99.10
99年10月
◯79/10の手帳から 友人の結婚式というものに初めて出席。自分は結婚できるのかなあ、と感じていたかどうかまでは思い出せない。
◯89/10の手帳から 友部正人さんのコンサートをほぼ10年ぶりで観て感動。年明けに同棲することになる女性と初めて2人だけでデート、ヴェンダース監督の映画「まわり道」。
「すみれノート(その9)」(99/10/5)
間が開いてしまいました。この間いろいろああでもないこうでもないと考えていたのですが、ふと詩を読み始めた頃のことを思い出して、今でもとってある「現代詩手帖」の1974年の年鑑を取り出してみたりしました(当時の私、19歳)。年間の詩をめぐる座談会や詩のアンソロジーも充実していて、詩や詩についての文章のスタイルに慣れるまでノートに書き写したりしながら何度も読んだものです。
そもそもなぜ詩を読み出したのかはくっきりとは思い出せませんが、60年代末から70年代の半ばくらいまでの時期は、表現のジャンル分けという意識が今ほど確立していなかったことは確かだと思います。たとえば、シンガーソングライターの走り的存在だった小室等さんは早くから谷川俊太郎さんや大岡信さん、吉増剛造さんらの詩を歌にしていたり、別役実さんの劇中歌を作曲して独立した歌としても歌ったりしていました。黒田三郎さんや吉野弘さんの詩なども曲をつけて歌われていました。寺山修司さんが作詞した歌がヒットしたり彼の劇団の天井桟敷が社会現象として取り上げられるなど、詩、芝居、映画、歌などが今ほど棲み分けせずに渾然として生み出され、受け取る側の私としても、新しい表現として気分としては同一の地平線上にあるものとして受け止めていました(そのなかでも詩は手ごわいものであったし、出会うまでに少し時間がかかったということはあると思いますが)。
表現の渾然とした誕生とその受け止め。その背景には戦後の高度成長とともに、大きな企業や組織の手を借りずに自分たちの表現を打ち出す、そしてそれを受け止める余裕が生まれてきていたということがあると思います(たとえばアルバイトの求人の充実がなければ60年代の小劇場運動は成り立たなかったと言われています)。そしてそうした余裕に支えられて、国家、学校、企業といった大きな枠組に反抗したり、そこから逸脱して個を前面に押し出す表現が、それまで存在していなかった角度で個に光を当てる強烈な快感とともに急速に成長していったのだと思います。
ここでは詩の内容的な面ではなく、言葉の機能的な面にふれてみたいと思うのですが、今から振り返ると、当時の詩が持っていた「期待」とは別に、現代詩の歴史は日本語の性能を磨く歴史でもあったと言えると思います。目と頭が慣れるまで何度も繰り返して読まなければならなかった文体、たとえば田村隆一さんや吉増剛造さんの詩など、四半世紀前の、それまで散文ばかり読んでいた私にとっては、言葉の運動についていくだけで大変だったのですが、今ではそうした作品の表層的なスタイルはかなりの部分まで広告文化に取り込まれてしまい、感覚的に受け止める分には若い人々にとってもそう難解なものではなくなっていると言えると思います。
日本語の性能などというと、奇異に受け止められるかもしれませんが、明治以降の日本語の歴史は、その機能性のアップを目指して改変を繰り返してきた歴史でもあったのです。言語学に通じた歴史学者である長志珠絵(おさ・しずえ)さんの『近代日本と国語ナショナリズム』(吉川弘文館)という本を読みました。その錯綜した内容を全体として把握しきれないまま、そこから明治以降の日本語の問題を抽出すると、標準語と方言の差別化(標準語という発想の確立とその作成。中国語や朝鮮語、あるいはアイヌや琉球の言語との言語学的関係性をめぐる論争)、表記の問題(漢文や漢字の廃止論。仮名交じりか、ローマ字かの論争。旧仮名の確立までの仮名表記の統一方針の作成。初等教育はいろはでか五十音でかの論争。五十音図の作成・確立もまた国学以来の論争があった)、植民地における日本語教育の方法の問題、そして他ならぬ「国語」(「日本語」ではなく)という考え方の成立などなど、多くの問題が、西洋からもたらされる言語学の知識などに振り回されながら、国力の増強や、教育や研究の西洋に負けない能率化、漢語という中国文化から自立した文化観の確立などをその時々の議論の目的として幾重にもねじれながら、現代日本語への道を辿っているのです。
