98.1〜2
98年1月
◯78/1の手帳から できの悪い英文科生なりに、原書を読もうと努力している。ジョイスの『若い日の芸術家の肖像』や、ホーソーンの作品など。
◯88/1の手帳から 再就職した32歳。早速仕事に振り回されるも、ヤプーズ(戸川純)や河合奈保子のライブ、当時売り出し中の遊・機械全自動シアターの芝居、他に舞踏公演などを見ている。まだ力があまっていた(笑)。
「新年のやや長い手紙」(98/1/10)
お元気でしょうか。会社や学校が始まったかと思う間もなく、関東地方では大雪が降り、JRの在来線が麻痺するのはまだしも、長野新幹線が麻痺したのには思わず笑ってしまいました。何のために山を切り開いて作ったのか。「雪祭」のためでしょうが、まったく何考えてんだか。てめえらの借金返すために働いてんじゃないぞっ。
と、少し熱くなってしまいましたが、実は私、今年はあまり熱くならないようにしようと思っているのです。まあ、このように社会の出来事に「ひとり投書欄」のように怒るのはいいとして、この社会のひとつの歯車として、会社のヘビーで理不尽な要求に押しつぶされないように、時には先回りさえしてきめ細かくその要求をこなすことで疲れながら、その疲れた自分を奪い返すように本をがんがん読んだり、コンピュータに向かって文を書いたりしても、結局どこか都合よく取り込まれてしまう、つけ込まれてしまっている。自分の時間を奪い返すためにもっと急げという、自分の要求に従っているのか、会社の都合に合わせて優等生やってるのか、よく分からないような自分の走り方に疲れた(ただ年のせいかもしれませんが)というのが率直なところで、走り方を見直したい、奪い返すべき自分の時間をもっとじっくりした深いものに変えていきたいと思うのです。
と言っても何かが急激に変わるとは思えませんが、さしあたり去年の暮れから読み始めた2人の合州国の女性作家を読むことが1つのきっかけになればと思っています。1人はゾラ・ニール・ハーストンさん(1891−1960)です。彼女が1937年に発表した『彼らの目は神を見ていた』(松本昇訳・新宿書房)を読んだのですが、1人の黒人女性がお仕着せの結婚から抜け出し、富や男性優位のコンプレックスにとらわれていない青年と結ばれて、自分の心の真実に気がついていく物語で、その遍歴が合州国の南部を旅するかたちで描かれ、ジャック・ケルアックさんらのビート・ジェネレーションよりも20年以上も早く「路上」を描ききったと言える傑作でした(まあ、その「早さ」については、ホーボーの歴史などがからんできて、もう少し複雑ですが)。黒人のフォークロアなどにも広く通じたハーストンさんは、一度認められたものの、黒人文学はもっと白人社会に対して闘争的でなければいけないとする、当時の男性中心の風潮にはじき出されたかたちで、その後長年忘れ去られていたのですが、作家のアリス・ウォーカーさんや文学研究者らによって再評価され、日本でも小説やフィールドワークの翻訳が進んでいます。気持ちのいい作家を見つけたと思っています。
もう1人はフラナリー・オコナーさん(1925−64)です。オコナーさんは難病で早く亡くなった作家ですが、作品のメインである長編2作、短編集2冊のほか、死後まとめられたエッセー集、書簡集、インタビュー集、各種の選集があります。去年の夏から継続的に読んでいる鶴見俊輔さんの著作のなかで、20世紀の合州国の作家でほとんどただ1人、鶴見さんが好きな作家という紹介がされていて、ふうんと思いながら、家人の本棚にあった『オコナー短編集』(2冊の短編集からの抜粋・翻訳、須山静夫訳・新潮文庫)を読んで引き込まれてしまい、その勢いで英語版の短編集"Everything That Rises Must Converge" (Farrar, Straus and Giroux)を読み、今はもう1冊の短編集"A Good Man Is Hard To Find" (Harcourt Brace & Company)に取りかかっているところです。