98.12



98年12月
◯78/12の手帳から 木冬社「火のようにさみしい姉がいて」(清水邦夫作・演出)。作者の過去に向けられた視線は、もう熱狂が戻ってこないことの確認?
◯88/12の手帳から 渡邊十絲子さんの第1詩集『Fの残響』の出版記念パーティ。結婚パーティのような派手さにびっくり。

「治るということ」(98/12/5)

 たとえば、会社の昼休みに切れた時計の電池を入れてもらいに行ったり、はずれた眼鏡のつるをつけてもらったり、そんなささいなことでも、ものを直してもらったりすることは楽しい。どこかホッとする。病気にしても胃が痛くて会社を休んで、一日薬を飲んでベッドでマンガを読んでいるなんていうのも。それが家族でも、お薬飲んでよくなったねなんてホッと息をつくのは、小さな子どもがいれば日常茶飯時だ。
 しかし、今度という今度はまいりましたね。最初は上の子(8歳・女)がはげしい風邪で高熱を出し、3日ほど学校を休んだ。それが妻にうつったらしく、高熱とはげしい咳で寝込んでしまった。彼女の母上に日帰りで応援を頼みつつ、朝7時前に起きて炊事洗濯をしてから出社する日々が続いた。彼女はもともと心臓が弱いので高熱とか長く続く病気とかは要注意なのだが、なかなか治らないのでただの風邪ではないかもしれないと心配で大きな病院に行ったら、あっさりと肺炎だと診断され、抗生物質を処方されたら2、3日でだいぶ楽になった。やれやれと思ったら今度は下の子(4歳・男)が「ぼく、耳の奥が痛い」と言いだした。妻はまだ外に出ないほうがいいということで、会社に行く前に耳鼻科に連れていったら、中耳炎で、しかも蓄膿症から起きたものだという。それで、今度は会社の勤務時間をずらして、毎朝、耳鼻科に行ってから会社に行く日々となった。それでも、とにかく中耳炎は治ったので、これからはしばらく毎日、鼻の治療ですね、ということで、先週の土曜日、束の間の休息というわけでもないが、早めの忘年会に出ることができた。そして比較的早い時間に帰ってきて、子どもたちに添い寝していたら、急に上の子が吐きはじめるではないか! オー、マイ・ガッド! 汚れたパジャマを洗って取りかえたが、寝たかと思う間もなく、用意した洗面器にまた吐いた。結局、日曜日一日、寝たまま吐き気がおさまらず、月曜になって私は耳鼻科に下の子を連れていくので、肺炎治りかけの妻が大きな病院に連れていったら自家中毒と脱水症状ということで、点滴を2時間打たされた。そんなこんなで上の子は今週いっぱい学校は休み、私以外、全員投薬という1週間が今、終わろうとしているところ。
 まあ、妻もさっき病院に行ったら、まだ若干炎症が残っているが、薬を弱くして、何か悪化するようなことがなければ、もう通院終了ということだし、上の子も食欲がだいぶ出てきて、「遊ぼう、遊ぼう」とうるさく付きまとうくらいになったので、何とかなりそうだ。来週になれば、下の子の耳鼻科通いも妻にバトンタッチできるだろう。渡辺家族発足以来のピンチが今、一段落しようとしている(と思いたい)。
 この3週間あまり、朝も早いので、眠くてあまり本も読めなかったけれど、『河合隼雄のカウンセリング入門』(創元社)は面白かった。今から30年ほど前の、カウンセリングについての、実技指導(ロール・プレイによる)や質疑応答を中心にしたセミナーの記録だが、心を治そうとする人々にどう接するか、具体的に話されていて面白かった。たとえばカウンセラーの判断で先走って話の流れを作ってしまうことで、相手の自分の問題を発見しようという心の動きを妨げたりそらしたりすることをどう避けるかといったことが、家族の問題を抱えているといった悩みの場合、その家族に会いに行くべきかとか、相手が話し出すまでカウンセラーはどれくらい自分の沈黙と付き合えるかなどなど、かなり泥臭い問題まで含めて話し合われている。
 心の問題は、自覚しそうになっても、それを迂回してしまえるような情報の回路が張りめぐらされている。たとえば、こうした本を、あくまで困っている「他人」の本として受けとめて覗き見ふうに読んで何となく納得してしまうとか、週刊誌などのジャーナリズムも「他人」の問題として楽しむために消費されているものが多いと思う。河合さんの著書はかなり多くの人に読まれているようだが、それだけの人々が自分の心と向き合ってそれをよくしていくなんて状況になったら、ずいぶん風通しがよくなるのにな、なんて思った。
 私自身、10年、20年前に比べれば、だいぶ自分の心を治し治しして何とか自分と付き合えるようになったが、それでもまだまだかな?