そうした問題の存在の上に現在を振り返ってみると、日本語の性能の開発と、その消費文化による吸収という見方はあながち見当はずれでもないなと思えてきます。言葉が、表現が生まれてくる快感、それを求めてほとんど無償の詩を書き続けてきた詩人たちをはじめとする表現者たちの思いとは別に、支配のための日本語のスタイルの豊富なバリエーションが高度成長などの社会の加速化と並行して生み出されてきた、そのことがもたらしたものをどうとらえるかなど、寄り道しながら考えてみたいと思うのです。
「すみれノート(その10)」(99/10/16)
前回、ちょっとふれた「現代詩手帖」の1974年の年鑑をぱらぱら見ています。その中でもその年を振り返っての座談会(出席者・岡田隆彦さん、清水哲男さん、鈴木志郎康さん、高橋睦郎さん、吉増剛造さん)は、当時は夢中で読んでいただけだったのでそんなことは思わなかったのですが、じつにきびしい言葉が飛びかっています。たとえば−−
高橋(以下敬称略、渋沢孝輔さん『われアルカディアにもあり』について):この人にとって観念は一種の鎧にすぎなくって、本音は「ケッ」とか「チェッ」とかいう日常的部分にすぎないのではないかというのが、ぼくの偽らぬ感想です。おそらく教養のある立派な人であろうと思うけれど、そのことと彼がいい詩人であるかどうかは、何の関係もないと思う。
岡田(吉増さんの『わが悪魔祓い』について。作者を目の前にしてです、念のため):今までは率直に言っちゃうと、とても読むに耐えないナルシズムが展開していたわけだけど、それが神話化ということになると、そういうことでなくなるわけね。(中略)神話化ということに気がついていない証拠に、この詩集に収まっていない散文詩というのは非常にぎこちない。へたなのね。
鈴木(北川透さんの『反河のはじまり』について):詩を読むと北川さんはものすごい自虐的で、しかもすごく苦しんでいると書いているわけ。だけど、そう苦しみを押しつけても始まらないじゃないかとぼくは思ってくる。
清水(長田弘さんの『メランコリックな怪物』について):ぼくはものすごく嫌いだったのね、この人。(中略)こんなに傲慢な物書きはいないと思っていた。
以下、吉増さんは当時も今も他人にきびしいことは言わないので略。
詩人は率直だからいい、というようなことをいつか荒川洋治さんが言っていたことがあって、つまり小説家とかだったら他人に対してきびしい言葉はぶつけないということだったのかな(少なくとも70年代から80年代の前半では)などと改めて思います。つまり、お世辞とお礼と社交辞令や黙殺がほどよくブレンドされて、とりあえずこの場所に自分をつなぎとめておきたいという気持ちが見え見えの、昨今の詩人たちの座談会や批評やネットの掲示板の発言のやりとりなどからは想像できないくらいの緊張感が少なくともこの当時には普通のものとしてあったのです。
この座談会があった70年代半ば頃の自分を思い出すと、やはりきびしい時代だったなあと思います。74年に高校を出たのですが、その頃の私が友人たちと話していたことと言えば、「このまま大学に行くなんて卑怯じゃないのか」とか「何が吉増だ、吉本を読めよ」(これは吉増さんが好きだった私への一種のいじめ)とか、もっと日常レベルで言えば「おまえは彼(女)を本当に好きなのか、好きだったらもっと」とか、70年代前半の連合赤軍のあさま山荘事件のあとで発覚した同志に対するリンチ殺人などの余波を受けて状況的には冷えていくということがあっても、つい昨日までは電車に乗ればタオルで顔を隠したお兄さんお姉さんがヘルメットをかぶって角材持っていたし、朝、電車が池袋に着けば朝鮮高校の生徒と帝京の生徒が相変わらず殴りあってるという日々でした。
思うに、メディアは自分の名刺変わりの場所だからそこで格好つけよう、なんて意識もなかったのでしょう。現在の、「現代詩手帖」だけでなく「朝日新聞」を始めとする多くのメディアのように、既成の場所で自分がどうふるまうか、自分のスペースをどう確保するかなんてことを気にして、書き手がそこそこのことを書けばとりあえず間に合うなんて余裕もない、いい時代だったのでしょう(私個人としては、息苦しかったあの時代に戻りたいとは思いませんが)。言い替えれば、ウケを狙う、とかキツイことを言うと嫌われるかな、なんてことを考える余裕もないくらい真剣な時代でした。
