99.4
99年4月
◯79/4の手帳から 出版社に新卒で就職。春闘期間と新学期の繁忙期ということもあって、書店研修(書店から見れば無料バイト)に3週間行かされている。
◯89/4の手帳から めまぐるしく仕事する一方で、ジョナス・メカスさんの映画「ウォールデン」やニール・ヤングさんのコンサートに感涙。
「ノーマ・フィールド『お祖母ちゃまの枕もとから』を読む−−素晴らしい「日本」小説(その9)」(99/4/1)
日本でも評論『天皇の逝く国で』("In the Realm of a Dying Emperor: A Portrait of Japan at Century's End" 原著1991年刊・大島かおり訳・みすず書房)で知られる、ノーマ・フィールドさんのエッセー集『お祖母ちゃまの枕もとから』("From My Grandmother's Bedside: Sketches of Postwar Tokyo" 1997年刊・カリフォルニア大学出版局)を読んだ。天皇の戦争責任を明言して襲撃された本島長崎市長(当時)や沖縄国体で「日の丸」を焼いた知花昌一さんらへの取材を中心にしてまとめた前著に対して、この本は副題にもあるように1、2ページのスケッチ的な文章を積み重ねたエッセー集ということになる。「小説」ではないけれど紹介しておきたい。
まず冒頭に石垣りんさんの詩「杖突峠」のノーマさんによる英訳が掲げられる。この詩は石垣さんが親類の家を訪ねた時に、寝たきりの老女の排泄を目にしたことから、命や自然を考えるという設定の詩だ。この詩に惹かれたノーマさんも祖母が卒中で寝たきりで言葉も話さないという状態で、老いた母親と介護する身となっている。ここで説明しておくとノーマさんは戦後ほどなく日本人の母親と合州国兵の父親(のちに離婚)の間に東京で生まれ、アメリカン・スクールで学んだ後、合州国に渡り、現在はシカゴ大学教授として日本文学、日本近代文化を研究している。夏休みには日付変更線を越えて里帰りするのが長年の習慣のようだ。
この戦後50年目の1995年の夏の体験や考察をもとにした、断章的な文章の内容は多岐に渡っている。寝たきりの祖母をめぐる具体的な介護の問題、何年も介護を続けて自分自身すでに70歳を越えようとしている母親が何とかやっていけるのは、往診を厭わない医師やヘルパーの人々がいるからだが、公共的な援助はほとんどない。作者によって思い出される元気だった頃の祖母の姿(巻末には息を飲ませるような、若き日の祖母の美しい写真が載せられている)。たとえば母が結核で倒れていた時や離婚のショックで外に出たがらなかった時期など、昼も夜も近所に買い物に走っては手早く食事を作ってくれた姿、家業のブロマイド会社を支えた写真整理などの仕事ぶり。母親の妹たちや大叔父らとの人間模様。そして作者が思い出したり、ふと目にした日常の光景。下駄の音、布団の綿の打ち直し、成長期の安アパートの乱立、知り合いから聞いた集団就職のエピソード。急激な繁栄によって変わっていく町並みの中でバスから見えた遅くまで裸電球の明かりで営業する八百屋さんの光景など、さりげない話の積み重ねの中に政治的なメッセージが織り込まれていく。
フランスの核実験に反対しない日本人とは何か? スーチー女史の問題などをニュース番組のネタとして消費的に受け止めて終わりという状況(アジアの問題は他人事?)、慰安婦問題などなど、「政治に対する真剣さ」が生まれないことへの苛立ちは、最後の方で天皇に戦争責任はあったのかとインタビューで問われて、言下に否定した、当時の村山首相にぶつけられる。社会党の政治家として口ごもりも、自分としては戦争責任があると思うのだがというためらいのそぶりも見せなかったのはなぜか? 暑苦しくない防弾チョッキや彼のトレードマークである眉毛に似合う防弾ヘルメットがないからか? 天皇の責任追及をタブーとしつづける環境で「責任」という感覚が機能するのだろうか? こうした環境と「いじめ」などの教育問題との関連がもっと問われないのはなぜか? 人々が立ち上がるのに沖縄の女生徒のレイプ事件や大地震といった犠牲が必要なのはなぜか? 人々の無関心(これをノーマさんは「意味や経験への飢えからの疎外」と呼びたいとしているが)の底にあるエネルギーを文部省の指導(ボランティア活動の単位認定といった動き)になどゆだねずに掘り起こす道とは何か?