「届く言葉」(98/12/16)

 柳美里さんの新刊小説『ゴールドラッシュ』(新潮社)を読んだ。柳さんの作品は岸田戯曲賞を受賞した戯曲「魚の祭」の舞台(演出・松本修)を見たことがあるだけだったが、今回の小説の、三島由紀夫さん、大江健三郎さん、村上龍さんらの作品に次ぐ、現代版の『罪と罰』だと言わんばかりの派手な新聞広告(篠山紀信さん撮影によるタレントっぽい著者写真入り)に、やっぱり読んでおいたほうがいいのかなと思ってしまったのだ。
 パチンコ店など娯楽チェーンを経営する金持ちの次男である少年が主人公で、彼は父親が金を使って入れた名門中学にも通わず、クスリに手を出したり、ヤクザと付き合ったり、父親の経営する店に顔を出して店員たちに見当違いの命令を出してはうんざりされるといった日々を送っている。少女を 強姦しても何とも思わない悪ガキたちに何十万という単位で金をむしり取られても痛くもかゆくもないほど、ありあまる金を与えられ、病気の兄や幼い頃ふとした偶然で知り合った中華料理屋の爺さんにだけは心を開く彼だが、父親に言うことを聞かないなら少年院よりもきつい寄宿舎に入れるぞと言われ、恐怖のあまり父親を父親のコレクションである刀で殺してしまう……といった三面記事を集めて圧縮したような内容なのだが、うーん、この設定の説明に追われて焦点が定まらない文はどうも、ということで、滅多にしないことなのだが後半は飛ばし読みしてしまった。おそらく作者も編集者もこうした作品が現代をとらえたものだと思っているのだろうが、少年が見る幻覚の描写や風景を主観的にとらえる比喩的な表現も、映画化・ドラマ化をめざして量産される日本のミステリーやハードボイルドなどなら許されるだろうくらいのレベルで、結局、何を言いたいのかよく伝わってこない。この作品が与えた最大の衝撃はあの派手な広告だったのではないか(合州国などであれば、誰々の再来といった誇大広告はめずらしくないが、日本ではそうした下品な出版広告は今までは自粛するというのが「常識」だったと思う)。柳さんという人は、確かにこうした主題を引き受けうる作家としての身体を持った人なのだろうが、まだジャーナリズムを引き受けつつ乗り越えてしまうといった場所には至らず、ジャーナリズムと肩をならべて書いてしまったという感じだ。
 ちょうど、この本を読む前に、幼くしてイギリスに渡り帰化した、日系イギリス人作家カズオ・イシグロさんの小説『浮世の画家』(原著86年・飛田茂雄訳・中公文庫)を読んだ。戦争中に翼賛画を描き、戦後は引退を強いられた大家が、かつての弟子たちに就職のために自分は協力しなかったことを証明してくれと頼まれたり、訪ねて行っても門前払い同様の扱いを受けたり、そうした自分のせいで娘の縁談がうまくいかないのではないかと悩んだりしながら、絵に情熱を捧げてきた来し方を振りかえるという内容だったが、抑制のきいた筆致(翻訳ですが)で、左翼的なり右翼的なり広告的なり、パターンにはまってしまった言葉に囲まれて暮らしているこちらの胸に静かに、しかし確かに響いてくるものがあった。日本を舞台にして書かれた海外の小説を何作か読んでみようと思って手始めに読んだのだが、現在に届く言葉という意味でも、続けて考えてみようと思う。

注・今日、週刊誌を立ち読みしていたら、『ゴールドラッシュ』の広告が載っていたけれど、大江さんの名前はなかった。大江さんが怒りのクレームでもつけたのかな?

