Room 1




初めのエルに打たれて
江代充 えしろみつる (1953− )
『白V字 セルの小径』(1995・書肆山田)

初めのエルに打たれて

あの頃のわたしのままだ
手さぐりの眼のなかに
鱗のような
木の幹の膚がせまり
自由に物をおもうたびに
意識の隅に
あの高い喬木のかげがたって
わたしが深くかかわることを語ることなく
わたしを休ませるより
息をはずませ
その蔭から
出掛けるままにさせられた
初めのエルに打たれて
まだ見ぬわたしの国へかえろうと
わたしは生きる
あらゆる壁は
人がそのむこうへ立ち入ったすえ
そこにいる当のわたしが
地続きのこちらがわへと
まず最初に立ち退いてこなければならない
そんな所だから
却ってわたしこそ
ひみつをもつのだろう



荒木経惟 記録性と虚構性をマタぐ
鈴木志郎康 すずきしろうやす (1935− )
『写真有心』(1991・FROG→現mole)

荒木経惟 記録性と虚構性をマタぐ

(略)自己の独自な表現を作品として純粋に実現しようとすると、既に社会に受けいれられている表現の形式と常に衝突を起こすのであるが、表現に即した作家の行動は、この衝突を通じて自己の表現を先鋭化していくものなのであるが、荒木経惟の場合は常にその衝突の一歩手前でずらして、自らを社会に受け入れさせてしまうのである。作家はその衝突を闘い抜いて真の自己を実現する。別の言葉でいえば本当の大物として有名になるのであるが、その当時の彼の場合には表現が実現する一歩手前で名前だけが流通してしまうことになる。表現に即していえば以上のようなことになるが、現実に作家は生きているのであるから、どの道を取るかは作家の自由なのだ。(略)一九七六年に、マンガ雑誌『ガロ』に「浪漫写真」と題して、写真を連載し始めたところから、「私現実」という概念を写真としてマスコミ媒体の中に流通させることになる。そのとき「浪漫写真」という題が示すように、女性の陰部まで撮ることを行なっていたような自らの写真表現をぐんと後退させているわけである。つまり、写真にストーリーを持ち込むことによって、物を見せていた写真から物の姿をほとんど消してしまうところまで後退している。/『ガロ』連載第一回は「女優・関村妃」と題した美少女の写真であるが、この美少女を物語の主人公に仕立てて、一枚一枚の写真に背後にストーリーがあることを感じさせるように場面を作っているのである。写真によって虚構を実現しているのだ。この虚構の空間の組み立てに、「私現実」という概念を成立させることになった。このあたりから、荒木経惟の写真には彼独自の身体にまつわる言葉を多く使った文章がつくようになるのだ。彼は現実の写真を撮るが、マスコミ媒体の中で、その強烈な抽象作用の中で、最も具体的な存在であるはずの自分の身体と身体感覚を反転させて虚構化し、その虚構化された身体的空間のものとしてイメージを流通させるわけである。(略)おそらく荒木経惟の写真のあり方は、良くも悪くも、この時代のイメージのあり方を示しているものと思えるのである。



現実を映す鏡の役割を
久田恵 ひさだめぐみ (1947− )
「朝日新聞」(1996・1・12夕刊、連載コラム「チャンネル」)

現実を映す鏡の役割を

 大みそかの紅白歌合戦を見る暇がなかった。
 野宿している人たちの年末年始の越冬用に開放された川崎市民体育館に取材に行っていたのだ。
 彼らの支援グループにくっついて市内を回って体育館に戻ったのは深夜の十二時過ぎ。館内でテレビを見ていたおじさんたちに、「ね、ね、どうだった?」と聞いたら、「小林幸子と美川憲一の衣装がさ、すごかったよー」と皆、いたく感心していた。
 ともかく、テレビで一年間稼いだお金を最後に思いっきりよく注ぎ込んで、視聴者を楽しませた二人の芸人根性は評価に値するわ。
 明けてお正月。四百人もの人たちが一緒に年越しをした体育館では、お雑煮もお酒もなかったけれど、テレビの前には、いつも人だかりがしていて、皆、テレビの中でせっせと稼ぐタレントたちのお正月を眺めていた。
 どのチャンネルを回しても、飲んだり、食べたり、温泉につかったり。はたまた、変なドタバタゲームをやって、出演者だけでキャーキャー笑い合って勝手に盛り上がっている。
 さすがにだれかが言った。
 「こちとら仕事もないのにさ、ばかやってラクして稼いで食べてる連中ばかりを見せられて、やんなるねえ」
 私もそう思う。テレビは社会を映す鏡で、私など一週間も見ないでいると、世界から隔絶しちゃった気分になる。ことほどさように人と社会をつなぐ回路として定着しちゃったこのテレビが、お手軽なバラエティーやワイドショーで「ラクして、視聴率取って、荒稼ぎする」ことに懸命になっている姿ばかりを見せられていると、野宿のおじさん同様やんなっちゃう。
 テレビにはもうちっと、現実の社会に切り込んで、その実態を映す鏡の役割を果たして欲しい。
 でも、経済不況にうめく失業者たちが群れなす越冬の現場を取材に来たテレビ局がひとつもなかったことを考えると、今年も期待できないかも。



