98.8
98年8月
◯78/8の手帳から 大学4年生の夏。卒論のための原書を読んだり、プールに行ったり、友達の車1台をたよりに貧乏旅行したり、母親のおごりで帝劇で蜷川の「ハムレット」を見たり。
◯88/8の手帳から 英語学習教材セット制作のため、本の編集と同時にビデオ撮影のための細かい打ち合わせが目白押し。それだけ忙しくても、遊・機械/全自動シアターの芝居「ベビールーム」などを見るだけの余力はあった(若い)。
「ゲイの友達の本を読んで」(98/8/2)
数年前のことになるが、パフォーマンス集団のダムタイプの公演「S/N」を見た。エイズの問題、同性愛者やセックス・ワーカーが抱えている問題をすぐれた映像とサウンドの処理に漫才的掛け合い、対話、ダンスなどを組み合わせて伝えてくる目覚ましい舞台だった(リーダー的存在だった古橋悌二さんはその後実際にエイズでなくなってしまった--合掌)が、見終わった後に入った店で、若い女性が「お説教ならオヤジにすればいいのに」と感想を話しているのが聞こえてきた。つまり、自分たちは少女マンガなどできたえて同性愛のことなど分かっているのだから、理屈抜きですぐれたパフォーマンスだけ見せてくれればいいということらしい。本当にそうなのかな?
長年の友人で、今はパートナーのやなせりゅうたさんと「すこたん企画」というチームを作って、同性愛者の解放のための作業を仕事にしている伊藤悟さんから送られてきた、『自分らしく生きる』(落合恵子さんとの対談と2人のエッセー、かもがわ出版)、『同性愛者として生きる』(明石書店)という2冊の新しい本を読んでそんなエピソードを思い出した。シングルス、または同性愛者という、今の日本では理屈では受け入れられたとしても、現実には排除される場所から繰り出される言葉。ここでは同性愛者である伊藤さんを中心に紹介するが、彼らの講演でのさまざまなトラブルなど、やはり知った気になっている人に読んでほしい。たとえば、日本で同性愛者がおかれている厳しい状況を、つらかった自分史を折り混ぜて話した講演の後で(本当は思い出すだけで嫌な体験を、そのつらさを伝えるために話しているのに)、「同性愛者に襲われたくないので見分け方を教えてください」なんて質問が出たり、それに語気をあらげて応対したりすると「マイノリティなのだから、我慢してにこやかに応対しなければだめだ」なんて分かったふうな忠告をする人が出てくる始末。講演をわざわざ聞きにくる人でさえこんなものなのだから、さっきふれた若い女性たちなんてのも、きっと似たような半可通にすぎなくて、一見理解があるようで、蓋を開ければ同性愛者を「知識」「情報」としては受け止められても、現実の人間としては受け止められない人々が絶対多数なんじゃないかな、と思う。そういう中で生きている少数派のしんどさや権利がもっと取り上げられていいはずなのに、日本ではマスコミなど企画段階で干渉が入って、中途半端に終わってしまうのがほとんどだという現状を確認しておきたい。
さて、伊藤さんは同性愛者の解放を仕事にしてしまったと言っても、それで金もうけを目指すというわけではなく、自分たちの気持ちを確認するために仕事もきびしく選ぶし、講演などじつにていねいに準備して、事後のアンケートの分析などもきっちりやっている。よって蓄えを食いつぶさなければ食べていけないという現状も書かれているが、それに対して自分はどうなのか? 不況や出版の低迷のなか、サラリーマン編集者はかなりの無理を強いられる。その「無理」は組織の生き残りをかけた「無理」であって、個々の編集者の関心とか希望とかとはかけ離れてしまっている現状がある。ぼろぼろに疲れてじゃあどうしたいのかと自分に問いかけても、答えは出てこない。
「詩の効用」(98/8/8)
何か困難な企画を問題ありの人的配置で短期間でスタートさせるなんて役目をいきなりおおせつかったりして(その状況はその後少し変わったのだけれど)、あーあ、サラリーマンがいくらつらいと言ってもすごすぎる話だなあと、気の小さい人間なので落ち込んで、昼の喫茶店で、もう今日ははずせない打ち合わせ以外は仕事しないようにしようなんて思いながらへたりこんでいた。ちょうど、この春に出た辻征夫さんの詩集『萌えいづる若葉に対峙して』(思潮社)を持ってきていたのでぱらぱら読んでいたら、ふっと気が晴れてきた。
きみのなかに残っているにちがいない
ちいさな無垢をわたくしは信ずる
それがたとえ蟻の涙ほどのちいささであっても
それがあるかぎりきみはあるとき
たちあがることができる
世界はきみが荒れすさんでいるときも
きみを信じている
