向日好日−−「渡辺洋」の成り立ち
・敬称は気分次第で不統一です。
一九五五年一二月六日 東京都渋谷区幡ケ谷で生まれる。兄一人。
区立小学校卒業後、男子校の私立中学高校に入学。坊主頭。白フンの水泳学校で上級生やOBに傷めつけられ、水泳を始めスポーツ全般が嫌いになる。上級生のタカリ、山手線の痴漢(男の子ねらい?)、ラッシュ時の客の乗り降りで体ごとふっ飛ばされるなども体験。いつも教室の隅で本を読んだり、好きなフォークやロックのことを考えたりしていたため「鈍重」というあだ名を頂戴する。中二の時、仲の良かった友人が父上の死去で急に転校したあと、毎昼休み、教室のベランダで茫然としていたことや、まだ地上駅だった京王線のホームに帰りつくたび、「また明日か」とつぶやいていたことなど。高校卒業の頃から、小室等の歌を通じて名前を知った吉増剛造らを皮切りに詩を読み出し、マニアックな性格が高じてハマる。大学では芝居に手を出すも、隣の劇団のリーダーにたちまちのしあがった野田秀樹(同じ小学校の悪ガキ。ちなみにもう一人、後に映画監督になった金子修介も小学校の同級生で、そのことは彼らがあまりに有名になるまでは自慢の種であった)を見て自信をなくすエトセトラでリタイア、詩を書くことも思い入れが先走ってうまくゆかず。結局、中学高校と同じく早く卒業することだけを夢見る(女性関係が原因だったとの噂も)。卒論は富岡多恵子の受け売りでガートルード・スタインを選ぶ。教授陣もスタインをあまり読んでいない時代で助かる。
一九七九年 四月、三省堂に就職。高校英語教科書を作りながら、何か面白い本が作りたいと晶文社ほかの本を乱読。労働組合の通信で教科書裁判運動の人数集めの域を出ない実態を批判したことで、組合の集会で名指しで批判される。
一九八一年 五月、教育問題をめぐって悶々としていた中学以来の友人、伊藤悟らと、投稿を何でも手書きのまま載せるミニコミ「マッチ」(隔月刊、年一回休み)を創刊。年末、生意気な言動がもとで、月刊誌「英語教育ジャーナル」の編集に関わることになる。
一九八二年 「英語教育ジャーナル」を引き継ぎつつ、四月号より九月号までで息切れ、結局同誌の幕引きも果たす。年末より、内申書裁判の原告であった保坂展人の青生舎に参加、翌年三月スタートの月刊「学校解放新聞」の編集に参加、一年間付き合う。
一九八三年 朝日新聞夕刊(三月一四日付)に掲載された鈴木志郎康「言葉の意味が死んで音声が生き返ってくる」を読み感激、志郎康さんに手紙を書き、会う。志郎康さんの著書の編集と並行して、詩への思い・信頼が復活。同時期に平凡社発売の雑誌「イコール」(橘川幸夫・編集)に注目。同誌の巻末企画「気分チャート」の単行本化を同僚の阿部和幸ともくろむ。
一九八四年 一月、「気分チャート」の単行本『現代気分の基礎知識』刊行。鈴木志郎康評論集(仮題『メディア対<私>』)編集ほぼ完了するも、社内の力関係で延期。四月、実家を出て、江東区白河に住む。八月、小松洋支らと同人誌「火山局」を始めるが、三号雑誌で終わる。
一九八五年 四月、阿部和幸らの助力で鈴木志郎康『メディアと<私>の弁証』刊行にこぎつける。夏頃より新しい英語の教科書の編集方針をめぐり編集長の峰村某氏という、付き合う関係次第では、本当に人のいい代々木の人および編集主幹の中村某氏との意見の相違が前面化する(「広告は悪だと言いきれるのでしょうか、教科書を売るにも宣伝があるわけですし」「広告が悪だということさえきみは共有できないのか。教科書宣伝? それは出版社の勝手でしょ」「あんなに心の清らかな先生をなぜきみは支持できないのか」ほか)。結局峰村という人の挑発と罠にのせられたかたちで辞表を書き、「そんな話はない」と憤る友人たちのバックアップで辞表を撤回する/撤回するからには土下座でもしてもらわないと、といった右往左往の末、一一月、辞職。
