2003.3



2003年3月
◯83/3の手帳から 長野の印刷屋さんに出張校正。宿屋で半ば徹夜して朝のんびり行くと印刷屋さんの番頭さんに怒られた。今はほとんどない仕事の仕方。
◯93/3の手帳から 映画監督としてのカサヴェテスさんの再評価上映に通う。偏愛がまだムーブメントになった時代。

「読むだけは読み続けて」(2003/3/1)

 何か、たまに喜んでくれる人もいるので、また読んだ本リスト載せます。

1月

鶴見和子対話まんだら『石牟礼道子の巻--魂 言葉果つるところ』(藤原書店)江東区立図書館経由江戸川区立図書館(江東区にはなかったということ)
萩尾望都『イグアナの娘』(小学館文庫)家人が買ってきた
宮本常一『イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む』(平凡社ライブラリー)神保町・荒井南海堂
中里介山『大菩薩峠 3』(ちくま文庫)神保町・岩波ブックセンター
Arundhati Roy "The God of Small Things" (HarperPerennial) スカイソフト
鶴見俊輔『回想の人びと』(潮出版社)江東区立図書館
宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫)神保町・岩波ブックセンター
ジョン・ファンテ『塵に訊け!』(DHC)江東区立図書館
木村迪夫『百姓がまん記』(新宿書房)出版社よりいただいた(「迪」の字のしんにゅうは点が2つ)
中桐雅夫訳・福間健二編『オーデン詩集』(小沢書店)以前より所有
[続き物]
森川ジョージ『はじめの一歩 1〜3』(講談社)薫(小6)が江東区立図書館で借りてきた
井上雄彦『SLAM DUNK--スラム ダンク 1〜6』(集英社)薫(小6)が買ったり江東区立図書館で借りてきたり

2月

エリック・ホッファー『現代という時代の気質』(晶文社)大昔より所有。再読
岡谷公二+山根秀信『シュヴァル--夢の宮殿をたてた郵便配達夫』(福音館書店)家人が江東区立図書館で借りてきた
ヒュー・ギャラガー『ティース』(創元コンテンポラリ文庫)神保町・三省堂書店
深瀬基寛訳『オーデン詩集』(せりか書房)大昔より所有。再読
大石健『ブリキのwe』(書肆山田)恵贈詩集
縄田一男編『時代小説英雄列伝 大佛次郎 鞍馬天狗』(中公文庫)神保町・三省堂書店
日本現代詩文庫版『森崎和江詩集』(土曜美術社)山口市・かねこ書房(ネット古書)
『エリック・ホッファー自伝』(作品社)神保町・日本特価書籍
斎藤恵美子『緑豆』(私家版)家人への恵贈詩集
鶴見俊輔『もうろくの春』(SURE)直接注文
[続き物]
中里介山『大菩薩峠 4〜6』(ちくま文庫)江東区立図書館
井上雄彦『SLAM DUNK--スラム ダンク 7〜11』(集英社)薫(小6)が江東区立図書館で借りてきたり、祖母に買ってもらったり他
森川ジョージ『はじめの一歩 4〜5』(講談社)薫(小6)が江東区立図書館で借りてきた

 例年、正月は早々に家人が子どもたちを連れて里帰りすることもあって、比較的重い本を読む。今年は鶴見和子さんと石牟礼道子さんの対談だった。病に倒れて短歌を作りながら今までの研究者としての自分を見つめ直し、今まで以上に世界像を構築し直そうとする鶴見さんと、水俣で土地に根ざしたアニミズムの問題、歴史をさらに深く掘り下げ続けている石牟礼さんの対談をきっかけに、今まで読もうと思いつつ読んでこなかった民俗学の宮本常一さんの本を読んだり、性や労働を問い続けてきた森崎和江さんの詩集もさがして買ったり。
 そうしたこともあって、山形で農業を営みながら詩を書く木村迪夫さんの詩文集を読んだとき、都市的な記号表現を進化させることを目標にしているかのような現代詩の風潮と、地に根ざす者の詩の落差をどう埋めたらいいのかということが気になり始めた。誤解を避けるために加えておくと、これは東京と地方という対比ではない(地方ということで言えば、東京も個々人にとって根ざすことのできる地方である)。メディアのなかでスピードアップしながら記号化していく表現と、地の共同体に根ざして表現する者の場所の距離が開きすぎてしまっている、あるいは両者の場所がずれてしまっている、そのことをどう考えたらいいのかなという疑問。そして、いわゆる現代詩というものが表現を届けるべき場所を見失っているのではという疑問。その辺を考え続けていきたいと思いながら右往左往した2カ月だった。

 関係ないけどマンガの『スラムダンク』は読み出すとハマリます。30巻ちょっとで累計1億部ってのはすごすぎるかもしれないけれど。


「書評再録−−『エリック・ホッファー自伝 』」(2003/3/10)

 書評のメルマガに発表した『エリック・ホッファー自伝 』(作品社、2002)の感想を以下に再録します(ちょっと書き足してます)。

-------------------------

−−今回は去年翻訳が出て話題になったエリック・ホッファーさん(1902−83)の自伝ですね(翻訳は中本義彦さん)。
−−はい。翻訳が出て話題になったときは、すごくなつかしい名前に出会ったなあという感じでした(ちなみに英語版は絶版)。それでたぶん20年以上前に買って読んで、うまく受け止められないままだった『現代という時代の気質』(柄谷行人+柄谷真佐子訳、晶文社。なぜかブームに合わせて復刊された版からは真佐子さんの名は削除されている)を読み直したんですが、やはりうまくキャッチできなくて、今の今まで時間がたってしまいました。
−−ホッファーさんは港湾労働者をしながら独学で学び、エッセイを発表して、60年代には合州国で一躍ブームにまでなった人ですね。いわば「野の賢者」とでも言うか。
−−歯切れのいい箴言の人というか、ブームになった頃のことはわかりませんが、ひょっとしたらフラワー・ジェネレーションによって大統領に推された『指輪物語』の魔法使いガンダルフのような存在だったのかもと思ったら、ご本人はヒッピー大嫌いだったとのこと。
−−人の助けを借りることを潔しとしない、よって人を福祉的に助けることも嫌う、いい意味での保守主義者ということで、もう少しハイクラスで受けたんでしょうね。

