99.9
99年9月
◯79/9の手帳から サラリーマン1年生のパッとしない夏の終わり。それでも芝居は3本見ているし(別役実さん作「マザーマザーマザー」、岡部耕大さん作「松浦今昔物語」、野田秀樹さん作「少年狩り」)、やたら東京に帰って来たがる友人がいて何度も飲んでいる。
◯89/9の手帳から サラリーマン復帰2年生のパッとしない夏の終わり。それ以前の貧乏生活ゆえの服などの貧しさに気がついて、あれこれ買い物をしている。と言っても、靴やシャツ、ジーンズ以外の綿パン2、3本程度。つかこうへいさんの芝居を何年ぶりかで見る、友人にふられた女性と(「幕末純情伝」)。
「すみれノート(その6)」(99/9/1)
9月になりました。昨日まで夏休みでラジオ体操や学校のプールに通っていた子供たちも、小学校や幼稚園の始まりです。私の方はきびしい夏でした。出版社にかぎらないのかもしれませんが、秋に新刊や新製品の大型企画を出したがる、そのために夏は仕込みというわけで、現場はほとんど息もつけない状態になりがちです。今年も音声CDやCD-ROM付きの書籍の多点同時進行を少人数低予算でこなすということで、毎朝、今日はどんな順番で作業をこなすか迷うという日々が考えてみれば春先から続いて、しっかりサラリーマンしてしまっています。
雑談はこれくらいにして、ひつじ書房の松本功さんが『ルネッサンスパブリッシャー宣言』という本を今年の5月に同社から出されたのを読んで、日頃本の感想文を載せてもらっている、松本さん主宰の「書評ホームページ」に感想を書こうと思ったのですが、何か気持ちがフィットしないまま、なぜだろうとずっと引っかかっていました。この本では、言語学を中心にした小出版社を運営する松本さんの経験からいろいろな問題提起がなされています。たとえば、学者たちの論文集を出した場合の彼らの著作権・編集権に対する感覚の鈍さ(編集者の原稿整理ほかの努力を権利が存在する仕事として認めていないとか、完成本のデータをまだ在庫があるのに無料配布しようとしたりするとか)、本の流通やインターネット上の取引の方法論の提示(方法の決定を大企業や役所の談合に任せて追随するのではなく、すぐれたページには「投げ銭」という形で、路上の音楽家相手にするように簡単に寄付できるようにするといった方法を、小さな現場から提示していこう)、利用者のリクエストのままにベストセラー本を同じ管轄区で何百冊も買ってしまうような公立図書館の現状に対して、多様な本が生き残っていけるように、本のコピーの問題も含めて働きかけていこうとか。
この本に対して素直に感想が出てこなかったのは、自分があまりにサラリーマン化しているからではないかと、先日ふと気がつきました。出版が不景気だ、仕事が大変だとかは言っても、やはり組織の中でのこと、自分の考えと責任で日々動いている人からみれば、やはりシステムにのって過ごせてしまう部分も少なくないし、組織の中で仕事に対する責任感の違いや金さえもらえれば後は適当にという考え方にぶつかって悩むことはあっても、それでもなお恵まれているのです。その辺が、自分が大変だという思いから離れないと、麻痺して分からなくなってしまうようです。まだまだ修行が足りません。
松本さんは、本を出すだけでなく、先に紹介したような主張に基づいていろいろとセミナーを開いたりもしています(それについては前出「書評ホームページ」参照のこと)。いつもバテ気味なので行ったことはないのですが、戦後の問題とか読書を進めているうちに、ここまでやるのが「民主主義」なんだなと思えるようになりました。この場合、大組織の都合や彼らが人の言うことも聞かずに決めてしまうルールに付いていくのではなく、どんどん問題提起をしていく、今時の冷めた、麻痺した感覚からすれば、暑苦しくなるような、この粘りこそが、実は社会に働きかけて社会を変えていく権利が個人にあるし、その努力がなされなければ形骸化するだけだという、「民主主義」の基本なのです。
松本さんの本についてはすでにいくつかの書評も出ているようです。私も同業者の一人としてちょろっと生意気な口をきいてしまいそうですが、そのちょろっと言うくらいのことは、実は誰にでもできることで、現在のジャーナリズムってこの誰にでも何のリスクもなく言えるようなことであふれていて、そこから抜け出せなくなっているんじゃないかなあ、などといったことを次回に書いてみたいと思います。
「すみれノート(その7)」(99/9/3)
少し涼しくなってきました。こちらは相変わらず仕事に追われて、気の抜けない日々が続いていますが、この夏からの一番つらい時は通りすぎたようです。後は緊張が緩んで風邪を引いたりしないように気をつけたいというところでしょうか。
前回、本の感想など、誰にでも言えそうなことを偉そうにちょろっと書いてしまうことの怖さに触れたのですが、そのことを強く感じることになったきっかけを書いておきます。2年前に加藤典洋さんの『敗戦後論』(講談社)が出ました。この本は私なりに要約すれば「敗戦後日本のねじれ、分裂を問題とし、憲法を主体的に再選択すること、天皇の戦争責任を何らかの形で明示すること、そして戦争による自国の死者を靖国神社や護国神社の「英霊」といった国家主義的なものではなく、国民による意志としてそれぞれの名前を持った存在として弔った上で、日本の侵略で亡くなった海外の死者を弔う主体を持つべきだという主張」を展開した本で、私もひつじ書房の「書評ホームページ」に「「覚悟の書」だとほめっ放しの評価も出たし、ただの品のない悪口にすぎない批評も出たが、研究会のようなものを開いて、議論が継続的に行われることを望む」という感想を書きました。