一九八六年 一月、詩集『二十才の恋』執筆、鈴木志郎康さんの「詩人に見せない方がいいよ」という忠告でお蔵入り。校正、原稿整理・執筆、下訳、失業保険ほかで食いつなぐ。五月、三省堂の高校教科書『新現代文 改定版』の編修委員に加わる(八九年刊)。九月、新宿書房の松岡毅と出会う。一〇月、『日記詩集 十月』執筆、鈴木志郎康さんに「こんなにマイナーなものはめずらしい」と屈折したほめられ方。志郎康さんの細かいアドヴァイスを受けて原稿を手入れする。ハッピーエンド通信社に就職したが、二日で逃げ出す。
一九八七年 四月、詩集『日記詩集 十月』刊行(私家版)。ネクスト=編名義で村岡清子、堀口琢司と『ザ・業界』(MIA)を編集刊行。五月、同人誌「ト、ヲ(止乎)」(鈴木志郎康、渡邊十絲子(渡辺淑子)、金子千佳、山内靖子)に参加。ムーンライダーズの鈴木博文さんに出会う。新宿書房の松岡毅と鈴木博文エッセイ集の編集を始める。九月、鈴木志郎康評論集『メディア・マイノリティ』の編集をれんが書房新社の企画として始める。
一九八八年 一月、朝日出版社に就職、以降、語学書、辞書、電子出版ほかの編集に関わる。三月、鈴木博文『僕は走って灰になる』(新宿書房)刊行。
一九八九年 三月、「ト、ヲ(止乎)」解散。五月、同人誌「飾粽」(鈴木志郎康、藤井貞和、清水哲男、渡邊十絲子ら)に参加。
一九九〇年 一月、「飾粽」同人の小林泰子と同棲(三月結婚)、翻訳『ハートビート』(キャロリン・キャサディ著、新宿書房)刊行。七月、詩集『エゴイストとナルシシスト』(れんが書房新社)刊行。「飾粽」一〇月号にしみず・あきら名で発表した詩「レイプ」が屈折した反響を呼ぶ。一一月一二日、天皇即位の日、長女、薫生まれる。
一九九一年 三月、「メカス日本日記の会」(吉増剛造、鈴木志郎康、玖呂ちゃん、木下哲夫、鈴木一民ほか)に参加、諸雑務をこなす。五月、「マッチ」50号をもって、編集執筆をおりる(以降、「マッチ」は伊藤悟の単独編集で九三年七月刊の60号まで続き、現在休刊中)。八月、ジョナス・メカスさんを日本に迎え、山形、東京(帯広へは不参加)でイベント。緊張のあまり、メカスさんとはほとんど話せず。
一九九二年 五月、「飾粽」解散。九月、同人誌「壘」(岩崎迪子、江代充、小林泰子、材木谷敦、阿部和幸、三枝泰之)スタート。一〇月、『最新和英口語辞典』(マーク・ジュエル、羽鳥博愛=編)編集刊行、サラリーマン編集者としての疲労のピーク。一一月、難行していた鈴木志郎康評論集『メディア・マイノリティ』のれんが書房新社よりの刊行を断念、阿部和幸の助けで、版元を三省堂に移し、再編集作業(その後、阿部のダウンにより、中絶状態)。
一九九三年 三月、伊藤悟『これだけ英文法』編集刊行、実用書編集に開眼する。
一九九四年 四月、翻訳『ビッグ・サー』(ジャック・ケルアック著、新宿書房、巻末のケルアックの長編詩の訳と解説は中上哲夫さんにお願いする)刊行。一〇月二五日、長男、真木生まれる。
