98.6
98年6月
◯78/6の手帳から 大学の同級生とエーリッヒ・フロムやマルクスの読書会をやっている。70年代だなあ。
◯88/6の手帳から 本の編集と、語学ビデオ製作と雑誌の販促イベントの仕切りを同時にやっている。忙しいのはこの頃から?
「未発表小詩集、また」(98/6/1)
「壘」という詩の同人誌をやっていて、諸事情によって(というか原稿が集まらないだけだが)この1年、発行が滞っているうち、去年の年末同様、原稿が1回分あまってしまったので、ここに発表する。まことに覇気のないことおびただしいが仕方ない。詩集をまた作ろうかと思ってプランもたててみたが、おととしの暮れにも書いたことだが、その詩集を誰に届けるために出すのか、その詩集を置くべき場所が見えないという気分だ。どうしたものかな。
すみれ通信
1
きれいにしかなれないきみとすれ違うために
私たちがまだ一人一人でさえないことを確かめるために
何度でも戻っていくしかないね
きれいになることをうまく思い出せない私がきみとすれ違いながら
まだ始まらないものをかかえた世界のように
通りすぎつづけていく場所へ
傷つきながらも私をこじ開けなければ進まない時間の向こうへ
私たちが出会えたかもしれない悲しみの始まりに向かって
イメージに包まれてねむろうとする弱い私を
掘り抜いていく方法をさがす
きみだけの悲しみは私の言葉には見えないんだ
言葉が思い出す欲望やつらさをしずめて
もう少し晴れてきたらまた出かけよう
2
きれいなものしか作れなくなっていく私たちの方法も
私たちの言葉が作り出したものだ
ゆっくりとしか成長しないものを守るために急いでしまう
私たちの身ぶりが敵を強固にしていくのが見えるかな
いつか私を呼び出した歌が
記録されたかたちになって浮かんでいる
きれいでしかないものを作り出しそうな私の言葉を
私はここですりつぶしていよう
3
こわれながら生きているから
きみを殺したことを忘れているのかもしれない
生きられなかった時間を言葉に逃げ込ませているから
名前をはりつけられたビンのようにならんでしまう
声のないかたちから抜け出して何かを始められるかな
私であることからもくだけ落ちてしまう前に
まだ書くことのまずしさのなかにとどまって
考えているだけ
4
一度に何人もの私になろうとして
つぶされる私をとりかえす私であろうとして
ゆうべのことも思い出せないくらい
言葉のなかを駆けずりまわって
自分でも死にたくなるほど
かたちだけになってしまった気持ちをきみにぶつけたのは
言葉が呼び出した夢だったのかそれとも
目覚めぎわのささやきにうなされ
恐怖にとりつかれる場所に私が生まれる可能性がある
急ぐなよ
おだやかに微笑んで減速しろよ
まだ思い出すことのできる傷を掘り返せば
指をくわえて眠っている
ちゃんと始まったことのないお前を起こせるのだから
5
始まりも知らずに失われていく祈りのように
いつも手前で折れ曲がってしまう道の重なりを
空のしみのように浮かべながら
後退と修復をくり返す小さな場所で
言葉がなお沈んでいく暴力を育てると同時に
解体する力を放てるなら
始まりをここに掘り始めよう
力を行使しうることを確認するために
弱い人々へ向けられていくイメージとしての暴力から
生み出される欲望の物語に組み込まれても
一番気持ちのいい自分は
どんな日ざしのなかできみを見つめるか
何度も組み立て直して想像しながらね
6
きみを狂わせるものに届かないきみの怒りが
きみを狂わせる世界を動かす力に変換されて
言葉につまずかない言葉を駆使してきみは楽しそうだ
言葉につまずかない言葉が歌う悲しみよりきみはさびしそうだ
変えていくための言葉が見つからない
通りすぎるための言葉に乗ったきみがたおれていくのを
ガラス越しに見つめながらねむくなってしまう
ねむりながら落ちていけるかな
私たちがよごれはじめた場所へ
私たちがきれいになる前にもっとこわれるべきだった場所へ
7
ほろびようとするきみを見送って
はびころうとするきみをはびこるままにして
私たちが共有しなかった思い出を数えながら
遊ばない大人になるんだと歌いながら歩いてきた私も
始まりを見失った歌のようにくずれさっていくことにするよ
もう一度あたらしい共同性に向かってくぐり抜けるために
ばらばらに光ろうとする努力でしかない場所に打ちあげられて
きみを好きだったこともわすれてここにいるから
あとはきみがあらわれるしかない