そうした問いもまた断章として浮かんでは消えていく。日本と合州国の双方に立って考えつづけるノーマさんの、これは身辺雑記的なスタイルをとった思想書と言えるのだろう。いかにも日本論でございますといったスタイルで書けば、「ああ、そういう本ね」ということで済まされてしまうかもしれない題材を、自分のポジションを手放さずに書きぬいた希有な本だ。土門拳さんの写真に惹かれながら、仏像撮影など日本回帰していった彼に、自分は彼の作品を見る者として想定されていなかったのではないかという疎外感を感じた彼女が、「愛でる」「居心地」「昼下がり」「雨脚」といった翻訳しきれない日本語の体感を思い出すことによって、自分にとっての日本との和解をとげていくという流れにも気持ちをうたれた。その滞在から1年後、「お祖母ちゃま」は入院し、「私」は海の向こうから家を一人で守る母親に葉書を書きつづけている。これは三代にわたる女たちの物語でもある。
「李良枝「由煕」を読む−−素晴らしい「日本」小説(その10)」(99/4/4)
李良枝さん(イ ヤンジ 1955−92)の「由煕」(雑誌初出1988年。現在は単行本『由煕』、『李良枝全集』、講談社文芸文庫『由煕 ナビ・タリョン』で読める。いずれも講談社)を5年ぶりに読んだ。日本から韓国に留学して来た在日朝鮮人の大学生「由煕(ユヒ)」、肌になじまない下宿を転々としてきた彼女を迎え入れたのは、夫を亡くし一人娘も結婚して合州国に渡ってしまったという境遇の「私」の叔母だった。語り手の「私」は叔母の家に同居する、婚期を逃してしまいそうだということもあってか、気持ちのふさぎがちなOLだ。
おそらく在日朝鮮人として韓国に留学した作者の体験や見聞をもとにしたのだろうと思われるが、韓国人の「私」の視点で書かれていることが、この日本語で書かれた中編小説を深いものにしている。在日同胞にだまされて事業に失敗して以来、韓国人を悪しざまに言い続けていた父が死んだあと、母国留学の道を選んだ由煕は母国修学生のための予備学校に1年通ったあと、彼らのための特別な試験を受けて、超名門のS大学に入学して今は3年生、韓国の人々の激しい気性や風土になじめず、勉強も試験のための丸暗記で、普段は下宿に閉じこもって日本語の本ばかり読んでいるという状態だ。「学校でも、町でも、みんなが話している韓国語が、私には催涙弾と同じように聞こえてならない。からくて、苦くて、昂ぶっていて、聞いているだけで息苦しい」。下宿では無邪気な素顔を見せる由煕を、「私」や叔母は支えはげまそうとするのだが、理想に燃えて母国にやって来た由煕を立ち直らせることはできなかった。夜、自室で一人焼酎を飲んで酔い、心配で声をかけた「私」に泣きながらノートに韓国語で「私は 偽善者です/私は 嘘つきです」と書いて見せた由煕は、結局大学を中退して日本へ帰ってしまう。
在日朝鮮人(李さんは生後、両親が日本に帰化したため、国籍は日本ということのようだが)という、日系米国人とか在外邦人とか、日本での「不法」就労外国人といったくくりとはまったく別種の歴史を生きた作者が、その「在日」という引き裂かれた存在のリアリティを視点を韓国人の「私」においてまとめたことによって、この無駄のない、きびきびとした作品を、日本語で書かれたすぐれた「世界」文学に押し上げたと言える(祖国という問題。女たちの家族的な愛情)。李さんの作品はたとえ日本で読まれなくなっても、「世界」で読まれつづけるはずだ。
今、「日本語で書かれた」とさっと書いてしまったが、今回年譜を見直して気がついたのだが、李さんの書籍としての作品集は80年代半ば以降はほぼ日韓同時で刊行されている(作品によっては韓国の方が先)。李さん自身が直接韓国語で原稿を書いて発表するのは90年になってからだが、80年代半ば以降は早すぎた死の直前を除き、ほぼソウルで学び、執筆もしていた。「由煕」が芥川賞を取ったことなどもあって、日本では彼女の文学を日本文学としてとらえることを疑問としていないようだが、本人にとっては(これだけ繊細な言葉遣いは母語である日本語でしかできなかったとしても)、日本の読者が考えるよりは「日本語の文学」という意識は希薄だったのではと思える。小説の最後に出てくる、由煕が毎朝、自分が日本語の「あ」音を口にして起きるか韓国語の「ア」音(原文はハングル文字)で起きるか不安だと話すというエピソードからもわかるように、引き裂かれるということはそんなに単純にまとめられることではないと承知した上で書き添えておく。
(付記)これでこのシリーズはひとまず終わりです。時をおいて補足的な文を1、2書くことになるかもしれませんが、今のところ未定です。