詩なんてしょせん自己宣伝だと、亡くなった鮎川信夫さんも言っています。でもジャーナリズムがすでにできあがったものとして、そこでどうふるまうかを気にして格好つけてる人々はただの公害だなと思う今日この頃です。
「北村太郎さんの詩ばかり読んでいた−−すみれノート(その11)」(99/10/31)
前回の文章を書いたあと、詩の表現の時代による変化を見てとれたら、と北村太郎さん(1922−92)の『犬の時代』(1983・書肆山田)などの詩集を取り出して読み始めたのですが、これが大変、刊行時にわかったような気で読み飛ばしていた詩がことごとく不可解なのです。北村さんの詩は、使っている単語や一文一文の比喩的なあるいは文体的なひねりが少ないために、若い時には、ああ、何か読みやすくてかっこいい詩集を読んだくらいで片付けていたのでしょう、改めてふれた作品に困惑してしまって、持っていた現代詩文庫の『北村太郎詩集』(1975)に没後に編集しなおされた続編(1994・以上思潮社)を買い足して、ここ2週間で2回ばかり通読、部分によっては何度も読みました。
そこでまず感じたのは、北村さんの詩が、よくある作品鑑賞、解題を拒絶してくるところです。たとえば、初期の「墓地の人」や「冬の海」「牛とき職人の夜の歌」など、何度も読んでいるうちにその詩に入り込んでいくことはできても、その良さが説明ができない、詩の主格の移動や一見平明な詩句(たとえば「墓地の人」の「ああ、彼の仮面が、/青銅の眼でいつも人類をみつめているとだれが言うのか。」といった部分)につまずくと、それを書いている北村さんに身を添わせて、その感じを受け止めるしかないのです。
そしてその北村さんは何よりも「見る人」であり、その見たものの描写は年々すごみを増しています。たとえば、おそらく50年代のものと思われる「おそろしい夕方」の「沖のほうから、濁った、白い波が/押し寄せ、とちゅうで砕けながら、なお/うしろの波におされて、新しい/力となり、ふたたび崩れやすいたてがみを/ととのえ、ゆっくりせり上がり、ついに/充実した、ひろい砂浜に倒れる」といった嵐の近づく海の描写から、70年代半ばの「騒騒」の「濃い青が土用以後の二週間いちめんに広がっていた空に層積雲が速く動き/そのうえに/巻雲がいっそう早く走っていった/低い乱層雲の大群が決意した艦隊のように南から徐々に近づき/より高いところに/巻積雲が拡散して高積雲にかわりつつ移動する」といった専門語を駆使した近づく台風の描写(そうした名詞の駆使は70年の「冬の当直」などにすでに見られますが)へと凝縮されていくのですが、ここで立ち止まって、ではこれだけ見つめて言葉に書きつけていく精神とはいったい何だろうと考えると、詩や風景のこちら側に存在する北村太郎さんが向かいあっていたであろうきびしさ、きつさが俄然怖くなってくるのです。こうした描写の凝縮は80年代後半の『港の人』の「つるべ落としの秋の日が/根岸の丘のうえから見える/こちらが反自然であればこそなんと自然はうつくしいか/なんとにんげんはなまめかしいか を/よくわからしてくれる風景と対している」といった、「見る人」としての自分をも自在に描く地点まで上りつめていくのですが、それは詩人のきびしさからの解放を少しも意味していません。
北村さんは、戦後まもなくの評論「孤独への誘い」「投影の意味」で、表現者が時間のことを持ち出すのは、自らの主体、自意識が奪われていることのごまかしだ、という意味のことを書かれています。つまり、北村さんは、自分が時間の推移によって、風化していくこと、慣れてしまうことを拒絶して、半世紀近い歳月をまっとうしてしまった人と言えるでしょう。鑑賞をはねつける、北村さんの不可解さを多分にはらんだ作品は、読者がその人生のなかで何度でも立ち返ることのできる詩なのだなとうなったり、そのきびしさにこちらの欝気質をたしなめられたりしながら、気がつくと半月過ぎてしまいました。
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