97.9〜10
97年9月
◯77/9の手帳から 大学3年の夏休みの終わり。あまりに暇なので名画座をはしごしたりしている。
◯87/9の手帳から すごい美人と映画「カラヴァッジオ」(デレク・ジャーマン監督)を見ている。金も定職も自信もなかった頃。
「学校という場所」(97/9/5)
2学期が始まった。カオル(娘・小学1年生)は寝坊して、というより早く起きてもごろごろしてたり、ちょっとの時間にマンガを読んでしまったりで、毎日遅刻しそうになりながらも元気に通っている。まだ子供同士でコミュニケーションをとって遊ぶことがうまくなかったり(今は地域の子供集団が崩れてしまって、年長の子が面倒をみてくれることはほとんどない)、もともと彼女が自分の言うことをちゃんと聞き取ってくれる大人が好きだったりということもあって、国語や算数など宿題も多いし、隔週週休2日制のせいでもあるのか、1年生にはちょっときついスケジュールかなと思うが、先生の言うことを聞いて楽しい「小学生ライフ」を送っているようだ。
ひとつ面白いと思ったのは、水泳の指導だ。浮いたり沈んだりや息つぎを遊び感覚で短期間に身につけさせてしまった。カオルは去年まで水に顔をつけるのも大騒ぎだったのに、夏休みも学校のプールに熱心に通って、あっと言う間に少しだが泳げるようになってしまった。今も毎日、風呂のお湯に顔をつけて息つぎやバタ足(!)の練習に夢中だ。学校によっていろいろと違っていたのだろうが、私が小学校の時(60年代)は、とにかく何も教えてくれなかったのと比べると、少しは教え方が進歩したのかという感慨がある。私の小学校では、親が仕込んだり水泳教室に通ったりで、最初から泳げる子ができる子で、他の子はバタ足の練習くらいさせられて、あとは見様見真似で泳ぎを覚えた。音楽でもいきなりオルガンを弾いてみましょうなんてことになり、家でピアノを習っている子が上手で、習ってない子は音感も悪いし結局弾けないから、ハーモニカか笛でも吹いていなさいという感じだった。
考えてみると、小学校から大学にいたるまで、どうすれば知識や技術が身に付くかという方法を習った記憶がない。ばらばらな点としての知識を与えられて、その暗記力で評価されるのがほとんどで、それを結びつけて線にしたり、全体的な構図の中に配置して有機的に身に付けるといったことも、学校という場所ではほとんどヒントをもらっていないと思う。大切なことは、友達と話したり、面白いと思う本を教え合ったり、ミニコミや同人誌を作りながら、時にはぶつかり合って自分の想像力の限界を思い知らされたりすることで学んできた。結局、独学だ。
今日も昼休みに、神保町の本屋街を歩き回って、ふだんは近寄らない分野の本棚を見たりしながら、学校が考えるための、学ぶための技術を教えてくれる場所だったらよかったのにな、と思ったが、そう思っても学校という場所について批判的に考える参考にはなっても、そこを通り抜けてしまった自分についてはもうどうしようもない。人から本から刺激を受けつつ、自分で考えていくしかないのだろう。
今日は家に帰ったら、カオルが学校のどんな話を聞かせてくれるかな?