鶴見さんは原爆を1発だけでなく、好奇心からもう1発落としてしまうといった、合州国の人間のキリスト教的な理想と現実の行動のずれを描くことのできた希有な作家という意味の紹介をしていますが、たとえば黒人は嫌いだが、黒人の子供はかわいいから好きだという意見を持つ、没落した家の出の白人女性が、バスで会った黒人の男の子に「おこづかい」をあげようとして、その子供の母親に激しく拒絶されてショックでおかしくなってしまう話(「高く昇って一点へ」、『オコナー短編集』所収)とか、都会で暮らす娘に引き取られた貧しい白人の老人が、自分は黒人と仲良くなるベテランだと自慢しようと、南部の昔ながらの黒人を馬鹿にしたジョークで同じアパートに住む黒人につきまとったあげく、突き飛ばされたけがが元で衰弱して死んでしまう話('Judgement Day')とか、自分の子供さえうまく育てられない大人たちが慈善をなそうとして、逮捕歴のある少女や少年(彼らは最近の日本のいろいろな事件の当事者ではないかと思えるくらいリアル)を家に引き取ったことで、自らが滅ぼされていく話('The Comforts of Home'および'The Lame Shall Enter First'、以上"Everything That Rises Must Converge"所収)など、いずれも緊密な小説作法で渇いた心の現実が描かれていて、深く呼吸するように読めるのです。その、深い呼吸を大切にしたい。
何のかんの言って、また本の話になってしまいましたが、本を読んだり作ったりするという、そのことに価値を見出しているのではなくて、今まで名付けられなかった感情に言葉を与えて解放するという原点を、この2人は私に再発見させてくれた、くれていると思っているのです。そして2人を読みながら、私のなかに生まれてくるスピード感(ゆったりした底で急流がうずまいているような)にそって今年はしばらく歩いていきたいと思っています。
寒い日が続きます。お体にお気をつけください。
「ただいま減速中」(98/1/21)
年末にぼろぼろに疲れて冬休みに突入し、三が日まで来客や近場の初詣以外はイベントも外出もなく、家族、特に子供たちとべったり付き合ったこともあってか、今年は去年までよりもゆっくりとした滑り出しで日々を送っている。もちろん会社による理不尽で不公平な突発仕事の押し付けといった事情はまったく変わらなくって今もそれで悩んではいるわけだが、家族からもらっている時間の濃密さのためか、改めて動じて戦々恐々として優等生的に対応するという気持ちがまったくなくなってしまっている。こっちは仕事のごみ箱じゃないんだし、朝夕、スポーツ紙を各自広げて雑談に興じているスタッフや、定時前から机を片付けて編集の悪口を言って時間をつぶし、定時1分前にはタイムカードの前で待っているなんて営業マンを思うにつけ、人数の 限られたセクションのメンバーでできるだけのことはするが、自分の力をジューサーにかけてまでしぼり出す気はもうないなあ、というのが、言葉にするでもなく身体で感じている率直なところ。
そのせいか、無理して自分を仕事に向かって駆り立てるための、さまざまな「儀式」とも縁遠くなった(たった3週間くらいで大げさな言い方だが)。毎昼休みにひと駅離れた神保町に行って古本屋をあれこれ回って、さすがに時間を食いすぎて、チェーンのコーヒー屋でマニュアル通りに作られたサンドイッチ(パンは斜め何度くらいに切るとか)を食べたりとか、会社に戻る前にもうひと呼吸おきたくてコンビニで雑誌の記事や知らない女性がめっきり多くなったグラビアを見たり、運勢の読みくらべをして一喜一憂したりということもしなくなった。なるべく火の通ったものを食べて(笑)、本もまとめ買いせずに1冊1冊読むペースに合わせて買う(今年今までに買った本は3冊だけ)なんてのが、元旦の計とか、言葉にして考えたわけでもないのにすんなり自分の今の呼吸に合ってしまっている。そう言えばテレビも時たまのニュースや天気予報をのぞけば、ほぼ完璧にビデオのモニターと化していて、家族が寝たあと音もつけずに壁紙のように付けっぱなしにして、時々ちらっと見て、あとは本を読んでいるなんてこともやらなくなった。
もう年なのかもしれないし(42歳)、結局のところ、もう本当に好きになれるものとの出会いなんてほとんどないんだろうと言葉にしないまま思い定めてしまったということなのかもしれない。それでも前回に書いたように、好きな作家を見つけたりするということがあって、そのことをこれまた言葉にしないまま大切にしている。その1人であるフラナリー・オコナーさんの長編2冊がもう翻訳本も絶版で図書館でも見つからないから、原書で1冊買ってきて(あと1冊はインターネットで注文ズミ)、去年までならば仕事の切れ目に社内を歩き回って、情報交換してなごんだりしていたのだが、それをする気も起こらず(なごんだって何も変わらないなら、会社との緊張関係をひりひり感じていよう)、机で一人その原書を読んでいるなんてのはキザで偏屈に見られるかもしれないけど、自分ではそれを読みたいからやっているだけ、という今。