テレビ取材の進め方をめぐって
伊藤悟 いとうさとる (1953− )
「週刊SPA」(1994・7・6・扶桑社)

テレビ取材の進め方をめぐって

 5月19日の夜、8時半頃、玄関のチャイムがけたたましく鳴った。母と共にドアを開けると、そこには幼稚園児の格好をした男が立っていた。「今日一日お宅の子供にしてください」。何が起こったかわからず、頭がまっ白になった。とにかく母を守らなくてはと考えて、「困ります、帰ってください」と繰り返すうちに、その相手が松村邦洋だとわかった。日本テレビの『進め!電波少年』の“アポなし突撃”だったのだ。
 来た理由はすぐに想像できた。『男ふたり暮らし』(太郎次郎社)という本で、同性愛者であることを公言(カミングアウト)し、パートナーと自宅で一緒に暮らすようになるまでのライフヒストリーを書いたからだ。それにしても松村は物まねをしたり、「ちょっとお茶を」とか言って帰らない。業を煮やした僕は、彼を外に追い出し、そこに来たディレクターと口論した。やっとの思いで僕達を認めてくれた母親はマスコミには出たがっていない! デート中からかわれたこともある! ありったけの勇気を奮って本を出したんだ!−−その後、帰ってきたパートナーと共に再び日本テレビに電話した時も含めて、必死で同性愛者の状況を話した。ディレクターは「わかると言ったらゴーマンになるからわかりません。とにかくダメだということはわかります」
 謝罪文も送ってもらったが、取材がボツになって謝ることに手慣れた様子で、「決して冷やかしや好奇」ではなく「交渉及び撮影での配慮に欠けていた」ので「深くお詫び申し上げます」といたって簡潔で、予断で同性愛のカップルだから子供が欲しいだろうと決めつけたことや、一般の家に突然訪ねてテレビカメラに撮ろうとすることがプライバシーを侵すだけでなく、どれだけ精神的なショックを与えるかといったことには一切触れていなかった。ディレクターは「松村で笑わせようとしているので、あなた達を笑うのではない」と言ったが、今テレビでは、「オマエ、ホモなんじゃねーの、キモチわりぃ」なんてギャグが山ほど流れている中で、僕達が一緒に笑われてしまうのは必至である。
 ゲイ・ブームなどといわれているが、メディアの中では、現実に生きている同性愛者の真の姿はまったく描かれていない。テレビで障害者が笑われたら、必ず問題になるだろうし、抗議されるだろう。だが、同性愛者の場合は問題にされるどころか、異性愛者の前で、バレないように自己卑下的に一緒に笑わなければならない状況である。感性のマヒした、少数者の状況への想像力のないメディアと、したたかにやりあって、正確な情報が伝えられるようにしたい。



わたなべかおる名作集
渡辺薫 わたなべかおる (1990− )
発言などより(1996、97・渡辺家族再録)

わたなべかおる名作集

3歳9カ月くらい−−
いきてるのがたのしくてたのしくて

5歳の誕生日前後−−
おかあさんいつまでもいまのままでいてね
おとなになりたくない
しょうがくせいになってもいいけど
いつまでもおかあさんのこどもでいたい

かおるがおとなになったらこのいえにいなくなるの?
じゃあおかあさんはとなりにすんでね

<第一伸>
このなぞなぞをあてたらおとうさんのすきなところにいけるよ
かおるより
おとうさんへ

<第二伸>
おとうさんのいくところはしずかなところをおしえます
じゃあね
よろしく

6歳になって−−
やさしくしなくちゃとおもっても
いじわるなこころがでてきちゃうんだよ

小学校一年生の漢字表を見て自分で書いた文章より−−
赤い女と青い男
一年生になった
空ちゅうに石がうかぶ
花はうつくしい
村にいっぱい竹があった
じぶんの力で文をかいた
車は早い
川の上に夕やけ