「大げささについて」(97/9/16)
この夏以来、鶴見俊輔さんの著作を続けて読んでいる。会社のある日はほとんど毎日のように、昼休みに近所の神保町に行って、新刊や古本をさがす。筑摩書房から出ている著作集が、「転向研究」など一部の巻をのぞいてまだ売っているのだから、それを買えばいいようなものだが、会社の行き帰りに電車で読んだりするには分厚くて重いし、それに元の本の編集のここからここまでという起承転結に愛着を感じてしまうのだから仕方がない。どうしてもなければ図書館でさがせば大体は見つかる。他の自治体でも似たような方向を辿っているのだろうと思うが、私の住む東京の江東区では区内の全図書館の所蔵本を開架、閉架を問わず、備え付けのパソコンで自分で検索してリクエストできるので、本を自分のものにしてゆっくり読むということにこだわらなければ十分使える。この調子で、あまり読まれなくなった本も廃棄したりせずに、倉庫にでも保管していつでも貸し出せるようにしてほしい。
何か会社の仕事と子育ての時間の他は、本ばかり読んでいるような生活だが、趣味もないし、気軽に会える友人たちも心を病んだり東京を脱出したりで、ここ数年でだいぶ減ってしまったし。音楽も舞台もひどく大げさなものに感じるようになってしまった。CDを聞いても、世の中こんなに表現があふれているのに、わざわざ手の込んだアレンジをして大きな声で歌わなくても、などと思ってしまうし、芝居やダンスにしても突き抜けてくるものがなければ、お仕事に付き合わされたという気持ちになってしまう。
なぜ大げさに感じられるかというと、それはたぶん現在の多くの表現が自らのスタイルを疑うことなく、その宣伝や流通、評価まで、すでに確立された場所に向けて作られているからだろう。言い換えれば、表現が自らを情報化して、商業的安定、拡大再生産を目指してしまうとき、その表現は情報化しやすい、分類して名付けやすいもの、つまりすでに表現されたものの焼き直しへと向かってしまい、世界に対して緊張感をもって誕生するものではなくなってしまうからだと思う。そして、それにもかかわらず、何か新しい表現がなされたかに思わせようとする身振りが、大げささを感じさせるのだろう。
本の世界がそうした難を逃れているというわけではもちろんない。最初からエンターテインメントと割り切れるものはともかく、人文・文芸の世界でも事情は似たようなものだ。雑誌の注文に合わせて水増ししたような目の粗い文章を集めて評論集を出したりするのは(メディア側の責任も大きいと思うので誰とは言いませんが)、評論家や出版社の勝手だとしても、それをすぐ「気鋭の何とか」というように権威化する。作りすぎて企画が埋まらない劇場のように、人文・文芸のためのスペースを埋めなければならないメディアの要請なのだろうか。スペースが埋まらないなら、近ごろ話題のやたら「汗を流す」のが好きな佐藤某氏の突き上げ大キャンペーンでもやればいいようなものだが、それもまた分野別という縄張りができあがっている新聞などではできないのだろう。
そう言えば鶴見さんの本は新刊本の店はともかく、古本屋では結構さがしにくい。文芸とか、歴史、哲学といった各ジャンルの中で権威を与えられた著者の本は高い値段をつけて大切にされるが、鶴見さんのように、哲学、文学、歴史などからマンガ論、市民運動まで、横断的な仕事をした人の本は価値付けしにくいものとされているようだ。日本の学問世界の価値観を古本屋もそのまま引き写していると言える。
「詩をふみわる詩人 江代充さん」(97/9/18)
江代充さん(えしろ・みつる 1952− )の、詩集『みおのお舟』(1989)、『白V字 セルの小径』(1995)に続く作品集『黒球』(「こっきゅう」と読む、以上書肆山田)が出た。同じ同人誌「壘」のメンバーとして、仲間ぼめにならないように気を付けながら、江代さんの新作について紹介しておきたい。
『黒球』は日付の付いた日記的断章、おそらく第一詩集『公孫樹』(1978・青土社)のあとがきで、1971年から続けていると書かれていた生活記録から、選択され加筆修正された記述を再構成した12編の作品から成っている。それぞれの構成は必ずしも日付順ではなく、70年代から90年代のものまで、あるときは10数年分をも飛躍し、またあるときは日付を逆に遡るというように、物故作家のある時期をかいま見るというような、いわゆる日記本とは、ひとつひとつの記述を取ってみても、まったくかけ離れている。
