価だったから、お坊さんしか使えなかった。で、また、制作コストを高くしておこうとして、放送網やTVのユニオンがいつもがんばっている。これは独占資本の古典的なやり口なんだ−−でしょう? ぼくはコストを低くおさえて、それがほかの人たち−−大勢の人−−にひらかれるような方法を見つけたいんだ。いま、カラーのポータパックがあるでしょう−−東京で買えば三千ドル、こちらでは六千ドル。でも、そのうちにずっと安くなる。問題は、じっさい、社会主義と資本主義とかじゃなく、テクノロジーなんだ−−それをどう使いこなせるか、ということ。たとえば、テクノロジーによる未来予測や未来研究−−ぼくはそんなところにとても関心があるんだけど。彼らは、ぼくらアーティストを必要としているんだ。その種の情報が大衆に届くようにするためにね。『ニューヨーク・タイムズ』だって、ランド研究所のリポートを載せやしない。やたら退屈だからね。マクルーハンがいうように、ぼくらは社会を変えるためのアンテナなんだ。でも、アンテナだけにとどまらない−−ぼくらには生産力、テクノロジーを人間化する能力もあるんだ。ぼくの仕事は、体制の動きかたを見て、小さな穴をみつけること−−そこに指を突っこんで、壁をひきさいてしまえるような穴をね。それからやはり、あまりダラクしないように気をつけなきゃ。
由煕
李良枝 Lee Yangji (1955−92)
『李良枝全集』(1993・講談社)
由煕
(略)だが、それでも私は由煕を思い、少しでも、一日でも早く、とただ由煕がこの国に慣れることを願う一心で、由煕の愚痴や皮肉な言葉に目をつむり、我慢しながら受け止めてきたのだった。由煕のどんな言葉も態度も、日本から来た由煕なりの、この国以外で育った同胞の苦しみから来るものだと、私は自分に言いきかせてもいた。
−−由煕、あなたはけちんぼよ。在日同胞っていうのは日本人なんだわ。ううん、日本人以上に韓国をばかにして、韓国を蔑んでいるのね。些細なことをちっとも許そうとしない。目をつむってあげようともしない。由煕、あなたみたいなのは神経質なんかとはちがうわ。けちよ。心がけちんぼなのよ。
いつかたまらなくなって、私は怒鳴り返した。赤子の手をひねるのと同じことよ、とも言い返した。この国と言い、この国の人と言う由煕の皮肉で、いかにも狭量な余裕のない言い方にかっとしていた。
だが、思いや昂ぶりを、どこにぶつけ、どう処理してよいかわからないでいたのは、私の方ではなく、由煕の方だったのかも知れなかった。
ようやく甘えて何でも話せる姉のような存在に出会い、私にさまざまな不満を皮肉な口調で言いながら、結局は自分の言葉に逆に突き刺され、唾を吐きかけられたように、由煕自身が息苦し気な表情を繰り返していた。
しかし、由煕はやはり遠かったのだ。
私と何を話し、私に何をぶつけても、自分が吐いた言葉と表情の苦い余韻を、由煕はだからこそ韓国語をもっと自分のものにし、もっとこの国に近づこうとすることで乗り越えようとしたのではなく、それとは反対に、日本語の方に戻ろうとしていた。日本語を書くことで自分を晒し、自分を安心させ、慰めもし、そして何よりも、自分の思いや昂ぶりを日本語で考えようとしていたのだった。
知らぬ間に肩から力が抜け、私は長い息をついた。
すでにこの国からいなくなってしまった由煕に、こうして腹を立てても今更しかたがないことだ、と私は心の中で呟いた。
もう終わったのだ。(後略)
「日韓ショック」の原点
リービ英雄 Hideo Levy (1950− )
『日本語の勝利』(1992・講談社)
「日韓ショック」の原点
(略)広場には、いくつかの石碑と、韓国の伝統的な曲線状の屋根を冠された、小さな博物館という外観を呈した建物があった。建物は何となく荘厳な印象を与えるが、それほど大きくはない、昌徳宮や南大門を見てきた訪問客の目を引くような建物ではない。