○作ったキャラクターの名前
バナナおやじ
レモンキッズ
キャベツせんせい
みかんじまん
クラゲじゃらじゃら

○作った人名
じょうこうせつ・りこう(ウルトラマン・ジェット--これもオリジナル--が人間のときの名前)
しんせき・かずき しんせき・ゆうこ しんせき・はやと しんせき・しやこ



いき
小林泰子 こばやしやすこ (1962− )
「壘」第13号(1995・壘発行所)

いき

川面にうつる家並みがゆれている
初夏の日ざしが半ばはねかえり
半ば吸いこまれて
水は青く輝いている

宇宙に浮かぶ無数の星ぼしのように
けばだった球体が道端に群れている
五月のミルキー・ウェイ
娘はタンポポの綿毛を幾本も手にして願いごとをする
願いをこめてタネを吹き飛ばせばおひさまがかなえてくれるのだという

「いつまでもいつまでも、カオルがしにませんように」

願いを運ぶタンポポの綿毛がいっせいに飛び散る
小さな息に乗って
地面におちるもの
川に吸いこまれるもの
コンクリートをころがるもの

わたしの願いは
生暖かい息となって口から漏れた
言葉のかたちさえとらずに

(ドウカワタシタチヲ…………)

おひさまに焼かれた風はほどよく暖かい手で
今ここにあるすべてのものを
ゆっくりと撫ぜている



メカスの日記
ジョナス・メカス Jonas Mekas (1922− )
「メカス1996年春」パンフレット(木下哲夫訳・1996・メカス日本日記の会)

メカスの日記

1971年4月8日
 この町に暮らす人々は、身を守るために撃たねばならないこともしばしばだ。本物の銃を手にして。
 わたしたちも身を守ろうとして、日記映画を撮った。自衛のため、周囲の惨憺たるありさまに押しつぶされないように、わたしの感覚すべて、存在のすべてに向けられる攻撃を防ぐために。そう、自己防衛の手だてにわたしは映画を撮っている。わたしの日記は、ある部分を強く打ちだしたり抑えたりすることによって、都会を、田舎のありかたを正す試みと見てもらってもよい。だから身のまわりのささいなことがらに目を向け、それを愛でようとわたしは繰り返すのだ。今、求められているのはそれなのだから。わたしは過ちを正している。社会の過ちを正すのがアーティスト。政治家や「社会事業家」がめちゃくちゃにした後始末をしようとするのがアーティスト。

1976年11月9日
 スプリング街を歩く。トンプソン街との交差点にある銀杏は昨夜のうちにすっかり落葉してしまった。地面は黄金でいっぱい。
 一つぐらいのこどもを連れた若い女が落ち葉のじゅうたんのうえで歩みをとめた。こどもはまだよちよち歩き。落ち葉が面白いらしく、目をこらして見ている。びっくりして落ち葉から目がはなせない。とつぜん木の葉のなかに転がっているコカコーラの栓が目にとまる。こどもは思わず小さな手を伸ばした。その瞬間、こどもが栓をつかむ寸前に母親の足が先回りして、こどものびっくりした指先から遠くに栓を蹴飛ばした。母親はしばらくぼんやりとたたずみ、やがてこどもの手を引いて立ち去った。
 わたしは銀杏の下に立ちすくんでしまった。母親はべつにたいしたことをしたわけではないし、連れていたのは自分のこどもなのだろう。こともにひとこと触ってはいけないよと声をかけ、栓から引き離してやればすむことだ。わたしはウーナにいつもそうしてきたし、それで用はたりた。ウーナが1歳のときでも。
 わたしは銀杏の下に立ったまま、考えた。わたしたちはあんなふうにこどもたちを教育しているのだ、人間性とはこんなものなのだ、わたしたちがこんなふうなのは、そのせいなのだと。
 足が栓を蹴飛ばすのをまのあたりにして、こどもの小さな頭のなかでなにが起こったか想像してみた。こうしたことがつみかさなると、こどもの心がどのように形づくられてゆくものか考えてみた。季節は秋、地面は黄金色の落ち葉でおおわれ、天気も申し分なかった。それなのに、あんなに乱暴に蹴飛ばすなんて……
 わたしは交差点に長いこと立ちすくんでいた。それから、ソーホーの散歩を続けた。