先の方に裏庭からながれ込む光が見え、もう一人別の人がいるようだった。そこまでは、まだほんの少しの道のりがあるのに、すでに庭へ出るときの硝子戸が体側へ寄り添うようなまぢかに迫り、そこでわたしは庭の光を全身に浴びた。(「二つの補遺」)
言葉が適切ではないかもしれないが、書き手は生活面での人格からつねに剥離し、あるいは遅れていて、生きている自分に対して違和感を感じ、不思議そうに見つめている。剥離している人格と書き手をつなぐものは、記述という行為と、しばしば病いや痛覚とともに思い出される身体である。そして、その人格の剥離がイメージではなく、身体的な痛みをともなって現実化したものが、「黒球」という言葉で言い表されているものだ。
それぞれの記述は、現実の生活面のあれこれを日記風に綴る部分ももちろんあるし、恋愛感情をある程度追いかけられるところもあるのだが、書き手自身が現実の生活面の人格から剥離しているために、記述は現実を再構成する機能を離れた、ねじれた描写となり、あるいは夢や記述された心理的な映像と現実の境界が曖昧になり、さらには身体感覚やそれを書きつける言葉やその展開を凝視することによって暴力までも呼び出してくる(「母の名はビオラ」「黒球」「薄荷商人 I」など)。だから読む人があるストーリーを追いかけようとしても、記述の展開に取り残されて、ひどくプライベートな世界に不十分なかたちで立ち会わされていると感じてしまう可能性もあるのだが、あくまで記述の細部にそって読み続けてほしい。
川原嬢がいなくなってから三か月が経つ。家の裏庭の小高い樹木がまぢかに見える。公園の樹木全体がコンクリートで塗りたくられ、子供たちは不在。あるいは何かの心の上にコンクリートがながされ、あのように木をかたどったものなのか。その樹樹の間を靴の音を立てて歩いた。(「二つの補遺」)
そして友のいる部屋に着いたことはよく分かるのだが、そこに残されていた手ざわりの現実には、このわたしと関係しているに違いないと思われる、(無関係な)ことばが組み入れられ、友は黄色い畳の上で窓辺に坐り、ただ夜の戸外を眺めているところだった。(「薄荷商人 II」)
首をしめると彼女は前屈みになり、そこに途切れている声でまだ笑っていた。両腕は体の前方で横へ足掻いたが、ぼくには木立ちのなかにまとまった二人の姿が見え、女が後ろへ寄り添うように倒れ込むと、黒い地面にゆっくりと彼女を置いた。その時はもう事切れていたと思う。その時はもう事切れていると、わたしは信じることができた。(「黒球」)
書くこと、読むこと、生きることの、困難で新しい場所に、私たちは江代充さんの記述とともに立つ。それは詩や文学というものの存在を前提として見る場所からは、希薄でマイナーな場所だし、テキストを介在させたコミュニケーションといった夢を粉砕してしまう場所だが(ニヒルとはちがう。江代さんの記述にはニヒルを表明することで共感を求める余裕などない)、言葉と自己を追いつめた一つの結晶だと言えるだろう。
この疲れに塞がれ、ここで生きることが止まるような気もするし、あるいはまた、始まっているのだ。(「樋の歌」)
生命を持ちお互いがただ道の上で交叉するなど、単純でいて、その限り新しい行為をわたしの意味に置き換えることは難しかった。
どうか奥行きを持ったわたしの眼が、ただ見るというあなたの前にあるように。(「九月へ」巻末作品のラスト)
「悪口について」(97/9/27)
あれほど世間を騒がせた佐藤総務庁長官の入閣問題だったが、朝日新聞を見るかぎり、辞任(9/22)の翌日の朝刊ではなばなしく取り上げたあと、この話題はもう済んだことのようにぴたっと載らなくなってしまった。国会などとのからみで、また蒸し返すのだろうと思うが、おそらく担当記者たちとしてはあまり自民党を刺激して、ネタがもらえなくなるのを恐れて手控えているといった事情もあるのだろう。