ぼくの目を引いたのは、その建物の横に立っている銅像であった。旗を持って、行進しているように片足を前方へ出している男の銅像である。銅像が目に入ったとき、漢江の鉄道橋を勇敢な姿勢で守衛していた彫刻のような兵士を思い出した。広場の銅像に近づいてみると、スーツを着た三十前後の、表情が聡明な男が、右手に太極旗を持っているのである。銅像のとなりにある曲線状の屋根の建物へ歩いてみた。入口のところに、韓国語と英語で(日本語はなかった)、atrocious Japanese(悪名高い日本人)伊藤博文を殺した愛国の義士・安重根の記念館
と書いてあった。
ぼくは一瞬、自分の目を疑った。「親日派」ということばだけではとてもいい表せないほど日本にアイデンティファイしていたぼくにとって、記念館の入口に書かれていることばを読んだ瞬間に覚えたショックは甚大なものだった。東京からは飛行機でたった二時間、下関からは一晩の船旅で行ける国の歴史観は、私が教えられてきていた日本の歴史観とはまったく逆である。片方では伊藤博文が近代日本を築き上げた元老であり、片方ではその伊藤博文を暗殺した人間が「義士」で、二十世紀最大の英雄に数えられている。暗殺者の記念館に辿りついたとき、韓国の歴史における大きな一事件を意識させられた、というよりも、思わず日本の歴史の暗部に出っくわしてしまったというおどろきを覚えた。はじめて日本から韓国に渡り、伊藤博文と安重根の歴史的評価の「逆転」に出合ったことは、生活の形式や豊かさの差よりも、至るところに見える軍人の姿よりも、私の胸に鮮烈な「日韓ショック」を起こしたのである。(後略)
戦争とことば
高橋源一郎 たかはしげんいちろう (1951− )
『文学じゃないかもしれない症候群』(1992・朝日新聞社)
戦争とことば
(略)
《「反戦」を唱えていれば、平和が実現すると考えている“平和主義”の空虚さは、今回のイラクの暴挙が実証した》(一月二十六日)
《重ねて言うが、条件付きながら、イラクが撤退の意思表明をせざるを得なかったのは、決して、平和をただ叫ぶだけで何もしない、まがいものの「平和主義」や反戦運動のせいではない》(二月十六日)(注・以上「読売新聞」社説の引用)
世の中は「読売」が考えているよりもう少し複雑にできているのではないか。そんなことをいってもいけない。この問題に関しては、「まがいものの『平和主義』」と「無法者に力で対応すること」の二つの道しか、この世の中には存在していないのである。困った。二つの道以外に、三つめや四つめを考えてしまうぼくのような人間の入る余地は、どこにもなさそうなのである。
怒り狂う「読売」の社説を読みながら、同時にぼくはE・サイードが一九七九年のテヘランのアメリカ大使館占拠をめぐるマスコミ報道について書いた『イスラム報道』(浅井信雄・佐藤成文訳、みすず書房)を読んでいた。ぼくには「読売」がなぜそんなに怒っているのか、よくわからない。しかし、PLOに深くコミットし、イスラエル側の暗殺リストにも掲載されているとされるサイードが、イスラエルやアメリカに怒るなら話はわかる。だが、サイードは興奮もしていなければ、怒りを露にしてもいないのである。
《メディアは主張はするのだが、複雑きわまる情勢展開について分析や深い報道を提供していない。……中略……。何が生起しつつあるかという複雑な政治を分析するにあたって役立つものは皆無であり、またメディアが複雑かつ時には戸惑うほどの歴史の過程を記録していると感じている者は間違いなくひとりもいないのである》
ぼくはサイードの『イスラム報道』に「文学」を感じた。それは『イスラム報道』に「論理」があるからだ。「文学」に「論理」。奇妙な言い方に聞こえるかもしれない。「論理」がまずければ「突きつめて考えること」と言い換えてもかまわない。考える。他人より一歩先を考える。昨日より一歩先を考える。考えることに終わりはない。故に、それは精神の運動の軌跡となる。サイードはそれを実行し、そしてそれを読者にも求めた。生々しい政治の渦中にあるからこそ、徹底的に「知」の側に立たねばならない。ぼくは、その「論理」を美しいと思う。机上の空論ではなく、あまりにも現実的であるが故にサイードの文章は「文学」となった。そして、残念なことに、一九九一年の文芸雑誌に掲載された作品の多くには「論理」はないように見えたのである。(後略)