エイズ問題に受け身の日本
キース・ビンセント Keith Vincent (1968− )
「朝日新聞」(1994・9・6、「論壇」投稿)

エイズ問題に受け身の日本

 八月の第十回国際エイズ会議の最中に原宿でエイズ写真展が開かれたが、日本人のエイズ患者が一人も写っていなかったのはどういうわけだろう。日本で名乗り出ているHIV(エイズ・ウィルス)感染者が少ないことは知っているが、これはどうも数の問題ではなく、エイズに対する姿勢の問題のようだ。エイズ理解を深めるというあの会議によって、日本人のその姿勢ははたして変わったのか。
 会議主催者が作製した一枚のポスターがある。米国旗を高く掲げた異人船が横浜港に入ってくるという「横浜絵」を中心に置いたものだった。海外宣伝用に作製されたこのポスターはおそらく、開港百三十五年の歴史を誇る横浜を強調しようと採用された絵柄だ。だがそのとき一つの疑義を感じた。「日本は、エイズを異人船と同じ外国のものだと考えているのか」というものだった。
 ポスターのその横浜絵に描かれた船上の人物や桟橋で見守る人たちはすべてが西洋人か中国人だ。ところがニューヨークで調べた三枚続きの原画には、ちゃんと着物姿の日本人の男女数人が描かれている。その数人がカットされていた。
 写真展やポスターにしてもそこに他意がないのは明らかだが、これが結果的に私たちに、エイズは日本ではいまも「異人の」病気で日本人には関係ないもの、という印象を与えた。会議の目的は、エイズを目に見える自分たちの問題として捕らえ、沈黙をやめようと呼びかけることでもあったはずなのに。
 幕末の国学者、平田篤胤は外国と接する以前の“純潔”な日本を想定していた。この黄金の時代にあっては日本はすべての病気から自由で、ばい菌はみな、不潔な中国や西洋との接触によってこの神の国にやってきたのだと彼は考えた。だから西洋の薬学を研究するのは、これらの病気を治療するためにはもっともなことなのだ、と。
 病気を他者のせいと考えるのは確かに、どこの人間にも共通した性格だ。コミュニケーションと交通の発達によって初めて可能になった近代社会とは、逆にそれぞれの社会で均一な共同幻想を生み出す場でもあった。その最たるものは、自国は他の国とは違うのだといった排他的な国家主義の幻想だった。
 その幻想で現実と戦おうとするときに生じる悲劇的な間違いが、アメリカ、日本両国の出入国管理法に見られる。両国法とも、エイズはエイズ患者・感染者を国境で排除すれば防げるものだと考えている。
 現実はどうか。日米とも患者・感染者は増え続け、水際排除イコール防御だと信じているから、すでに国内にいる患者・感染者にもむやみに排他的に接し苦悩を与えている。だからエイズという病気が、巧みに構築されてきた純潔さの共同幻想を平気で無視してまん延しつつあることをいつまでも信じようとはしない。エイズにとっては国境など存在したためしすらないのに。私たちがエイズとの戦争に勝つための希望は、私たちみんながエイズとともに生きているのだという現実を見定めることでしか存在しない。
 日本を開国させたのはペリーの黒船ではない。エイズをまん延させるのはHIVではない。まず先にそのためのステージがセットされているかどうかである。ペリーがコケ脅しの黒船でやってきたときに、すでに江戸幕府は自らの重みで崩壊しようとしていた。そしていま、無知と偏見と、外国人差別と“純潔”を信じる国家主義と、そして同性愛者たちへの嫌悪の重みにねじれている社会は、この最もぜい弱なウィルスに対してすら無防備・無抵抗なのだ。
 黒船は破壊と救済の両義的な象徴として考えられ続けている。米軍が爆弾とチューインガムの両極端のイメージを伴っていたように。横浜のエイズ会議でも主体をなしたのは異国の学者や患者だった。
 日本は今回もまた外国に破壊と救済のシバ神の二つの顔を見ていた。あの写真展でもポスターでも、日本人はいったいどこにいたのだろう。百五十年以上も昔の篤胤の考え方がいまでも通じると考えている限り、日本人はいつまでたってもエイズに関して受け身なままなのだ。