それにしても23日の朝刊はすごかった。一面の頭を下げる橋本首相のカラー写真の下に、吉田慎一という編集委員の論説があったが、この文章が、「なのに批判が噴き出すと」「最後はなんと」といった、ニュースキャスターも使わないカジュアルな文体で、「小里貞利新長官が踊り始める第二幕にどうして関心が持てるだろう」とまとめていく。おいおい、いくら何でもここまで下品な悪乗りは許されないだろう。もともと朝日新聞は社民党同様、この話題に関しては、すべり出しが遅かった。それが世論調査などの追い風を受けて、あわててスパートをかけて、最後に自分が鬼の首でも取ったように(もっと言えば自分が権力をとったかのように)書くというのはマスコミの「奢り」じゃないか。そこに至るまでの記事にしても、「週刊文春」の方が、佐藤元長官についてのくわしい紹介を載せたり、立花隆さんの、そもそもロッキード事件の際に、中曽根ルートまで検挙できるだけのパワーが検察になかったことから、自民党の体質改善がなされなかったといった分析を載せて、わかりやすかったが、朝日にはそうしたジャーナリズムとしてのアプローチがほとんどなく、最後は感情論で押し切ってしまったかたちだ。
今回はこうした力まかせの辞任劇になってしまったが、日本の民主主義というものが、「選挙」「多数決」といった以外の機能をほとんど育ててこなかったことにも問題があると思う。たまたま1990年に出た久野収さんと鶴見俊輔さんの対談集『思想の折り返し点で』(これも朝日新聞社)を読んでいたのだが、その中で鶴見さんが、当時も問題になっていた佐藤元長官の入閣問題について、数学者の森毅さんが書いたエッセー(「倫理と人情」)から引用していた。一部を孫引きすると、リクルート問題で指弾されている人間でも立候補する権利は無条件にあると発言したという話のあとで−−
しかしながら、佐藤(孝行)入閣問題のときは、もう言う気力を失った。支持しているわけでもないのに、どうしてあの人たちの肩ばかり持たんならんのや。執行猶予期間が終わると、彼の罪はつぐなわれたことになる。過去を消すルールを作っておかぬと、前科者差別はなくならない。これもぼくにとって、前科者差別をなくすことのほうが、ロッキード問題より重要に思える。人間はなるべく現在で評価するほうがよくって、過去をほじくりかえすのは悪い趣味だ。
倫理というものは、感情を制御することに意味がある。憎いとか嫌いとかというのは、倫理ではない。(元々の引用の省略)
それで、ぼく、ムリして、モラリストしています。
正義感とかでものを言うのは一時の快感はあるが、投票以外に有権者の意見をフィードバックさせる仕掛けを作るとか、民主主義の「ルール」っていったい何なんだと考えてみるといった作業なしには、結局その先に行けない。声高に悪口を言って、何事かをなしとげた錯覚に陥る政治家やマスコミが栄えるだけだ。
こんなことを考えていたら、「現代詩手帖」(思潮社)の9月号にスガ秀実さん(「スガ」は糸偏に「圭」を組み合わせた外字、他意はありません)が加藤典洋さんの本について文章を書いていると、 詩人のAさんがメールで教えてくれたので書店に見に行った。文学学校のような場所での話をまとめたもののようだが、立ち読みしてびっくり、全編、下品な悪口大会なのだ。スガさんによると、加藤さんも鶴見さんも、加藤さんの大学の同僚の竹田青嗣さんも、ちゃんと説明する必要もない馬鹿な人間だということらしく、さっと読んでも、なぜそう思うのか、言葉尻をつかまえた悪口しか書いていないので、全然わからない。議論を共通の場で深めていく気持ちがないということだろうか。悪口を言うなら言うで、言うための礼儀(ルール)があると思うのだが。何も考えずに載せている(か素晴しいと思って載せている)編集者も困ったものだ。
97年10月
◯77/10の手帳から 大学3年の授業(英文科)でメルヴィルやボールドウィンなどを読んでいる。ボールドウィンについては、まったく記憶にない。あまり勉強してなかったのでしょう。
◯87/10の手帳から 浪人暮らしもそろそろ限界。再就職をやっと本気で考えてる、世間知らずの31歳。映画:カルロス・サウラ監督「カラスの飼育」、主演はアナ・トレントでした。
「宇井純さんの雑誌連載がすごい」(97/10/5)