価値ある試みに向けて
エリック・ロメール Eric Rohmer (1920− )
「木と市長と文化会館 または七つの偶然」パンフレット(鈴木布美子によるインタビュー・1994・シネセゾン)
価値ある試みに向けて
(略)まず第一に16ミリはとても使いやすい。あるいはこう言ってもいいでしょう。現実に近づけば近づくほど、現実という秤のうえで身軽になれると。つまり35ミリを使ったとき以上に、現実世界を尊重するようになるのです。というのも35ミリの機材は足でまといのやっかいな代物だからです。こんなケースがあります。室内のようなとても狭い空間、例えばこの映画で討論が行われた編集長室で撮影した場合、35ミリならとても厄介なことになったでしょう。なぜならキャメラそのものがとても大きな場所を占めてしまうからです。もちろん35ミリも16ミリと同じように大好きなのですが、現在の35ミリの映像には完璧すぎる側面があるように思えます。言い換えるなら、よく写真について言われるように、35ミリの映像は滑らかすぎるのです。そのため今日では多くの映画が、まるでコマーシャル・フィルムのように見えます。事物は細部まではっきり示され、すべてがとても正確に再現されるおかげで、最後には逆に現実性を失ってしまうのです。60年代の現代美術で起こったハイパーリアリズムから連想して、これを映画におけるハイパーリアリズムの一種と言ってもいいかもしれません。ハイパーリアリズムの絵画は、事物をありのままに描こうとして、本物らしさが過ぎるところまでいってしまいます。いっぽう私のほうは、写真でも少し粒子が目立つくらいが好きなのです。そうした写真は、少しぼんやりした感じを与えますが、それによって現実感と同時に、ある種の絵画的な質感をもたらすことができます。(略)つまり私が16ミリを好む背景には美学的な観点があり、単に軽便さだけの問題で16ミリを使っているわけではないのです。(略)
そんなものはなしで済ますことができるのに、なんであんなに多くのスタッフを使うのか、私には判りません。そこにはいかなる理由も存在しないのです。私はといえば、いつでも倹約の味方です。映画において表現の自由を望むなら、これはとても重要なことです。金銭の奴隷になる必要はありません。私は金銭の奴隷ではないのです。私は自分が望むものを作ることができます。もしこの作品がもっとお金のかかるものだったら、私は撮ることができなかったでしょう。私は現在の観客の数に満足です。それはかなり限られた数ですが、私にとっては十分に満足できるものなのです。20万人の観客がいれば、利益を出すことができますからね。けれど映画によっては、20万人の観客では広告費しか支払えない映画もあるのです。(後略)
工場生活の経験
シモーヌ・ヴェイユ Simone Weil (1909−43)
『労働と人生についての省察』(黒木義典・田辺保訳・1986・勁草書房)
工場生活の経験
(略)それ自体いつも同一である五、六の単純な身振りの組合せを長い間繰返してばかりいる限りは、かれらはほんとうには物を製造していないというのは事実である。もはやそうあってはいけない。こうである限りは、何がなされようとも、社会生活の真中にいつでも、見下げられた、憎しみを持ったプロレタリアが存在するであろう。(略)製造のために少数の単純な動作の繰返ししか要求されない場合にはすべて、その動作は例外なく自動的機械によって達成できる。人間は声に服従する機械であり、人間の場合には一瞬のうちに動作のある組合せを他のある組合せに置き換えさせるのに命令しか必要でないから人間の方を好んで使うのである。