新しい人間関係の海へ、勇気をもってダイブする
古橋悌二 ふるはしていじ (1960−95)
「レビュー」6(平林享子によるインタビューより・1996・レビュー発行所)

新しい人間関係の海へ、勇気をもってダイブする

 僕もね、結構、社会的なことやってるんですよ。8月の横浜のエイズ会議のときも、友達の浅田彰くんたちと企画して、シンポジウムをやったり、「LOVE BALL」というダンスパーティをやったんです。3000人ぐらい人が来たんですけど、それから、「エレクトリック・ブランケット」といって、エイズに関する写真のスライドを公共の場所、たとえばニューヨークだったら駅の壁に投影したりするプロジェクトとか。そういうような活動もやってるんですけども、なぜやりだしたかというと、誰もやらないからなんです。本当は僕としては、芸術という手段で、伝えていこうと思ってるんです。人には職能っていうのがあると思うから、自分ができる最良の部分で世界をよりよくする、よりよくするなんて大それたことはいえないけれども、よりよいビジョンをもってやっていければいいなあと思っていて、やっぱり僕の場合は、シアトリカルな方法とか、今回(個展「LOVERS」のこと)のようなアートという手段で、やるのが一番適していると思うんです。ただそこで危険なのは、アートという手段が自分に一番適しているからといって、社会的な矛盾とかをまったく無視してしまうことなんですよね。僕らがそういうイベントを企画して、友達の名の知れてるアーティストとかに「手伝ってよ」っていっても「僕は忙しくて、ボランティアなんてやってる暇ないよ」とかいう人、多いんですね。結構、がっかりする。「僕はアーティストだからそこまでできないよ」とか、「それはそれ」とか。僕の友人でフランス人のアーティストがいて、パリに住んでたんですけど、モンマルトルとかホームレスの人が道にゴロゴロいてるのを無視して、その間をすーっておしゃれに歩いていくんですよね。フランスの場合、アーティストは国に保護されてますからね。それでこんな国に住んでいたくないってパリを出たんですよ。でも僕はそれでは駄目だと思うんですね。なぜそうなのかっていうことにもアーティストはコミットしていかないと。アーティストがお山の大将みたいな感じで「アートは儲かる儲かる」みたいなね(笑)、そうなっていくのは本当に危険。僕のできることの最良の部分はアートだと思ってるけれども、やっぱりそういう部分もできる範囲でやっていくつもりなんです。



荒地の外れに
材木谷敦 ざいもくやあつし (1968− )
「壘」第14号(1996・壘発行所)

荒地の外れに

わたしたちの踏み締める、ここに、夏は終り、
透明な葉脈に貼り付いて、赤土に埋もれる、若い病葉を、
わたしたちは拾いながら砕き、汚れた指と傷ついた爪で、
抜けた髪の毛を長袖の服から払い、
行き場のない夕暮れの風に、今、思い出の始まりを探す、
そのために繰り返す瞬き、
その度に切り取られる、
四つの小さな広漠、
澄み渡る空に、ひとつひとつの眼の傷を溶かす、
わたしたちは、わたしたちが同じものを見るための名付けを休み、
彼方に見える、固い赤土を、革靴の足許に踏む、
若い病葉の粉を譲り合い、抜けたばかりの髪の毛から互いを遠のけ、
これからという広がりに応じて、
寒くなるのだから、暗くなるのだから、重くなるのだから、
遠のくのだから、引き返せなくなるのだから、忘れてしまうのだから、
やがてわたしたちの経験には意味しかなくなり、
固有の脈拍に刻まれて、
わたしたちはいつまでこのように疲れていられるだろうか、
風という空にからだで触れると、
昨日の最後の挨拶がわたしたちに追いつく、
この外れから、向こうの外れ、そこに顔を向けるために、
細く長い首の皮膚を安物の布のように捩り、向き合って立つ、
わたしたちの、
それぞれの眼の傷の先に消失する、
あの彼方へ、
瞬きを続け、足許の赤土を踏み込み、
もう長い間、そうしているかのように、埃を吸い込み、
もう何度もそうしたことがあるかのように、
安定するふたつの腰、
薄い瞼、
口を緩く開け、
ここに思い出の始まりを探す、
今、夏は終り、
わたしたちはわたしたちに残された意味に、名前も形も与えられず、
若い病葉の粉を譲り合った、
見えない髪の毛を避けた、
汚れた指を絡め傷ついた爪を重ねている、
その身振りを突いて、
次の古い風が吹き、
わたしたちの眼の前から真円の時刻が消える、
これからという広がりに応じて、
寒くなるのだから、暗くなるのだから、重くなるのだから、
遠のくのだから、引き返せなくなるのだから、忘れてしまうのだから、
ここに、ひとつひとつ、
わたしたちの触れ合う汚れた指の先、
傷ついた爪の裏側に、
ただ、単に、許されて、