手帳に細かすぎるくらいの段取りを書き込むこともやめてしまって、昨日と今日は違うけど今日はいったい何日だっけとか思いながら、何かやりたいこと書きたいことなど、鮮明に浮かびあがってくるのを待っている。それは決して本には書かれていない。
雑談。こう淡々と書いていますが、今日帰宅したら下の子が肩を脱臼していて本当にびっくりしたなあ。いい気持ちはしないけど、何とか乗り越えられるだろうと家人と励ましあって暮れる一日。
追伸(1月22日記) 今朝、家人が接骨医に連れて行ったら、肩ではなく、よくある肘の脱臼であっという間に直ったとのこと。お騒がせしました。ついでに言うと、伸ばしてはめちゃえ的な素人療法はあまりよくないとのことです。
98年2月
◯78/2の手帳から ボブ・ディラン初来日公演(武道館)、でもすでに往時の迫力はなかった(今でも現役ですが)。蜷川幸雄演出・平幹二郎主演の「王女メディア」(日生劇場)、迫力だけはあった(笑)。
◯88/2の手帳から 友達がタダ券を手に入れて、武道館で中森明菜コンサート。が、開場を待たされたという以上の記憶はまったくない(笑)。
「静のフラナリー、動のゾラ(その1)」(98/2/7)
この正月休みから、新潮文庫の『オコナー短編集』(須山静夫訳)を皮切りに、フラナリー・オコナーさん(1925−64)の作品に目覚めてしまって、若くして死んだ彼女の主要な作品である、2冊の長編("Wise Blood", "The Violent Bear It Away", ともにThe Noonday Press)と2冊の短編集("Everything That Rises Must Converge", Farrar, Straus and Giroux, および"A Good Man Is Hard To Find", Harcourt Brace & Company)を読み、今は、単行本未収録の作品を含めた『全短編集』("The Complete Stories", Faber and Faber)を洋書店で見つけてきて、読み始めているところ。
短編についてはすでに少しふれたので、長編について手短に紹介しておくと、ともにテーマになっているのは狂信だ。と言ってもカルト集団が登場するわけではなく、個の心に強迫観念のように根づいた狂信が問題になっている。"Wise Blood"では、「キリストのいない教会」という観念に突き動かされた青年ヘイゼル・モーツが町で説教を始めるが、舌足らずの真面目なだけの説教に誰もついてこない。彼に目をつけた弁のたつ男フーヴァーが、自分と組めば大もうけできると誘いをかけるが、自分の観念にとりつかれたヘイゼルに拒絶される。これを根にもったフーヴァーが、ヘイゼルに似せた男をかつぎ出して、にせ説教を始めて大当たりをとるが、自分のダミーである男をヘイゼルは殺してしまう。そして、自分が汚れてしまったと感じたヘイゼルは、自分の目をつぶし、靴に石を敷きつめ、胸に有刺鉄線を巻くという苦行の日々の末に死んでいく。
"The Violent Bear It Away"(タイトルはマタイの福音書から。「激しく襲う者たちが天国を奪いとっている」という意味)も、大叔父に仕込まれたゆがんだ信仰にとらわれた少年ターウォーターと、その大叔父への反発から無神論者になった教師レイバー(ターウォーターの叔父)との一種の神学論争が、レイバーの精薄の息子ビショップをどちらが救えるかという形で展開されるが、ターウォーターは休日の旅先の湖で、付きまとうビショップを殺してしまう。息子の死に一種の安堵を覚えるレイバーに、ターウォーターは勝ったかに見えたが、大叔父と暮らした土地で自分の信仰とともに暮らそうと意気揚揚と帰ってきた彼を待っていたのは、大叔父の埋葬さえ酔っ払って満足にできないまま飛び出していった「不良少年」を、軽蔑しきった黒人の小作男の目だった。
