98.7
98年7月
◯78/7の手帳から ジョージ・ルーカス監督「スター・ウォーズ」シリーズ第1作を封切で観ている。本:佐々木幹郎『百年戦争』など。
◯88/7の手帳から 再就職して初めてのボーナス、翌週にはなくなっていた(笑)。ヴァン・ダイク・パークスなんて、合州国でもマニアしか知らないミュージシャンのコンサートを観た。ご本人もこんな企画が実現したことに驚いたと、ステージでジャパン・マネーに感謝していた。バブルの走りの頃だったのか?
「ゴミ社会はいかんよ」(98/7/1)
比較的大きなマンションに住んでいるので(1世帯分がという意味ではありません、念のため)、ゴミは集積スペースがあって夜間でなければいつでも捨てられるので助かっている。清掃の人やボランティア・グループの人々が分別などかなり注意しているので、近所ではモデルケースになっているようだが、だからと言って一般住民の認識レベルが高いわけでは全然なく、私なども燃えるゴミのコーナーにダンボールや雑誌とかがまとめて捨てられているのに気づいた時は分け直したりしているが、粗大ゴミじゃないのと思えるようなもの(椅子とか、幼児用家具とか)が不燃ゴミのコーナーにどっさり捨てられたりしているのは、ちょっと一人では手のつけようがないなあ。
各地のゴミ処分場、産業廃棄物処分場の近辺でダイオキシンなどの被害で癌が多発したり、地下水や土壌の汚染、さらには食品の含有物質などが生き物の生殖機能などに影響を与えていることなどが報じられているが、自分の家からゴミを出してしまえば終わりという発想はもう限界に来ている。最近出た、酒井伸一さんの『ゴミと化学物質』(岩波新書)を読んで、悲観的な状況を前に、あくまで環境工学の専門家として、冷静さを失わずに状況分析とあるべき対応を整理して説明される姿勢に打たれたが(細かい化学物質の説明は身に付かなかったが)、話として印象に残ったのは、今までの日本がGDP(国内総生産)の成長と廃棄物発生量の増加がほぼパラレルである、つまり景気がよくなるならばゴミが増えるのは仕方ない、というゴミ許容型の社会であったのに対して、GDP成長に対して廃棄物の発生がマイナス成長に抑えられる社会を目指さなければならないという指摘だった。
土木工学者の宇井純さんも、多分近々に単行本化されるだろう、終了した雑誌連載の中で、合州国の土壌汚染などに対する法的対応を紹介されていたが(原因企業に土壌改良の費用を負担させるなど)、日本では財界の圧力で同趣旨の法制化は棚上げになってしまったようだし、この春の国会で家電の処分については廃棄時に消費者の費用負担でということになった(しかも、その具体的な処分に関しては、新たにダイオキシンなどを発生させないという規制がぼかされてしまった)。家電でこれくらいなのだから、自動車の処分などはどうなるのだろう? 自動車産業を締め付けると景気に響くから、さらに甘い、業界寄りの基準ということになるのだろうか? この辺は詳しい人がいたら教えてほしい(宇井さんの排水処理問題についての指摘もこちらで紹介しています)。
折しも、東京都下の日の出町のゴミ処分場が引き起こしたさまざまな問題について、地元の中心的存在として長く戦ってきた、画家の田島征三さんがやはり癌になり、療養のために伊東に越されたということだ。ゴミ処分場の問題を見守ってきた市民たちによって、田島さんが住んでいた地域での癌の発生率が他地域に比べて高いことが報告されたが、自治体側は間を置かずにその報告をデマであると攻撃し始めている(その際、提出された資料は、該当地域は日の出町の他地域より老衰死の率が10倍高いだけという、何とも信用のおけないものだった)。こんな姿勢でどうなるんだろう? 何でも後手に回していけば当座は儲かる、という姿勢を持った人々が公費で環境の汚染を促進し、さらには右翼を雇って反対住民に嫌がらせをするなど、攻撃をしかけているのを思うと愕然とする。これから、子供たちが大きくなるにつれて、どんどん新種の病気が発生していくなんてことになるのか(アトピーなども体内に摂取された化学物質を原因とする見方がある)、素人の個人にできることは小さいけれど、できることはした方がいい(やっぱり粗大ゴミも気がついたら片づけるしかないかな)。