「日本語で読むフラナリー」(98/6/5)
去年の暮れから今年の始めにかけて、合州国の作家フラナリー・オコナーさん(1925−64)の作品を夢中になって読んだことは、この欄でも何度か書いた。その時点では、日本語で読めるフラナリーさんの作品は『オコナー短編集』(須山静夫訳・新潮文庫)とあとは絶版だが図書館で検索して見つけた評論集『秘義と習俗』(上杉明訳・春秋社)くらいしかなく、長編や他の短編などは英語で読むしかなかった。私は彼女の未訳の短編を訳すことを、仕事と言うよりは自分の気持ちの支えのような作業にできたらいいなと思って、実際に1編を試訳して、やはりこの欄に載せた。こんな私を見て、本やレコード、CD、ビデオなど、マニアックなまでに集めている友人の松岡毅さん(極小出版社の役員−−本当に大変なので笑ってはいけない。彼は時々、部屋の片付けをかねて20年くらい前のレコードの宣伝ポスターなどを、最近、神保町では唯一発展している、アイドルや車、スポーツなどの古雑誌などをメインにした古本屋に売った金で、今流行りの大リーガーのカード集めをしているという−−これは笑ってもいい)が、そんなに好きなのならと、彼女の長編の絶版になっている、ともに70年頃の翻訳『賢い血』(須山静夫訳・冨山房)と『烈しく攻むる者はこれを奪う』(佐伯彰一訳・新潮社・普通の単行本だが古本屋で時価7000円)を、私の森高千里初期LDコレクション(私も何でこんなものを持っているのか−−笑)と引き換えに譲ってくれた。ぱらぱらめくってみたが、うーん、何か英語で読んだあとだとイメージが違うというか、日本語の感覚も30年近くたつと語感やリズム感が変わってしまうということか、すごくもっさりした古い作品という感じがしてしまって、ちょっと今は読めないな、やっぱり未訳の短編やこの2編の長編も私が訳すしかないかな。
などと自己陶酔して、老後のライフワークを夢見ていた矢先、フラナリーさんの短編の新訳が出てしまった。横山貞子さんによる『善人はなかなかいない』、版元は筑摩書房、今さらフラナリーさんの翻訳を出す出版社なんてないだろうと思っていたのでショック。でも翻訳では定評のある横山さんだから通った企画なのかもしれないし、第一、私がフラナリーさんの本を読み出したのは、横山さんのご主人である鶴見俊輔さんが20世紀の合州国作家でほとんどただ一人、自分をとらえてはなさない作家だと書いていたのを読んだのがきっかけなのだから仕方ない、それにまだまだ未訳の短編でいいのがたくさんあるのだからあきらめてはいけない(笑)。
この本は、新潮文庫の『オコナー短編集』同様、フラナリーさんの2冊の短編集から、作品を選択、編集したものだ。表題作(A Good Man Is Hard To Find)のほか、「強制追放者」(The Displaced Person)、「森の景色」(A View Of The Wood)、「家庭のやすらぎ」(The Comforts Of Home)、「よみがえりの日」(Judgement Day)の計5編が選ばれている。読み出した時は、あのフラナリーさんのきびきびとした、それでいてつやのある文体と横山さんの柔らかく、さらさらした文体の間の距離にとまどった。英語で読んだ時と解釈の違いがあるような気がして、何箇所か気になるところを対照して読んでみたが、それはおおむねこちらが忘れていただけだった。でも、そんな読み比べをしたおかげで、アイザック・ディネーセンさんの選集(晶文社)などで定評のある横山さんの訳の、訳者の解説や解釈を訳文にまぎれこませてしまう、見方によってはかなり大胆な翻訳のスタイルも分かった。そして、いったん翻訳というギャップを乗り越えてしまうと、あとは作品の力であっという間に読めた。他人を排除しようとする不寛容な心の不安、おびえが惨劇を呼び寄せていくストーリーの変奏はやはり見事だ。今回あらためて読んだなかでは、ナチによって難民となったポーランド人一家を雇ったことから、バランスを崩していく合州国南部の農場を描いた「強制追放者」が特に面白かった。生真面目でよく働くが英語がうまくない難民に対して、農場で働くプア・ホワイトや黒人たちが抱く不安、あんな死体の山の収容所から来た人間なんて悪魔に違いないという偏見、最初は快く受け入れたはずの農場の女主人も農場を乗っ取られるのではとおびえ始める。自分の国のために戦争に行った人間が、外国から来た人間に仕事を奪われるのはおかしいという、町じゅうに広がっていく排除への希望の中で、最後に事故でそのポーランド人が死ぬ瞬間、誰もが自分で手を下せなかった希望の達成としてそれを見送る(横山さんは「訳者あとがき」で、これを故殺と断定しているが、原文の文体の関係でそこまで言い切れるか、実に微妙なところだ)。今から30年以上も前の合州国の作品だが、今の日本でもなお現代の作品として読みうると確信を持った。
