2003.8
2003年8月
◯83/8の手帳から 長谷川四郎さんの本をたて続けに読んでいる。あくのない透明な緊張感が好きだった。
◯93/8の手帳から ケルアックさんの『ビッグ・サー』の訳稿の見直し了。かけ持ちは「若さ」の証拠?
「引っ越し雑談」(2003/8/13)
引っ越しして半月たった。同じマンションの別棟への引っ越しなので、引っ越しそのものは業者さんのトラックで本格的にやってもらったものの、あらかじめクーラーやカーテンを取り付けたり、鉢植えやCD、高めの食器などの壊れ物を運び込んだりしておいたこともあって、荷解きは脅かされていたよりはスムーズに済んだ。
*お知り合いの方々へ 新住所は郵便番号から町名まで変わらずで、4-9-13-1306です。電話番号も同じです。
ただ本には参りました。段ボール詰めを始めた段階でこれは無理だと思い、友人に勝手に3箱分送りつけ、近所に古本屋がないので流しの業者に1箱分二束三文で売り、さらに3箱分くらいは捨てたのだが(それでも夫婦の本が段ボール50箱分以上あったか)、「超」古い本箱を処分したり、まあまあの本箱やラックを子どもたちに譲ったりした関係でどうあがいても収まらない。会社の人間に「死ぬ気で捨てろ」と言われ、本箱を改めて1,2本買うことにして、それでも入りそうにない本を片っ端から捨てた。結局、理念的な本の処分が多くなった。とくに同じ学者や評論家の本を10冊とか持っている場合、中心的な著作だけ残して後は処分とか、勉強のつもりで買ったもののこれからも読みそうにないものなど、加えて新劇やシナリオの雑誌など愛着はあるもののもう読まないだろうと思われるものなどを縛ったり袋に詰めたり、結局引っ越して以降も段ボール6箱分くらい捨てて、やっと新しい棚さえ入れば収まる見込みがついたところ。
鈴木志郎康さんが、やはりこの夏、蔵書を処分するそうで、そのことについて「自分の関心の持ちようの来歴を捨てる」という言い方をしていたけれど、とくに新書本など、ちょっとした知恵をつけるために買った本など、自分の関心だけでなく、その時代時代のテーマの流行という来歴も反映していて、ご大切に持っていても仕方ないかと思わせられるものが多い。持ち物としての本を極力減らしていくこと、それで何かがスリムになって見えやすくなるというほどではないが、部屋のレイアウトが変わって本箱が一望できるようになって、何だかその時々の雰囲気でのたうちまわってきただけかなという自分の中身のなさは感じられる。本当はもっともっと捨ててしまっていいのだろう。
「本の世界が変わっていくなかで--7・8月に読んだ本」(2003/8/30)
また読んだ本と入手元リスト載せます。関心のある方はご笑覧ください。
7月
佐藤泰志『海炭市叙景』(集英社)江東区立図書館
ちくま日本文学全集『中野重治』(筑摩書房)以前より所有
佐々木浩+舞出晋一『対詩集 鏡に移る影』(ミッドナイト・プレス)著者にいただいた
『野村尚志詩集--一九八八年--二〇〇二年』(武蔵野書房)著者にいただいた
小川国夫『青銅時代』(新潮社)大昔より所有。再読
フィリップ・K・ディック『ティモシー・アーチャーの転生』(サンリオSF文庫)大昔より所有
澁澤龍彦『犬狼都市』(福武文庫)大昔より所有
ウィリアム・シェイクスピア『あらし』(岩波文庫)家人の蔵書。再読
ハーラン・エリスン『世界の中心で愛を叫んだけもの』(早川文庫)bk1
島尾ミホ+石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』(弦書房)bk1
鈴木志郎康『姉暴き』(思潮社)ずっと以前、著者にいただいた。再読
[続き物]
中里介山『大菩薩峠 15』(ちくま文庫)江東区立図書館
8月
Rebecca Brown "The End of Youth" (City Lights) Amazon.co.jp
ジョン・オカダ『ノー・ノー・ボーイ』(晶文社)大昔より所有。再読
Paul Auster "Leviathan" (Faber and Faber) 神保町・北沢書店
Paul Auster "Ghosts" (Penguin Books) 家人の蔵書。再読
ルイス・サッカー『トイレまちがえちゃった!』(講談社)江東区立図書館
[続き物]
井上雄彦『リアル 2』(集英社)Amazon.co.jp
中里介山『大菩薩峠 16〜17』(ちくま文庫)江東区立図書館
引越しが7月の末だったので、ちょうど引越しをはさんでの2ヶ月ということになります。傾向として、はっきりと日本の著者による新刊書はほとんど読まないという感じになっています。基本的には「面白い」と思えないからなんですが、その「面白いと思えない」というのは、本を作る仕事をしている人間として、日本の同時代の気分に付き合っていないという問題点があるかもしれないな、いや、この「消費」の対象としての本という傾向があまりにもはっきりしているのは(全世界のことは分からないとしても)日本に顕著な傾向であって、ストレートなメッセージをそれぞれの文体に確固として秘めた作品や評論は世界では今なおさかんに生み出されている、日本で今出されている本は作品や評論をどうジャーナリズムやコマーシャリズムに乗せていくかという「企画性」があまりにも見え透いてしまって、書店に行ってもどうにも気分がよろしくない、そのことは現状におもねらずに認めてしまっていいんじゃないかなどと、気分が揺れるなかで、自分の気持ちを引き付けるものを再読書や英語の本などに探しては読みを繰り返しているわけです。
逆に言うと、そんな自分の感性をどこに持って行ったらいいのか、探しあぐねているわけでもあります。くつろいでいるときはいいとしても、仕事にぐんぐん押し込まれてくると、自分の時間を確保するように無理にでも本が読みたくなる、そのスタイルもなかなか対象を見つけられないというところに追い詰められてきている。本を作る現場にいても、とにかく食い扶持を確保していくための算段に追われる、あるいは初めから出版について真剣に考えることなく「お仕事」としてこなしていくという姿勢がほとんどで、「どうしたものかなあ」と思ってしまいます。
そんな中で、今までほとんど作品を読んでこなかったオースターさんの『リヴァイアサン』(訳が新潮文庫で出ています)は、偶然書店で見かけて買ったのですが、拾い物でした。次回に感想を書きます。
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