一九九五年 三月、「壘」11号をもって岩崎迪子が同人を降りる。また、阿部和幸が前年暮れより音信不通状態となり、11号より版下制作を阿部との共通の知人である酒井多恵子さんに手伝ってもらうことに。健康診断で胸に影が見つかり、四月、肺結核と診断が出、自覚症状のないまま、投薬に入る。七月中旬より八月一杯、自宅静養。大学を出て以来初めてのまとまった休み。一一月、男性同性愛者でありHIV感染者であることをオープンにして活動する大石敏寛さんの『せかんど・かみんぐあうと』を編集刊行、聞き書き原稿のまとめは伊藤悟のパートナーである簗瀬竜太くん。伊藤、簗瀬の二人との編集過程でのやりとりは、マイノリティに対する私の言葉だけの理解を大いにゆさぶるものとなり、本を作ることの「お仕事性」と「活動としての意味合い」の亀裂を痛感。
一九九六年 二月、人間関係や仕事のことなどで落ち込みがちななか、音信不通のままの阿部和幸の心身両面の不調を伝え聞いて鬱病寸前、読書などの意欲もわかず。向き合って生きてきた対象の不在がこたえる。三月末、「メカス日本日記の会」の招きでメカスさん来日。東京でのイベントのみ参加(その後、メカスさんは沖縄、名古屋、高知でイベント)。四月、結核ほぼ完治の診断、以降、秋まで再発予防のための投薬。五月、落ち込みからの脱出のため、パソコン(マッキントッシュ)を買い、各種通信や自主製作電子出版のお勉強。七月、詩集『白日』(書肆山田)刊行。一一月、ホームページ「F451」開設。
一九九七年 年明けから五月始めまで、CD-ROM版の辞典の制作できりきり舞いする。データの紙での校正と検証盤のチェックで一時は電話番号も間違えずに言ったり書いたりできなくなった。東京大空襲で亡くなった天才画家柳瀬正夢さんの作品、カリブ海出身の作家ジャメイカ・キンケイドさんの作品、そして哲学者鶴見俊輔さんの著作の素晴しさに目覚めて熱中する。ホームページを作ったのがきっかけで、好きな詩人たちとお酒を飲むようになったのも大切な心の慰め。
一九九八年 年末年始から、若くして難病で亡くなった作家フラナリー・オコナーさんと、先駆的な作家であり人類学者だったゾラ・ニール・ハーストンさんに熱中。九月、詩集『すみれ通信』をhtml版で公開。
一九九九年 友人の歴史学者に挑発されて、歴史の本など、読書領域を拡げていく。すごいなあと思ったのは大山誠一さんの『<聖徳太子>の誕生』(吉川弘文館)、聖徳太子の偉業はただの神話だったという歴史の大嘘を知ったついでにあれこれ読んだ勢いで、根井雅弘さんの経済学史や、イマニュエル・ウォーラーステインさんの社会科学の枠組を越えた提言などにしびれる(結局は身につかないまま読むのに息切れしてしまったが)。八月末から年末にかけて、なぜかまた猛然と詩を書き始める。
二〇〇〇年 一月、詩集『BOY−−誕生歌』を書物としてまとめる気運もなくhtml版で公開。二月、腹部のヘルニアの手術、入院で半月仕事を休む。七月、妻、心臓の炎症でひと月入院、ちょうど夏休みに入ったばかりだったこともあって、子どもたちを彼女の実家に預けて何とかしのぐ。その頃から年末にかけて、だんだん日本語の本を読むのが嫌になってきて、英語の本を読むことが増えてくる。レイモンド・カーヴァーさんやロバート・コーミアさんの小説など。
二〇〇一年 二月、九九年になくなった伊藤聚さんの『伊藤聚詩集成』のボランティア校正(四月、書肆山田刊)が一段落した翌日、気のゆるみからか、不注意で足骨折、生まれて初めて松葉杖。サルマン・ラシュディさんの小説『彼女の足元の大地』やエドワード・W・サイードさんの長編評論『オリエンタリズム』ほか、エドウィージ・ダンティカさんら、国境を越えて活動する人々の作品を読む。新刊辞書の編集と、辞書のCD-ROM化の作業に追われ、1年間、一冊も出さずに終わった。
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