「泣きたい気持ちとブコウスキー」(98/6/22)
あまりグチっぽいことを書かないほうがいいわよと、時々このコーナーの原稿を校正者代わりに無理やり読まされる彼女が言うので、できるだけ気をつけたいとは思うが、やはりバテ気味だ。背中がずっと痛くて、週の後半ともなると、会社でワープロやパソコンの画面に向かって辞書の原稿をチェックしていても30分くらいしか集中が続かない。病気ではないし、はずせない用事が常に何かしらあるので休むわけにもいかない。
そんな体調で新刊のある詩論集の、主体と言語、作品の限界をめぐるヨーロッパ哲学的考察に集中しようとしていたら、自分がこわれていくような感覚にとらわれて、自分が拠って立つ場所がどこにもないような、泣きたいのに、その泣きたい自分というものもうまく把握できないような感じになり、暴力的な、あるいは性的な妄想も出始めたので、しばしこの本は休むことにして、こういうときは脳天気な合州国文学にかぎるというわけで、チャールズ・ブコウスキーさん(1920−94)の読んでいなかった短編集『町でいちばんの美女』(青野聰訳・新潮文庫)を読んでひと息ついたところ。
ブコウスキーさんの作品はこの文庫の元の単行本(1994)あたりを皮切りに、ちょっとしたブームになって翻訳もすでに10数冊出ているので、このサイトを訪れるような方々であれば、読んだことのある人もいるのではと思うが、とにかく無茶苦茶というか、小説にしても詩にしても、暴力的な表現が多い。大学を中退したあと、放浪し、さまざまな仕事につき、50才前後で何とか文筆で生活できるようになるまでの10数年は郵便局で働いていたという彼の経験をベースに、飲んだくれの話、セックスの話、暴力の話がえんえんと続く。電車の中で広げて読むのがはばかられるような言葉の連続で、たとえば2人の娼婦を部屋に連れこんで、飲みながら夜中まで大騒ぎして駆けつけた警官と押し問答になる話とか、飲み過ぎで死にかけて、かつぎこまれた慈善病院で看護婦に四文字言葉で楯突いて殴られる話なんてのはまだいいほうで、私小説的でないフィクション性の強い短編となると、老いた俳優の家に押し込んだ若者たちが現金を出させようとなぶり殺しにしてしまう話とか、盗んできた死体を屍姦して海に捨ててしまう話、失業した飲んだくれが幼女を強姦して捕まる話などなど、本当にしょうもない話が多い。それでも、読後にいやな感じが残らないのは、作者の人徳というか、好きで飲んだくれているわけじゃないんだという(嫌いなわけではもちろんないが)、涙のようなものが伝わってくるからだろう。水爆を紛失したスキャンダルをごまかすために、北朝鮮ともめ事を起こして話題をそらそうとしたりする、偉そうな政府が言う民主主義なんかと付き合うよりも、酒や競馬や娼婦と付き合って死んでいくほうが自分にとって誠実なんだと言い切るスタンスが嘘ではないと感じさせる、彼の存在感が書かれていることの暴力性をやさしさに変えてしまう。
読んでいてふと、前回も触れた、フラナリー・オコナーさんの作品を思い出した。フラナリーさんの作品も殺人など、暴力的な要素が大きな比重を占めているが、そこは南部の旧家の出で、長く病気と戦い、放蕩などとは縁遠いところで生きた彼女の生活や信仰とも関係あると思うが、感情を抑制した緊密な文体で、ブコウスキーさんの文体とは背中合わせのようでありながら、合州国や現代世界の毒を深い部分まで見通している点では共通しているように思える。もっともフラナリーさんはビート文学が好きではなかったようなので(ブコウスキーさんはビートとの関連で語られることも少なくない−−この一文もまた無理やり読まされた私の彼女は、ビートの人たちほど気取りのないところがいいのかも、と言ってました)、もし彼女が長生きして彼の作品を読んだとしても、自分と共通したところがあると思ったかどうかは、ちょっと疑問だけれどね。
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