辞書のCD-ROM化を春に終え、それに続く辞書数点をパソコン通信でのオンライン課金サービスにアップするという作業も峠を越え、やれやれ今年は紙の本は作らずじまいだな、パソ通の仕事が終わったらゆっくり辞書のチームに戻ろうなんて考えていたら、隣の雑誌セクションのスタッフが続けて退職し、人の手当が間に合わないので助けてやれなんてことになり、今はパソ通の仕事と辞書の原稿整理と雑誌の入稿なんて仕事を並行させてやっている。私は聖徳太子じゃないって(若い皆さんのために補足しますと、同時にいろいろな事どもを処理する量が、私の限界を越えているという愚痴です)。それにしても今年は難度の高い仕事の当たり年だ。気力のある内に書きたいことを書いておこう。
さて、宇井純さんの「三省堂ぶっくれっと」(隔月刊)での連載、「南海通信−−「公害原論」補講」がいよいよ佳境に入ってきた。連載24回(9月発行の126号)にして、まだまだ続きそうで、単行本になるのは当分先になると思われるので紹介しておきたい。
宇井さんは60年代から活動する、公害問題を専門とする世界的な土木工学者なのだが、同時に政財界と癒着する日本の大学や学会によって、長年東大助手どまりという形で冷や飯を食わされてきたことでも世界的に有名である。 この連載は沖縄大学に教授として赴任した宇井さんが、これまでの活動や、日本や世界の公害問題について、その対応の問題点などをまとめてきたものだが、今回の「下水処理と日本式利権構造」はすごかった。現代の日本人として本当にうんざりする内容だ。
最初はまず研究費の話。宇井さんは学者であるからして研究費を申請するのだが、今の今まで1回も通ったことがないと言う。東京を離れて沖縄に行こうと、おまえに恥をかかされたことを厚生省や建設省も財界も、そして彼らとつるんだ土木工学一家も絶対忘れないというわけだ。よって宇井さんの今までの研究費は、東大助手時代のお手当的な若干のものの他は、WHO(世界保健機関)やフルブライトによる奨学金などの海外からのもので、その他はほとんど手弁当、国際学会などへの旅費が日本国の機関である海外協力事業団から出るようになったのも、やっと3、4年前だというから、日本の政財界と学会のネットワークの執念深さに恐れ入る。
ここまでは序の口である。ある時、オランダで宇井さんは、下水処理の安価ですぐれた方法を教えられて感心する。それを考案した博士は、日本の業者も権利をとったはずなのだが、あまり売れないらしい、なぜだろうと言う。宇井さんが帰って調べてみたところ、要するに日本の業者にとってその方法は安すぎるのです! 安すぎて利益が薄いので余計な施設を付けて値段をつり上げているのだが、宇井さんが見たところ、その余計なものによって下水の処理機能は落ちてしまう。結局、この業者と学者らがつるんで下水道事業団作りなどにも関与し、この能力は低いが儲けになる方法が今の業界の標準になっていく。
このひどさを宇井さんは数字でも示している。予算の少ない工場の排水処理施設を宇井さんが指導して作ったところ、オランダ式の応用で6千万円でできた。その近所に県が作った同規模の下水量を処理するための施設は51億円かかったそうで、しかも宇井さんの指導した方は守衛さん1人いればあとは無人運転なのに対し、お上の作った方は20人の人間が3交替でついていないと動かない、しかも肝心の下水処理の中味は……。そして、この差額はもちろん施設工事を大がかりにしたためだけではなく、業者や政治家のポケットに入っていく、元はすべて税金です。
宇井さんは、大学の助手に任期制を導入する法律が今年作られたのは、言うことをきかない助手をつぶすためだろうということも書かれている。その上で宇井さんは、新しい研究者たちの動きも紹介しつつ、必ずしも悲観的なことばかりではないという意味のメッセージで文章をしめくくっているが、ここまで読んでくれた皆さん、どう思われますか。
「美について」(97/10/15)
連休の日曜日に、近所の都の現代美術館に「ポンピドー・コレクション展」を、ちょうどピカソとサティ、コクトーが組んで構想したバレーの無料上演が見られる日だというので行ったのだが、上演の30分くらい前にぶらぶらと歩いていったら、今までその美術館では見たことのない長蛇の列で入場制限をしていて、しかも外から大きなガラス張りの上演会場を覗いたら、すでに立ち見の余地もない様子だったので、一回並んでからやっぱり嫌になって帰ってきてしまった。
