99.12
99年12月
◯79/12の手帳から 片桐ユズルさんの詩や評論『意味論入門』、小林信彦さんのオヨヨ物などを遅ればせながら読んでいた。忘年会なんて面白くもない、と思いつつまだ社会人1年生。
◯89/12の手帳から 好きな女性と侯孝賢(ホウ・シャオシェン)さんの映画「恋恋風塵」や北村想さんの芝居を見たり、渋谷で遅いクリスマスの食事をしたり、毎日のように長電話したり。手も握らずにときめいていた(と言うほど若くもありませんでしたが)あの日に帰りたい(笑)。
「答えらしい答えなんてないけれど−−すみれノート(その15)」(99/12/2)
数ヶ月間、ああでもないこうでもないと書き続けてしまいました。結局答えなんて出せるわけもないのですが、前回の補足も含めて、今考えていることを少し書いておきます。多木浩二さんの本にも登場する合州国の評論家・作家であるスーザン・ソンタグさんが、この夏に朝日新聞紙上で大江健三郎さんと交した往復書簡の一回分(7/15夕刊・木幡和枝さん訳)が気になって切り抜いていたのです。
この書簡のなかでソンタグさんは、おそらくヴォランティア活動に従事している若者たちに出会っての感動と期待を記した大江さんに対して、「「新しい人」の出現をめぐる数々の予言(中略)はみな、「新」は「旧」の改良だという前提に立っています。敬意をこめて伺います、そんなに確信してかまわないのでしょうか。」と書きます。そして長い引用になりますが「私は、あなたが次のような示唆をしていると受け取ったのです。残された唯一の希望は、何人かの人々(たぶん、若い人々)が小さな共同体やコミューン−−それも、想像ですが、遠い地方の−−に引きこもる、そこではインターネットを通じて国境外の世界と交信できる、という筋書きにしかない、と。しかしこれまでにも、自分たちこそ正しいと反論の動機を主張し、社会全体の不純で堕落した価値観を拒絶して精神的な使命に殉じるように追随者に呼びかけ、自ら孤立してゆく集団を、反面教師として十分に見てきたと思うのです。(中略)そうした企図に対しては、大きな懐疑をもって見てゆくべきではないでしょうか。」と展開しています。内戦中のサラエヴォに行って現地の俳優たちと「ゴドーを待ちながら」を上演したりするなど、活動的な知識人であるソンタグさんの遠回しの批判を感じることもできます。「知らないことの価値の主張についても、若者に特別の美点を見いだすことについても、私は等しく疑いを抱いています。今の堕落した文化のあらゆるものは、現実を単純化するよう、英知を嫌悪するよう、私たちを手招きしています。私は作家に、その一人として自分自身にも、物事についての複雑な見方を明晰に言葉で述べることを期待しています。もっと大きな共感をもつよう、鎮魂の姿勢を整えるよう、そして、エクスタシーをたたえるよう、駆り立ててくれることを。」
ソンタグさんは批評や小説が各国に翻訳されるほどのタレント的な大インテリで、その発言もたとえば「朝日新聞」といった大メディア(さらに言えば、大メディアが仕切る世界イメージ)を相手に緊張感をもってなされるレベルのもので、この書簡も総論的には「作家」という「真剣さの共同体」の一員としての社会への「関与」の仕方という大きな問題をめぐるものになっています。その論旨の明晰さにウーンとうなりながらも、いろいろ考えさせられてしまいました。少し前にも書いたことですが、日本語の世界で表現とか批評とかを考えているうちに、日本語で書き、考えるということが日本語の性能を磨くことに回帰していく、その動きが今、顕著になっているのではないか、日本語の外にさらされずに(あるいはさらされたふりをして、結局は日本語の内部に取り込めるものだけを咀嚼しながら)、硬直した知識人的な考察も詩的で繊細な「ニューアカ」以降の文体も、合州国を中心とする「グローバル化」の傘の下で、メディアが企業として動いているかぎりの日本語褒めないしはそれぞれの広告資本主義を展開しているうちに、ソンタグさん(彼女を賞賛するつもりはまったくないですが)の言葉のように直球を投げることを忘れて、変化球を投げつつそれぞれの延命をはかるってなことになってきてしまっているんじゃないか。そうした場所では、彼女が問題にしているような若者の現状も(前回触れた多木さんのスタンスは、日本の若者はこれだからという「真面目な」知識人的発言のひとつの典型でしたが)、批判の対象というよりは、そうしたみっともない大人たちの現状への批判とも言えると思うのです。格好いい知的な言葉を繰り出して、お互いにほめあったりけなしあったりして、その言葉によって現実が1ミリも動かなくても、商売として成り立つかぎり延々と続くというのであれば、その仲間入りをしたいとでも思わないかぎり、それはまったく格好という性能本位の資本主義的表現ごっこにすぎないのではないでしょうか。日本文学の言文一致運動も「国語」という考え方を現実に駆使してほしいというお上の要請とパラレルだったという見方もあります。今、表現する人々は、とにかく今をやりすごす言葉を市場に流してくれという要請に答えているのかもしれません。
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