文法家
ガートルード・スタイン Gertrude Stein (1874−1946)
How to Write(1975,Dover Publication )

文法家

私は文法家である。
私たちはともに泣くあるいは泣かない。
これら。いとこを持たない。
これらはいとこを持つ彼女は尼である。
それらのいとここれらには何人かいるその一人は尼である。
私は私の恋人をbで愛する彼女は大切だから。私は彼女をcで愛する 彼女は私だけのものだから。
これは非常に簡単な文法である。誰がそれをそこで使うか。これは簡 単ではないそれは教えられていないから。
文法。もし私たちが泣けば、彼は泣く彼はどうすることもできないそ れらのないものとして。
文法は航海に逆らわない。もしそれらが汽船に乗ったのでなければ。
彼は一度にひとつのことを気がかりに思わない。
文法とは何か。文法は忘れられているそこに一匹の犬がいること。で は人はどのようにしてできるか何がそのものとは違うかどのようにして 人は忘れたか
忘れた忘れたは忘れることを意味することをあるいはそれがあったこ とを知らなかった。どのようにしてあなたは忘れられた忘れるが知って いたと言うのかどれかを彼は知らなかった以前なかったようにそれはそ こにある。
すべて間違いそれらはすわっているどれが正しいか。
どれが正しいかそれらにとって何がそれらにとって違いか。それらも なく。
文法を作るものはそれらが知っているしかしあきらかにそれらはあた りにありはじめている。
文法の五十倍。
部分的にパーティと同じもの。
部分的に間違いと同じもの。
文法家ぴったりな空気のなかに喜びがある。
私にぴったり。
文法家として。
(以下略)



出口なし
ピーター・ビアード Peter Beard (1936− )
「Switch」(駒沢敏器訳・1993・3・スイッチ・コーポレーション)

出口なし

(略)その後エチオピアが同じ道をたどるように、この地においても、センチメンタルなチャリティのせいで巨額の富が誤ったことに使われた。自らの地を吸い尽くしてしまった野性動物のために、さらに給水用の穴を掘ってしまったのである。「ゾウに飲み物を」あるいは「野性動物に水を」などという馬鹿なスローガンを掲げた宣伝のせいで、ゾウたちは逆に餓死してしまったのだ。余計な穴が開けられた分、ゾウたちは土地から何もかもを吸い取ってしまい、ついには木の幹にまで手を出し、固い木片が腸に詰まって便秘を誘発し、それが原因で死へといたった。そして広大な元森林は、屍の散在する巨大な墓場となった。便利さのせいで、ゾウは本能のレベルを超えて食料を摂取してしまったのである。そして、人間が生まれたとされるバオバブの樹もゾウに齧られ、無残な姿をさらけだしている。(略)散乱する屍を撮った写真も政府によって公開が禁止されており、うわべだけの「狩猟禁止」キャンペーンの時だけ、都合よく使用された。(略)のちのエチオピアがそうであったように、ツァボでもまた、飢饉はすべて旱魃のせいにされた。伝統的な狩猟は「密猟」の汚名を着せられ、象牙が高く売れることが原因とされ、「アフリカ人の腐敗」が糾弾された。本質とは別のささいなことが、こぞって批判を受けた。(略)何千キロもの、何十万ドルにも相当する、象牙というケニアの牙が、痛々しくも生贄のように山積みにされ、焚き火のように火にかけられ、六〇〇ガロンものガソリンを注がれ、こんなものが高く売れるから野性動物が犠牲になるのだと、偽善家の名誉をくすぐるくだらないPRのために、社会正義の名の下において、すべてが焼きつくされるのだ。(後略)

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