「10年後」(98/7/17)
鈴木博文さんの新しいエッセー集『僕は走って灰になる』(新宿書房)が出た。博文さん(通称フーちゃん)は、日本でも指折りの古いロックバンド、ムーンライダーズのメンバーで、ソロ活動や若手のミュージシャンのプロデューサー業でも活躍している。この本はビートルズ、ザ・バンド、XTCなどのミュージシャンについてのエッセーや、仲間たちや自分の思い出話などをまとめている。
実はこの本、「新しい」と書いたが、10年前に出た本の巻末に書き下ろしの文章と著者の最近のポートレートを加えた増補新装版であり、何を隠そう、その元の本は私が編集に関わった本の中で愛着を感じている1冊なのだ。この本を作り始めたのが11年前の春、私は某出版社を辞めて暇はあるが金はないというプータローの編集者だった。その前年に偶然知り合った、新宿書房のやはりまだ若い編集者だった松岡毅さんと博文さんの本が作りたいという話がまとまり、何度も羽田にある博文さんのお宅に足を運んだものだ。博文さんのお宅というのは彼の生家で、彼のお祖母さん、新劇の活動で知り合ったというご両親、そして博文さんのお嬢さんという4世代同居で、その一角の13畳くらいの洋間を、実兄の鈴木慶一さんらと、通称「湾岸スタジオ」というホーム・レコーディング・スタジオに改造して、昼夜問わず好きなときに音楽作りに打ち込めるようにしていた。博文さんは毎日明け方までこのスタジオで、まだデビュー前の若手ミュージシャンのテープ作りを手伝ったり、自分の新曲を作ったり、あるいはただレコードを聞いたりして過ごしていた。ちょうど博文さんが兄の慶一さんらと、インディーズ・レーベル「メトロトロン・レコード」を企画して、その第一弾として、自分のソロ・アルバムなどを作り始めていた頃だったかと思う。私たちが午後3時頃訪ねて行くと、博文さんはまだ自室で就寝中で、スタジオのソファで泊り込んでしまったミュージシャンが眠りこけているなんてことはざらだった(今回、書き下ろされた文章によると、この生活ペースは40代半ばになった今も変わらないとのことだ)。
打ち合わせを重ねて、書き下ろしや未発表の日誌の抜粋の他は、それまで雑誌に発表した文章を使うことになり、その選択や配列、個々の文章の新たなタイトル付けを終えたくらいで、翌88年の始めから私が今の会社に再就職していきなり忙しくなり、後は松岡さんがフィニッシュまで作業して10年前の3月に出版にこぎ着けた。本の寿命が短い昨今、4〜5000部の初版部数で増刷したわけでもない本が、こうして再生するというのは、地味とは言え固定ファンを持つ博文さんのカルト的な人気と地道なライブ活動などの根拠があるからだろうが、まずはめでたい話だ。
でも同時に不思議な亡霊にめぐりあった気もする。旧版から掲載されている彼のポートレートと新版のそれの落差、まだりりしい青年だった博文さんと、もう仙人のような枯れた風情で羽田の川岸をひょうひょうと歩いている姿との間に流れた10年。きっと私も年をとったんだろうな。ちょうどこの本を作り始めた頃にまったくの私家版で出した自分の詩集『日記詩集 十月』を引っ張り出してぱらぱら見ていたら、「僕のゆめは流通しない」なんて青い詩句が出てきて(と言っても書いていたときにすでに30だったが)、もうこういう風には書けないだろうな(どういう風にも、かもしれないが)、もう世間にもまれにもまれてスレッカラシになった自分(配偶者の他、一女一男あり)は世の中に向かっていくような、幼くてもすがすがしい緊張感をどこかでなくしてしまったのかという気にもなった。これからどうなるのか、書くということも本を作るという仕事の存亡も含めて大いに不安だが、はっきりした展開がないかぎり続けていくしかないのだろう、また、何らかの「10年後」にめぐりあえることでも楽しみにして。博文さんも書いている、「何があっても生きているのが一番」と。
「津島佑子『火の山−−山猿記』を読んで」(98/7/20)