こうまとめてしまうといかにも暗い話のようだが、たとえば"Wise Blood"についてフラナリーさん自身が「喜劇的な小説」であると明言しているとおり、誇張されることで浮かびあがる人間の心を問題にした、ともに知的でするどい感受性によって書かれた作品だと思う。カルトが集団として描かれるのではなく、あくまで登場人物個々の心の問題として描かれているのもそのためだろう。たとえば"Wise Blood"で主人公ヘイゼルに付きまとう少年イーノックは、言葉にできない本能的直感(wise blood)で行動するが、都会で守衛をしながら誰も友達ができないと嘆く彼は、ある日、映画のプロモーションでやってきた、ぬいぐるみのゴリラと握手して、都会に出てきて初めて握手できたと喜ぶ。そして彼は、そのぬいぐるみを盗んで、森の中で今までの衣服を脱ぎ捨て、人に喜んで握手してもらえるゴリラとして生まれ変わろうとする。その悲しさと愚かしさとおかしさが同時にわきあがる瞬間は、他の作家の作品ではなかなか見つからない。
オコナーさんの長編は、20年以上前に翻訳紹介され(邦題は『賢い血』『烈しく攻むる者はこれを奪う』)、今は絶版だ。新しい日本語訳で再評価されるべきだと思うんだけど(アメリカでは今でも大御所です、念のため)、昨今の出版事情では難しいかもしれない。
(この項、続く)
追記 ここまで書いたら、家人が、そう言えば大江健三郎さんの小説『人生の親戚』(新潮社)でも、オコナーさんが話題として出てくるわよ、と教えてくれた。何をどう言っているやら、10数年ぶりに大江さんの作品を読んでみるか。
「ある習作−−静のフラナリー、動のゾラ(その2)」(98/2/15)
フラナリー・オコナーさんの習作の短編を紹介します。長文ですので別ファイルにしました。
「ちょっと雑談、あるいは英語人生−−静のフラナリー、動のゾラ(その3)」(98/2/24)
最近しつこくふれているフラナリー・オコナーさん(1925−64)の単行本未収録の作品を含めた『全短編集』("The Complete Stories", Faber and Faber)を読み終わったところ。初期のアイオワ州立大学の修士論文(創作コース)としてまとめられた作品集『ゼラニウム』("The Geranium", 1947, 未刊)が読めたのはありがたかった(ついでに、彼女のこの時の担当教官が、後に同大学の国際創作科のリーダー的存在として、日本からも吉増剛造さんを始めとする多数の詩人を招いて、彼らに国際的な詩人のネットワークとつながる機会を与えたポール・エングルさんだったということもわかった)。彼女と出版人として深く付き合ったロバート・ジルーさん(合州国の有名出版社ファラー、ストロース&ジルー社の社名にもなっている大立者。ジャック・ケルアックさんをデビューさせたのも彼)の序文もフラナリーさんが結局死後に刊行されることになった短編集"Everything That Rises Must Converge"(1965, Farrar, Straus and Giroux)に収める作品を死の直前まで差し替えたりしていたなんてエピソードを紹介していて読めてよかった。
作品としては『ゼラニウム』の他の短編集未収録作品は、後に長編に吸収されたものがほとんどなので、新しい発見というほどのものはあまりなかったが、『ゼラニウム』に収められた「収穫(The Crop)」という作品が初々しくてつい試訳してこのホームページにアップしてしまった。弱冠20歳にして、作家という存在を突き放してユーモラスに書き抜いたことに、私としては並じゃない成熟を感じたからだ。他には先の短編集"Everything That Rises Must Converge"に入れられなかった「パートリッジ祭(The Partridge Festival)」が、やはり選にもれたとは言ってもフラナリーさんがプロとして脂がのっていた時期の作品だけに面白かった。地域をあげてのイベントであるツツジ祭(その呼び名が「パートリッジ祭」)のバッジを買わなかったために、村八分的な笑い者にされたあげく銃を乱射して6人殺した男を、息がつまるような地域社会の犠牲者だと考える甘ちゃんの文学青年と文学少女が、競い、そしてけしかけ合うように収監されている男(蓋をあけてみれば、ただのアブナイ男だった)に面会に行く珍道中を描いた話だが、こうした合州国のブラック・ユーモア的な批評精神は、今で言えば映画監督のロバート・アルトマンさん(「マッシュ」「プレイヤー」他)や彼の後継者とも言えるティム・ロビンスさん(「ボブ・ロバーツ」「デッドマン・ウォーキング」、出演作の「ショーシャンクの空に」も傑作!)といった人々に受け継がれているのではと思う。そう言えば長編『賢い血』("Wise Blood", The Noonday Press, 原著は1952刊)でも、警官が主人公の車を彼のことが気に入らないというだけの理由で後ろから押して崖から突き落としてしまうエピソードが出てきたが、これなど完全に若き日のデニス・ホッパーさんが監督した映画「イージーライダー」(1969)の気に入らないバイク野郎を警官が撃ち殺すという、あのエンディングの先取りではないか。いったい「正気」であることとは何なんだ。