しかし、あるカムを他のあるカムに取り換えて、ある製造から他の製造に移らせることのできる、多用途の自動式機械が存在する。この種の機械はまだ新しくあまり発達していない。もし人間がそれにつとめるならば、どこまでそれを発展させることができるか誰も予言できない。そこに機械と呼ばれるであろう物が現われ得るであろう。しかしそれは働いている人間の観点からすれば、現在使用されている機械の大部分と正反対のものであろう。同一の言葉が反対の実質を意味することはまれではない。熟練職工は動作の自動的反復以外の仕事を分けて貰えない。一方彼が仕えている機械の方は金属の中にしるされ、結晶されて、現在進行中の製造の中に含まれる組合せと知性のすべてを包含している。このような逆置は自然に反する。それは犯罪である。しかしもしある男が自動機械を調節し、毎日加工すべき部品に対応するカムを製造する仕事をしているならば、彼は一方では反省と組合せの努力の一部を、他方では職人と同じように真の巧妙さを含む手の努力を引受ける。このような機械と人間の関係は完全に満足すべきものである。(後略)
パーソナル・コミュニケーションの不在
きたやまおさむ (1946− )
『他人のままで−−ある精神科医の部屋』(1986・集英社文庫)
パーソナル・コミュニケーションの不在
(略)パーソナル・コミュニケーションのマスコミュニケーション化。まるでマスコミにおけるおつき合いのようなパーソナル・コミュニケーションがはんらんしている。あえて言いましょうか。彼らの言葉あるいは対人関係のパターン、ごあいさつの仕方、流行語の使い方、一切合財が若者の側から生まれてきて、そして若者がそれをマスコミに売り渡し、マスコミが再生産して若者にフィードバックしたというよりも、マスコミ側がつくり上げ、そして提供し、ただそれを選択してパーソナルなものに使用しているだけの若者側という構造が徹底されているでしょう。若い人たちが歌をつくり、それをマスコミが流して、それが広まって、そして若い人たちがそれを支持するという、そういうことじゃなくて、徹底的にマスコミの側の30代のシンガーをつくり上げ、マスコミ側が手渡し、そしてそれをただ選択して口をあわせているだけの若い人たち、そういうのがあると思うんです。
ネアカ、ネクラの問題というのは、時代がネアカしか求めてないということなんだろうと思うから、そういう時代なんだというふうに認識するしかないんだけれども、そういう価値観ですらマスコミが押しつけたんじゃないだろうかと思う節があるんですね。
あの演技過剰の若い人たちの行動パターンは、自分の言動の模範のモデルをすべてマスコミに求めているんですね。そうすると、サブカルチャーとしての文化が生まれない。マスコミというのはサブカルチャーとしての若い人たちの文化が醸成したものをメインカルチャーとして拾いあげていくものでしょう。ところがそのサブカルチャーがなくて、すべてメインカルチャーになっている。若い人たちは自分のオリジナリティを醸成するためのサブカルチャーを大事にしないのかな。それとも売り渡しているのかな。
結局、現状のまま進んでいくと、純粋なパーソナル・コミュニケーションというのはひとりでやるしかない。ひとりで歌うカラオケの世界ということになるのかな。(後略)
アメリカ
ジョン・カサヴェテス John Cassavetes (1929−89)
『カサヴェテス・コレクション』(インタビュー記事より原雅明構成・1993・キネマ旬報社)
アメリカ
アメリカでアメリカについて映画を撮ることは困難を極める。というのも、アメリカという国があまりにも複雑だからなんだ。アメリカには色々な暮らし方があり、実に多様な人々がいて、それらの人々の行動様式がそれぞれに異なる。ただアメリカ人に共通しているのは、身体的な勇気と競争を高く評価するということだ。もしあなたがホワイト・カラーの人間だとしても、ひとたびグラウンドに出るや否やあなた自身の身体を使って勇気を示さなくてはならないんだ。勇気はアメリカ人にとって掛け値なしに重要なものだからね。そして、それとともに重要なのが競争の精神だ。競争はあらゆる文化的価値を代表するものだ。