「とりあえず新学期」(99/4/16)
朝、起きてからとりあえずパジャマのままで勉強机の前でぼうっと煙草を吸ったり新聞を眺めたりしていると、本当に目がさめたと言えるような、ふうっと身体と意識に光が差し込んでくる瞬間がある。この瞬間が訪れると何とか今日1日もやっていけるなと、不思議に落ち着いた気持ちになる。
4月も半分終わってしまった。3、4月は子どもを持つ身にとってはけっこう忙しい。今年の春休みのイベントは、薫(長女、今度小学3年生)は私とドラえもんの映画、お母さんについてもらって音楽教室の発表会、真木(長男、今度ご入園)は私と秋葉原の交通博物館、その他、彼女の子連れ里帰り、私の実家との老親の誕生祝いや孫たちの進級祝いなどを兼ねた会食など、例によって盛りだくさんだったけれど、今年はそれに加えて、春休みが終わってからも週末や休日に、送別会や結婚式、さらには以前ふれた長年勤めた出版社を退社する友人の慰労会などなどが重なり(このスケジュール、まだ全部こなせてません)、こんな疲れのたまった身体で、毎日集中を要する細かくて仕掛けの多い仕事をよくこなせているよと自分でも思うけれど(何と言ってももう43ですから、補給が必要なのです--笑)、朝の光がくれる落ち着きがなくならないかぎり何とかやっていけるだろう。
今週の月曜に幼稚園に入った真木はお姉ちゃんを見て育ったせいか、幼稚園とか学校というものに対するイメージトレーニングもできていたのか、けっこう理屈っぽいところもあるので自分なりに面白いところに行くんだと気持ちを整理していたようだったりで(笑)、すんなりとマイペースで入っていけたようだ。これからお姉ちゃん(クラス替えと担任の交代もスムーズにすんだようだ)の時と同じように、2年間毎朝私が送っていくことになるけれど、入園式にしても登園にしても母親を離れられずに泣いている子などを見ると、まあうちは何とかなりそうかなと胸をなでおろしている(子どもによってはゴールデンウィーク明けや夏休み明けに登園するのが嫌になってしまう子もいるというから安心は禁物だが)。
ふだんはあまり気にならないけれど、幼稚園の年少さんというのは本当にまだまだ小さい。会食の座敷で座るとテーブルの上に顔がのぞきますというくらいの大きさで、ボタン掛けも靴を履いたり脱いだりするのもゆっくりだ。そんな真木の手を引いて幼稚園に通う。園長先生や教頭先生の顔が見えてくると、まだ遠いのに真木が大きな声で「こんにちわー」と言う。私が「おはようございますじゃないの?」と言うと、今度は「おはようございまーす」と大きな声で言う。あいさつが急に上手になったのは、少しお兄ちゃんになったという誇らしさもあるのかな。
「妻からのプレゼント」(99/4/27)
下の子供が幼稚園に行き始めて、奥さんも少なくとも午前中は少し自分の時間がとれるようになった。連休が明ければ幼稚園はお弁当が始まるので、さらにグッド(笑)。というわけで、久しぶりに翻訳の仕事でもぼちぼち受けたり、自分の原稿を書いていこうかということになり、とりあえず受けた翻訳の仕事のためについ数日前からマックの修行をしている(うちのワープロは古すぎてDOS変換ができないので、この際覚えてしまったら、ということで)。昨日、帰ってマックを付けたら、デスクトップにこんな彼女からのプレゼントのファイルがあった。ゴールデン・ウィーク企画というわけでもありませんが、彼女(詩人・小林泰子さん)のプレゼントをおすそ分けします。以下原文ママ--
洋さんに、この詩をプレゼントします。
Watercolours
絵の具箱の蓋をあける
チャイニーズホワイト
アイヴォリイブラック
イエローオーカー
バーントアンバー
バーントシエンナ
ビリジアンチント
クロームグリーンライト
ニューブルー
プルシャンブルー
クリムソンレーキ
クロームヴァーミリオン
クロームイエロー
色の名前はみな美しい
英語でも和語でも
自然から集めてきた色の粉を
長年かけてねりあげてきた光の蜜
その瓶にはられるラベルの文字が誘うやわらかなめまい
真新しい絵の具のチューブを手にとる
丸々と太った中に色の泉をたたえて
これはあのとき地平にたゆたった夕暮れの色
これはあのときの涙にはれた瞼の色
とうにしおれてしまった花束の
会話を暗く染めた真夜中の色
スケッチブックを開くと
この世の何よりも白い雪の大地
どんな色をつけよう
どんな線を
どんなにじみを
パレットで色を混ぜ
どんなわたしの色をつくれるだろう
色を置く前のためらいが
永遠のようにつづく
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