「ちょっと早い『ゆく年くる年』」(98/12/27)

 会社の仕事の方は、昨日の土曜日を出社日にして大掃除して仕事納めになった。夕方、編集部内でビールを飲みつつ三々五々お開きにしたのだが、去年の仕事納めの日がつい昨日のことのように思い出され、この時の早さは年のせいか、それとも単なる忙しさのせいかと苦笑した。
 と言っても、ただホッとしただけではない。年末になって、よその編集部でよくぞここまでと思えるくらいこき使われて身体をこわすのではと心配していた若い社員が辞めたり、ここ半年ちょっと、下品とは思いつつこの欄で愚痴を書いてしまった、格好つけるだけで電話の受け答えも校正もできない社員が辞めたりで、後味の悪い疲れが残っている。
 大学を出、編集という仕事を始めて20年弱、出版もすっかり斜陽産業になってしまって、でもだからと言って他のことをしようという具体性もない身としては、業界の変化を引き受けつつ変わっていくしかないわけだが(来年はそろそろDTPも自分でやらないといけないかな?)、ぐっと前に出ていくという感じがしない。書店を埋めつくす本の向こうに行きたいと思うけれど、それが何かつかめないまま、とにかく会社を回していく企画を優先してこなしていくしかない(先日、某K屋という大書店による、勤め先の出版社の月当たりの全国売り上げリストを見せてもらったのだが、ほとんど見ない方がよかったかなというくらいの悲惨なものだった。辞書・語学書は何とか体裁をなしているものの、自分の作った一般書とか、全国のK屋チェーンの合計でひと月1冊なんて数字を見ると、本作ろうなんて思わない方がいいんじゃないかとか、本が売れるなんて思っていたことそのものが間違いだったというくらいのものだった)。
 何を書きたかったんだっけ? 要するに疲れていて、何かしていないと自分の中の「負(マイナス)」のパワーが噴き出してしまいそうだということ。こんなとき、「ドクター・キリコ」にインターネットで出会ったら、すぐ使わないまでもアレ分けてくれませんか、とか言ってしまいそうだ。いや、そんな格好いいレベルではなく、飲んでクダ巻いて、そのばかばかしさに急性自己嫌悪に陥ってマンションの手前の冬の運河に飛び込んでしまうとか、家人のちょっとした批評に傷ついて家出して隅田川ふち辺りで排泄しながら凍死するとか、そういうやり切れないイメージがまとわりついて抜けない。
 などと言っていても仕方ないので、結局本を読んでしまう。最近、本当によく本を読むんですねとか言われたりするが、大学を出て就職したとき、役員が「最近の奴は出版社受けるのに、履歴書に『趣味は読書』とか書いてくる奴がいるんだよなあ。馬鹿じゃないの」と言っていたことをいまだに覚えているくらいの人間なので、本に仕事で関わる人間としては、毎日1回は本屋に行き、月10冊くらいの本を読むことは当然だと思っている。そして本を読む時の比較的一貫性のある時間の流れ方に甘えてしまう、その向こうを想像しつづけることで、何とか「自分」という形を保っている、ということまで考え抜かないと、たぶん「次」はないんじゃないかと思い続けている。
 まあ、今年もあと4日(宴会2回)、イライラした疲れをなだめながら自分の本音と嘘を見つめて、大掃除と子守に精を出すとしよう。   


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