しかし、それにしてもアメリカはあまりに広い。地理的条件が地域によって大幅に異なる上に、文化的環境や伝統も各地域ごとに違う。言うまでもなく、どの地方も紛れもなくアメリカ合衆国に属するけど、ある地方はドイツ色が強く、またある地方ではスウェーデン、イタリア、あるいはフランスの伝統を受け継いでいるという事実がある。アメリカには、アメリカ的という共通の国民的カラーが存在しないんだ。それぞれの国の人々が集まってアメリカという一つの共同体を構成しているけど、各国の特色は消え去ることもなければ、忘れられることもない。それだからこそ、アメリカについての映画は作りにくい。この国の現代における社会問題を映画のテーマに据えることは、本当に難しいよ。しかし、社会的問題は明らかに存在している。だから、我々アメリカ人は結局のところ、自分の国について何一つ知らないとすら言えるんだ。幾百、幾千の書物を読み漁ったところでアメリカについて分かったと言うことなどできない。アメリカ人の悩みはこれに尽きる。アメリカ人はアメリカについて何も知らないという無力感に捕えられているんだ。アメリカ人の多くは、自分の国では多くのことがうまくいっていないと感じているけど、何がうまくいかないのか、またそれは何故なのかを理解している人はいないと言っていい。白人と黒人間の人種問題について闘っている人々ですら、その問題の複雑さに触れると途方に暮れてしまうんだ。
ゴダールを思う−−「パッション」と泉鏡花
淀川長治 よどがわながはる (1909−98)
「パッション」パンフレット(1983・西武百貨店文化事業部)
ゴダールを思う−−「パッション」と泉鏡花
見ているとフェリーニの「81/2」と「オーケストラ・リハーサル」が目に浮かぶ。トリュフォーの「アメリカの夜」が思われてくる。
これらは映画を作ることで地獄にあえぎつつなおかつ映画におぼれた人たちを見せた。「オーケストラ・リハーサル」はオーケストラという形で美を生むその団結を見せた。美術を生むまでの出来上りまでの舞台裏は地獄。あまり美の情熱もない連中をも動かして美を生む映画というものが、ペン1本の勝負、絵筆1本の勝負、ピアノ1台だけの奏者の勝負でないことが、それは、わかりきったことだが、あらたまってわかってくる。
ゴダールのこの映画は、しかしそのような、映画におぼれきって苦しんでいる映画のようには見えなくて、むしろもっと違うことを言っているように見える。おぼれるのではなく、冷たくさえ見えて、だから私は、ゴダールが好きで嫌いで、ヴィスコンティやパゾリーニが神さまでゴダールを悪魔と思う。
それなのにいつもゴダール映画を見せられると、かかる作家もいるのだとその秀才ぶりにまいってしまう。
映画の始まりは雲間を切って1本のヒコーキ雲の白線が天を斬るごとく一線走ってゆく。すでにゴダールだと思う。初めからおどかしだぞとこちらは構えるのだが、やがてこのヒコーキ雲の一線が「81/2」の始まりの空に浮き上がってゆく逃亡の映画監督の姿に結びついてくる。それとあの大空の空気。
すると「軽蔑」のあのゴダールの夫婦のファースト・シーンのベッドの二人の会話に残酷きわまる夫婦間の、その妻の夫に対する軽蔑が思い出され、ゴダールが実にこわい人だとわかってくる。
「パッション」は古典名画をテレビで活人画で撮影。冷たい。馬鹿にしている。それなのにこの活人画撮影の美しさはただごとではない。キャメラ、ライト、衣装、モデルたちのマスク、ゴダールはキャメラでレンブラントを掴んで見せた。ドラクロワの絵の撮影の構えの何たる美しさ。活人画という馬鹿げたくわだてを馬鹿にしながら実はゴダールは酔っていた。レンブラントに、その他の名画に肉迫する。あの時代に自分が生れておれば俺はあのくらいの画家になっているぞの自負をさえ見せた。