津島佑子さんの小説はかれこれ20冊近く読んできたが、本当に津島さんの作品が自分にとって大切だと思えるようになったのは1994年に出版された『かがやく水の時代』(新潮社)からで、それ以前の作品はすでに何冊か読んではいたが、そこから振り返るようにして好きになったのだ。この本は、呼吸発作という不慮の事故で亡くなった、 津島さんの父親を公表されないご長男に捧げられた『真昼へ』(1988・新潮社)の後を受けて、ご自身のフランス長期滞在を生かした作品だった。息子を亡くすという心の傷を抱いた「私」は、画廊の仕事を得て暮らすパリで、若くして日本を捨て合州国に渡った叔父の娘、つまり従姉妹である音楽家の「アサコ」と出会う。合州国生まれの「アサコ」との英語での会話、「私」が出会うさまざまな人々とのフランス語での会話が、翻訳という形の端正な日本語で綴られるわけだが、こうした人々との出会い、そして日本への帰国の際に「アサコ」と合州国で暮らす叔父夫妻をたずねて自分の出自を考えたりすることを通して「私」が癒されていく過程が見事に描かれていた。私はこの作品は、たとえば「ピアノ・レッスン」の監督ジェーン・カンピオンさんあたりが「映画に撮らせてください」と頼みに来るべきだと言えるくらい、女性が生きていく上でのさまざまな困難の克服、友情の問題を、国境を越えてみずみずしく描いた傑作だと、勝手に思っている。
この作品の後、今度は自分の母親の若き日々を創作として描ききった長編『風よ、空駆ける風よ』(1995・文藝春秋)を経て、今回の上下巻総900ページの大作『火の山−−山猿記』(「やまざるき」と読む・講談社)が刊行された。登場人物は名前はまったく変わっているが、前2作と完全にパラレルで3部作と言っていいかもしれない。私(本作では「由紀子」、以下カッコ内は本作での名)は、従姉妹(「牧子」)と合州国の叔父(「勇太郎」)をたずねた際、改まって昔の話をする時間もないからと、彼が全精力を傾けて書いた一族のメモワールを託される。由紀子は日本語のできない牧子に、息子のパトリス・勇平に日本語を覚えさせて大きくなったら読んでもらえと、自ら書いた覚書や早く死んだ勇太郎の姉の創作ノートなどを折り混ぜて送ってきた。物語は21世紀になって勇太郎も由紀子もすでに死に、青年になったパトリス・勇平がこの記録に出会い、すでに老いた母のために日本人の友人たちと連絡を取り合いながらそれを読むという仕掛けになっている。中心となる記述は甲州出身の勇太郎(田舎者である自分を自嘲して「山猿」と呼んでいる)のノートだが、それをフランス人のパトリス・勇平が注をつけながら編集しているというスタイルだ。古くは16世紀の武田信玄の時代の逸話まで遡られる一族の物語が、勇太郎の父、源一郎による富士山研究の抜粋を含めて、最初は甲府、最後は戦後の東京へと舞台を移して語られるが、勇太郎の5人の姉たちの人生・性格の見事な書き分けなど、とてもここでまとめられないことを承知で手短に感想を書いておこう。
まず、その語り口だが、素人の文章ということで、姉たちの死の際に勇太郎が幻を見る、あるいは死んだ姉たちが勇太郎の記述の中でどんどん自分の物語を始めてしまう、といった記述や実験はあるが、いかにも文学的なという仕掛けは極力抑えられている。そこで思い出したのは、ある少年の友人にあてた手紙というかたちで平明な文で書ききった、作者の父である太宰治さんの「パンドラの匣」だった。文学的仕掛けをどんなに脱いでもそこに文学を発生させてしまう文体だ(フランス人の勇平がつける注といった形での遊びも楽しい)。太宰さんは作品中では杉という画家として、「富嶽百景」「薄明」といった彼の作品のエピソードを彷彿させる形で 登場し、最後に情痴事件に巻き込まれて死ぬという設定になっている。津島さんは母親を描いた前作に続いて、自分が赤ん坊の時に死んでしまった父親を、富士の山を見ながら生きてきた一族、そして日本の近代という大きなスケールの中で書きぬいたということなのだろうか。それにしても女たちの響き合う心が美しい。私なんぞのような、いつも本ばかり読んでいるような生半可な読者よりも、むしろ先入観のない、ふだん本を読まない大人たちに読んで泣いてもらいたい。
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