でも、私が情報不足なだけなのか、その後、そうした議論の場が設けられたという話も聞きません。書評もいろいろと出ましたが、本の主張について議論を深める形でのものは見たところほとんどなく、丸山真男さんの言葉を借りれば「思考方法、思考の手続の批判だけしていて、実体的な原理や実質的な価値選択を提示しない、いかに行動すべきかという処方箋がない、という種類のステレオタイプ批判の横行!」(『自己内対話』みすず書房)という感じでした。私が見た範囲では結局、雑誌などからこの本について書くというお座敷がかかった書き手たちが答案の採点でもするかのような文章を書き、文章がたまったら本にまとめて出すといった動きが延々とあるだけで(ひどいものに至っては、最初から本の紹介もしないで、この著者は「思想の科学」一派の頭の悪い人間だからどうしようもないなどといった、予断で終始した文もありました)、しかも加藤さん本人も、先の本のダイジェスト版やら反論に対する再反論をまとめた本など、延々と文を書き本を出しているだけなのです(少なくとも私のいる場所からはそうとしか見えません)。結局、この本をきっかけに何人かの書き手にそれについて書く仕事が生まれ、出版社の書籍の企画が何冊か実現し、加藤さんにも物を書くチャンスが広がったという以上のことは現実に何も起こっていないように見えます。
そして、そうした文筆業界、出版業界の動きをよそに(あれはあの世界で勝手に言っているだけのことだから、と言うかのように)、現実の世界では、国歌・国旗法案が可決するなど、なし崩し的な動きが進行し、そうした動きについて、『敗戦後論』の著者およびそれについて批評した人々からは何のアクションもありません(少なくとも私のいる場所からはそうとしか見えません)。本を書くには事態の進行が急すぎたせいでしょうか、それとも誰かがまとまった本を書いてから、それに難癖をつければいいだけだと皆さん、のんびり業界のお座敷がかかるのを待っているだけなのでしょうか?
メディアがあってそこで表現することがジャーナリズムのシステムとして完成していく、それは広告などに支えられて存在する空間のなかでそれぞれの出版社・新聞社・テレビ局やそこに登場する人々が場所取りしながら、その場所を言葉や映像で埋めているだけになることなんだなと思います。少なくともそれくらい疑ってかからないと、口あたりのいい企画や偉そうな書き手にのせられて何か分かったような気にさせられて、結局流されてしまうだけなんだなと思うのです。
「すみれノート(その8)」(99/9/4)
前回、最後の方で、ジャーナリズムのシステムとしての完成なんて偉そうなことを書いてしまったので、少しメモ風に補足しておきたいと思います。最近、政治思想史学者の藤田省三さんの『戦後精神の経験 I』(影書房。ほかにみすず書房から著作集版も)という本を読みました。この本は藤田さんの小論を編年式に集めて選択編集した2冊本の第1巻で、1954年から75年までに書かれたものを収録した本です。藤田さんが久野収さん、鶴見俊輔さんと行った連続シンポジウム『戦後日本の思想』(現在は岩波同時代ライブラリー)を読んで以来、藤田さんの本を読んでみたいと思っていたのですが、『転向の思想史的研究』(現在はみすず書房の同氏著作集)などの主要著作は本屋でぱらぱら見ても、ちょっと頭がくらくらする難しさが感じられ(イメージだけかもしれませんが)、これは無理かなとあきらめていたときに、偶然本屋で見つけたのです。
読み始めてすぐ、いい本を見つけたなと思いました。60年前後の文章は書評にせよ、学生たちに呼びかけた文章にせよ、鋭い指摘や、知性を持って立ち上がる人々へのメッセージや行動指針の提示など、時代と関わる思考の働きがひしひしと伝わってくるのです。
しかし、読み進んで、60年代半ばくらいの文章になると、次第に文章が欝っぽくなっていきます。中途半端な専門家の横行、高度成長に伴って水ぶくれしていく出版界が繰り出す広告的な知への苦言などが増え、確かに正論ではあっても、読む側も息苦しくなっていくのです。
藤田さんの主要著作を読んでいないので、藤田さんの問題としてあれこれ言うのは避けますが、私はここに状況の変化に対して自分を開いていかなかった、あるいは開く必要を感じなかった知識人というものを感じとりました。同じ時代の流れのなかで、戦線がなくなったとして作品を発表しなくなった詩人もいましたし、思考の厳密さよりも自分がどう行動すべきかのプラグマティックな判断に立って今にいたるまで行動しつづけている哲学者もいます。また、エッセイなどの仕事は可能なかぎり断わって研究に専心した政治学者もいました。藤田さんには、この本だけを読んだ感想としてですが、思考の厳密さにこだわりながら、自分の知識人である以前の日常性に向かって自分を開けなかった、思考のある種の膠着を感じます。その背景にはもちろん学生運動などの分裂につぐ分裂と衰退、ジャーナリズムの高度成長による「個」の発言が持つ意味の希薄化、さらには徹底した広告商品化といった事情があげられるでしょう。
でも、だからこそと言うか、民主主義とは何かとか、何をどう議論するのか、といった原則的な思考の位置に何度も立ち返りながら、この現実に向かっていかなくてはいけないのでは、と思ってしまうのです。
(付記)このシリーズはあと2、3回は続きますが、いろいろ調べたいこともあるので、若干間があきます。
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