工場の問題が出てくるので、また、ややこしくなる。ゴダールはブニュエルのように映画を愛してはいない。映画を手段にしている論説家。だから大嫌い、そう思う。ところがそう思いながらゴダールとなると駆けつけるのは、すみきっている映画を見せるからである。ゴダール以外作れぬ映画。
私は泉鏡花を思う。あの文体を貫く作家。ゴダールは、「勝手にしやがれ」(1959)から今日まで自分を貫いてきた。すみきったと思うのはそれである。「パッション」−−このタイトルはけっきょく彼自身の作品愛。私が嫌いと見えて実はかけがえもない好きな作家であることにいつも気がつく作家。そして「パッション」のワン・カットそのすべてがキャメラの美術。あまりあたまがいいと一度は嫌いになってもみたくなる作家である。
以上でゴダールが非常にこわい作家になっちまったが、実は鏡花のようにゴダールにも江戸むらさきの花を見るのを言い忘れてはなるまい。フランス美術。だからどうしても嫌いになれるわけがない。雪のなかをとぼとぼ、ひょっこりひょっこりと去ってゆく、あの女のうしろ姿。寒そうな冬の日だ。しかしこの雪もきっととけるだろう、などと見とれるラスト。ゴダールは、とけるもんかと言っているとしてもだ。(後略)
なぜ、植物図鑑か
中平卓馬 なかひらたくま (1938− )
『なぜ、植物図鑑か』(1973・晶文社)
なぜ、植物図鑑か
(略)<イメージ>とは、あるいは<詩>とは、長い間あらゆる芸術作品に当然のことのように期待されていたものである。ある作品が、それがいかなるものであれ、イメージがないとかイメージが弱いと言って批判され、否定されてきた事実をすでにわれわれはいやというほど知っている。そしてそのことについてこれまでわれわれは一瞬たりとも疑いをさしはさみはしなかった。なぜなら<イメージ>こそ芸術を芸術たらしめる当のものであったからだ。<イメージ>とは極論すれば、作家たる個がもつ世界についての像であり、それは個に先験的に備わっていなればならなかった。それはおそらく歴史的にはルネッサンスに始まる個の認識から近代全期を通じて信じこまれ、いまようやく疑いがもたれ始めたものであろう。作家はア・プリオリなイメージに従って世界を見、世界に触れることが要求されていた。だがそれは結局のところ個による、さらに言えば、人間による世界の歪曲、世界の人間化を意味するにすぎなかったのではないだろうか。いま、われわれはそのことを社会的な水準において、さらにわれわれのあらゆる思考、知覚の水準において深く反省せざるを得ない歴史の岐路に立たされているに違いないのだ。例えば世界を人間の道具として、人間の為に利用するものとして発達した科学技術(テクノロジー)は結果としては人間に敵対するに至った。それらを通して確実に読みとれることは、世界は人間による世界の人間化、道具化に反抗して、いま叛乱を起こし始めているということである。それは人間の初めての世界への拝跪をあきらかに物語っている。(略)
私にとってもはや<イメージ>は乗り越えられるべき対象である。私から発し、一方的に世界へ到達するものと仮定され、そのことによって世界を歪曲し、世界を私の思い通りに染めあげるこのイメージは、いま、私の中で否定される。世界と私は、一方的な私の視線によって繋っているのではない。事物、物の視線によって私もまた存在しているのだ。それを<世界=内=存在>としての人間などと知的ジャーゴンを使って了解することは極めてやさしいことである。あくまでも具体的現実に即して思考すること。それが目指すべきたった一つの方向である。いかにも私は世界を見る、だが同時に世界は私に向ってまた物の視線を投げ返してくるのだ。そこには私の視線を拒絶する世界、事物の固い<防水性の外皮>がただあるばかりである。(後略)
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