「蟻の涙」の最終の1節。これは詩の読者に向けて話しかけるようにして、自分だったらこんな言葉を聞きたいと思うという例として書かれた言葉だ。この詩集は他に、児童文学の登場人物や作者と詩人自らが入れ替わるように登場する楽しい連作などが収められているが、読みながら私が感じたのは、今でこそ中間管理職編集者なんぞになって、もっと仕事の精度やスピードをあげなくちゃ駄目だとか、そんな企画じゃ誰にもアピールできないとか、もっともらしいことを日々言ってしまったりするけど、オレって元々こういう人間じゃないんだよなあということ。しのぎを削るとか競争なんて嫌いだし、お金のことなんて関心ないし(ないと困りますが)、同僚の愚痴を言ったりとか関係ないんだよなあ。そう思うと、いざとなったら浪人して友人の小出版社でボランティア編集者でもしばらくやればいいやなんて思えて(四十過ぎにしてこういう脳天気なことしか思いつかないのが私の本質です)、気が少し楽になった。
辻さんの、理屈を捨てて自分の好きなものに向かって静かに降りていく方向性と、表現をつかむために身を乗り出していく方向性がぶつかるところで生まれてくる詩が、社会人の私の気持ちにこびりついたホコリのようなくだらない言葉をそぎ落としてくれた。オレってまだ高校生みたいな心しか持っていないんだと思って一人にやにやしてしまった。詩は時にこんなすごいことをしてくれる。
「何もしない夏休み」(98/8/18)
会社の仕事の「きびしい」配置をめぐって、へろへろになっていた前回の文章を書くのと前後して、分担については思いがけず上層部の助言もあり、私としてはほっとする見直しがなされた状態で、夏休みに入った。今年の夏休みはとにかく気持ちの整理やら、体力の回復がメインということで、子どもの面倒も上の子(小学2年生)をポケモンの映画に連れて行って、帰りに食事したり本を買ってあげたりしただけで、後は家人の里帰りで、「みんな行っといで〜」と送り出して、この何もしない父親はひたすらボケーっとして1人で4日ばかり過ごした。
いつもは1人で休めるとなると、日頃のペースを裏返しにしたかたちで、本をがんがん読んだり、映画やビデオを見まくったりしてしまうのだが、今回はそうしたくなかった。会社の仕事の激しいペースに対して、自分を取り戻すかのように急いでも、それは結局「こなす」姿勢の裏返しじゃないかと、体で感じてしまっていた。読み残していた洲之内徹さんの「気まぐれ美術館」シリーズや鶴見俊輔さんのエッセーを読んだことは読んだが、あまりスピードを上げると自分で考える代わりに人の言葉で考えたような気になってしまうのが嫌で、少しずつ、前に何度も戻ったりしながら読んだ。
なるべく何もしないということで、毎朝、会社がらみの強迫的な夢を見たりしながらも、もともと競争心も希薄でいつも1人で本ばかり読んでいたような自分の静かな気分を一瞬でも取り戻せたかと思う(それでも何時間かおきに、はっきりした目標もないのに、パソコンを起こして、ネットにつなぎたくなってしまった。この誘惑は凄い。ネットの世界で大きな変化や更新が小刻みに起こるわけはないと分かっているのに)。
こんな怠惰を決めこんだ休みだったが、1日だけ必要な買い物や雑用の処理を兼ねて、映画を見に行った。台湾の蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)監督の『河』。バブル経済のあおりで貧富の差がぐんぐん開いていく台北の街の底であえぐ若者たちを描いた秀作『青春神話』『愛情萬歳』に続く3部作のおそらく完結編で、人物たちも前2作とだぶっている。第1作では脱落する受験生(バブルゆえか受験戦争も熾烈らしい)、第2作では墓のセールスマンだったシャオカンは今回は失業中。タクシーの運転手だった父も辞めてしまったのか、ゲイ・サウナで行きずりのセックスを求め、母はレストランのエレベーター・ガールをしながら愛人と逢引を重ねているといった具合で、家族は食事も何もかも完全にばらばら、父親が上の家からの水もれに自室で毎日悪戦苦闘していても他の2人は気づかないほどだ。そんなある日、シャオカンは原因不明の首が痛くなる症状に取りつかれ、医者やマッサージ、鍼、寺院での祈祷などを渡り歩く生活を余儀なくされる。彼の身を案じることで、家族の絆も一瞬甦るかに見えたのだが……。
新聞によっては、「映画評論家」によって、空疎な言葉を並べただけの大賛辞が寄せられていたが、私が人に勧めてまわりたくなったほどの前2作を見ていない人には、背景の説明はおろか、セリフもそぎ落として家族の映像にしぼりきったこの映画は辛いんじゃないかなあ。前2作では、救いのなさと青年たちの生命力が拮抗して力強い抒情が生まれていたけれど、『河』は無力感に満ちている。資本とか政治とかの裏付けを失った人間の実質を描ききってしまったのか、いずれにしても、ここを確認しておかなければ先に行けない「きつさ」なのかもしれないなと思った。朝の光を浴びて、痛む首を押さえて言葉をなくしながら、空を見上げている人間、それは私かもしれないな。
[ジャーナル目次]
[このまま読み続ける]
[トップ・ページ]
[リンク]
[ライブラリー]