パフォーマンスを見ることからしばらく遠ざかっていたので、そのバレーを見られるのなら見ておきたかったのだが、他のいわゆる美術作品については残念という気はしなかった。と言うより、私には美術作品の面白さというものが、だんだん感じられなくなってきているのだ。この美術館の常設展を、夏のお盆休みに久しぶりに見たときも、場違いな、居心地の悪い気分がした。個々の作品に偶然出会ったら感じられるかもしれない感動も、「美術」の名の元にひとくくりにされてしまうと、これらの作品が何物かであるというのは本当だろうかという、身構えた気分になってしまうのだ。大げさに言ってしまうと、美術にかぎらず、音楽や舞台芸術や文学も、それらがジャンルとしてまとまったかたちで意味を持つというのは、今や廃れる一方の長期間にわたった流行現象のような気がしている。
私には「美術」がわからない。今年の春から、亡くなった画商であり美術についての文章家だった洲之内徹さん(1913−87)の「気まぐれ美術館」シリーズ(新潮社)を読み続けているのだが、図版が豊富なわけでもない洲之内さんの本に惹かれるのも、たぶん彼が読みといて語ってくれる美術作品の魅力のせいではなくて、洲之内さんの文章自体のためなのだろうと思えるようになった。たとえば、松本竣介さんの作品を好きなくせに、松本さんの戦時の作品や反戦的な言動についてとなると、暴風のようになって止まらない悪口を書く。大学教授が文献を駆使して書いた作家論に、あなたには本当にこの絵がそう見えるのかと連載の何回分もかけて噛みついていく。かと思うと、公募展などでは振り返られることのない青年たちの絵の魅力を、慈しむように静かな筆致で書く。
たぶん私は洲之内さんの文章から、美術についての文章を読んでいることも忘れて、自分の傷を癒してくれるものを受け取っているのだろう。大原富枝さんによる評伝『彼もまた神の愛でし子か』(講談社、現在は小沢書店の「大原富枝全集」所収)、亡くなる前の洲之内さんとの対話に触発されて(反発して)書かれた司修さんの『戦争と美術』(岩波新書)、洲之内さんの経歴や書誌などをていねいにまとめた、京都の林哲夫さんの主宰する雑誌「ARE」の6号(林さんの連絡先は京都市西京区上桂森上町18-12)などを読むと、洲之内さんの足取りが辿れる。四国の松山から上京、今の芸大に入学するが、左翼活動で逮捕され退学処分になる。松山に帰ってからも活動するが、再逮捕。左翼に詳しいからという官憲の推薦を受けて中国に渡り、軍のための諜報活動の仕事につく。彼の事務所は従軍していた芸術家たちのサロンになった時期もあったり、また軍に捕まった中国の青年たちを受け出して助手に雇って自分の気持ちを満足させていたりしたが、そうした自由が認められたのは、いわゆる「三光作戦」のための現地調査資料を作るなど、軍にとって彼がすぐれた人材であったからに他ならない。元活動家としての傷の深さは相当なものだったろう。あの年代の日本の男としては仕方ない部分もあるのかもしれないが、女性たちに対するサディスティックな振るまいで、自分を支えていたこともあったようだ。
戦後、そうした傷を塗り込めるように小説を何本か書き、新人賞に推されたこともあったが、自分の傷に拘泥しすぎているといった批判もあり、受賞できなかった。家族も半ば捨てたようなかたちでいろいろな仕事を転々としたあと、画商になり、アカデミズムやジャーナリズムからは見落とされた作家たちを次々に発掘、紹介していった。自分が紹介したい作家や作品を探して旅しつづけた洲之内さんには、たぶん「美」だとか「芸術」だとかのゴタクは関係なかったのではないか。癒せない傷がうずくにまかせて、そうした自分をゆだねられるものを探し続け、それについて書き続けた洲之内さんの文章に、私もまた自分の傷に擦り込む薬のようなものを感じて、「美」とは関係なく読み続けてきたと言える。
本当に個別な体験にとどまらない「美」なんてあるんだろうか。今日、家に帰ると小学1年生のカオルは「図工が好きだから早く明日になってほしい」と寝る前に楽しそうに言っていた。
[ジャーナル目次]
[このまま読み続ける]
[トップ・ページ]
[リンク]
[ライブラリー]