わき道にそれて「英語人生」の話に至らなかった。次回を待たれよ。
「続・ちょっと雑談、あるいは英語人生−−静のフラナリー、動のゾラ(その4)」(98/2/25)
さて続きですが、考えてみれば何のことはない。最近いわゆる洋書の紹介ばかりしているけれど、そんなに英語ができるわけではないんですよ、というだけの話だった。大学卒業時、今ほど文学部生の就職が楽ではないし、こちらも就職なんて仕方ないからするだけの話なんて構えていたから、受けた会社を片っ端から落ちまくり、こうなったらと大学院を受けたら主任教授に「こんなに英語ができないとは思わなかった」と言われてこれも落とされた。それが何故か結局3月の卒業ぎりぎりに辞書・教科書の出版社に就職が決まり、卒業旅行も何もなく英語関連の編集職に付き、紆余曲折はあったもののその後20年間ほとんど同じようなことをし続けてきた。おかげでさすがに英語を読むことには慣れてきたが、いまだに聞く・話すはお手上げで、ネイティブ・スタッフに「コーヒーいい匂いね」と英語で言われただけで「何て言いました?」なんて聞き返しているくらいなのである。
まあ、洋書を読むと言っても英語だけなわけだけれど、英語を読むことに慣れてきたというのと、後はやはりたとえば小説の場合、その人の英語の文体が自分になじむかどうかの見極めが少しはできるようになったことがある。文体は作家によってさまざまで、特に私の場合、たとえば描写がやたら長い、風景とかインテリアの説明とか、名詞がとめどなく出てくるような文体はいかに辞書を引くのが早くなったとは言え降参という感じだ。学生の頃からそうだったけれど、どちらかと言うと感覚的な文体がなじむようだ(ガートルード・スタインさんとか、ジョイスさん−−ただし長編は降参−−とか、最近で言えばリズム感のある歯切れのいい文を書くジャメイカ・キンケイドさんとか)。入試問題に出るような論説文なんて見ると頭がくらくらして、受験生ってこんな難しい英語ばかり読まされているんだなあとため息が出てしまう。それと本を手に入れるということではインタ−ネットの出現が大きい。いくら読みたい本があると言っても、今まではM善とかK沢とかの洋書店の何故か偉そうな対応をする店員に頼んで取り寄せてもらうしかなかったわけだが(それも特別な注文にしないとすごく時間がかかって、手元に着いた頃は読みたい気持ちが薄れているなんてこともしばしば)、それがインターネット上の書店のデータで検索して好きな本を好きなバージョンで注文すれば(よほど古い本でなければ表紙も見られる。後はアンソロジーなどの場合、目次も分かると完璧)、2、3週間で海を渡って届く。これは気持ちがいいですねえ。日本の本屋で店頭にない日本の本を注文した時のスピードとほとんど変わらない感じです(ということは、洋書店にとっては先が暗いということかもしれないが)。
そんなこんなで英文解釈に毛の生えたような語学力で日夜洋書を読んでいるわけです。プロの翻訳者の場合、大学の教師兼任という形でもなければ、単行本の翻訳では生活できず、雑誌翻訳に追いまくられている人が多いと聞くが、そういったシビアさとは遠いところで、ああ、少し読めるようになったなと思えるのが楽しい。
すみません。ただこれだけの話でした。本当は、今、口語英語を中心にした辞書作りを仕事のメインにしていて、その辞書の1冊に、昔の規範文法(要するに英米でインテリの英語はこうであらねばという規準・模範を示した文法)ではいけないとされている表現が出ていると何度も電話で苦情を言ってくる読者がいて、こちらが「でも複数のネイティヴのチェックを通して、これが口語としては自然だという表現を載せていくという方針なんですが」などと言うと、「あやまらないのがけしからん」と思って余計熱くなるのか、「口の聞き方もわからないんですかっ」と電話口でシャウトするというすごい人で、この人についてもっと書こうかという思いもあったのだが、気持ちが暗くなってきたのでやめておく。今はその人が英語教師でないことを祈るだけだ。
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