−−ブームになったといっても、やはりわかりやすい人ではないと思います。再読した『現代という時代の気質』はエッセイ集ですが、その時々の関心の集中によって、たとえば機械化が人間を労働から解放すると述べる一方で、別の文章では機械化が仕事から追放される労働者から自分が有用であるという感覚を奪い、彼らを不寛容にさせると分析していたりして、全体にどう受け止めていいかについては迷いが残るんです。
−−王族、貴族ではなく知識人が支配するようになったヨーロッパ諸国の国内での官僚的な管理を批判し、それに対して普通の人間が集まればそこに国家を作るだけの仕事ができる合州国の良さを自慢したりしつつ、大衆については懐疑的だったりとか。あるときは大衆でありつつ、大衆について語るときは一肉体労働者として距離を置いていたのか、そもそも自分は大衆ではなく終始自立した個人だったというのか。まあ、それで、この『自伝』はどうなんですか?
−−最晩年に書かれたもの(原著1983年の死後刊)と思いますが、面白すぎて怖いくらいです。ドイツ系移民の子で、少年期の失明から回復し、親に死別したあと自分も一族の例にならって40までに死ぬだろうと思い、ニューヨークから西海岸に行き、飢え死にしそうになって日銭仕事で稼ぐことを覚える。そして自殺未遂もすれば恋もする(恋愛については老年の記述のせいかあまりに出来すぎの感も)、さらには独学で培った知識と想像力で植物学の研究所に誘われたりもするんですが定着を嫌い、また放浪の旅に出る、その繰り返しですね。元々のタイトルの「構想された真実」(Truth Imagined)はユダヤ人と旧約聖書の構想力への尊敬から来ているようです。
−−1人のプア・ホワイト、肉体労働者として人種的偏見もなかったと自分で言っていますね。
−−ちょうど同じ頃、ロスにいた作家ジョン・ファンテさん(1909−83、ブコウスキーさんの絶賛によって再評価された)の小説『塵に訊け!』も最近訳が出たので読んだんですが(都甲幸治訳、DHC)、それによると大戦前のロスは成功を求めてやってきた移民や地方出身者の吹きだまりで、今のようにサンフランシスコはピュアでロスは俗悪というような構図はまだ出来上がっていなくてとにかく未分化な可能性があったのかなと思います。
−−『塵に訊け!』を読んだときも感じたんですが、昨今の思考・創作に比べるとメディアでうまくやってやるというような悪どさは希薄ですよね。
−−その辺、ゾラ・ニール・ハーストンさん(1891頃〜1960)の30年代の作品『彼らの目は神を見ていた』(松本昇訳、新宿書房)なんかを読んでも感じるんですが、非常にナイーブで豊かな感じを受けます。私はロック好きということもあって一時ビート・ジェネレーションに傾倒していたんですが、ケルアックさんとかの方が人種差別意識が強いんですよ。交わってはいけないとされる有色の女と自分は寝たと自慢しながら、自分ですごくそのことに怯えたりとか。戦後のビート世代はかえって完成した社会の規制にとらわれているのではと思ったりします。こういうこと言うから、50代、60代の日本のビート・ファンに嫌われたりするんですけどね。

−−今、ホッファーさんが合州国でさえそんなに読まれない中、日本で受けるというのはどう考えたらいいんでしょうね。
−−『方丈記』みたいなものかしら、「清貧」あるいは脱サラへのあこがれもあるでしょう。「大衆」をどこかで突き放して見ているところもかっこいいのかな。何か本好きのオジサンたちや友達のいない知識人に受けたのか。この『自伝』によればホッファーさんは、あるとき思考の糧にしていた本を、いつまでもこの本に頼っていたら自分自身で深く考えることをやめてしまうだろうと恐怖して捨ててしまったとのことです。日本の読者はこの辺を本当に自分の問題として受け止めているのかな。自分にできないことをやったヒーロー的な存在として、心地よく受け入れているのではという不安があります。

−−自分自身で考えるようにお互い努力しましょう、メディアで通用する言葉で言足れりとしないで。


「たまたま女子高生小説2冊」(2003/3/12)

 多和田葉子さんの小説『球形時間』(新潮社)を読み終わったところ。女子高生サヤを一応中心に、ゲイの同級生カツオ、他人に対する悪意に燃える同級生ナミコ、リベラル教育に燃えながら空回りする担任教師ソノダ、カツオがたまたま付き合うことになった神経を病んだ大学生コンドウといった人物たちが絡み合いながら、入れ替わり立ち替わり登場する。教師稼業が嫌になって辞めたがっているソノダや、カツオの俗物的な大学教師の父、昔水商売のバイトをしていたために夫に黙殺されて心が壊れていくカツオの母といった大人たちも皆、大人になりきれていない。だからタイトルの「球形」は丸く閉じていく日本社会の「球形」であると同時にモラトリアムの「休憩」をも指しているのかもしれない。
 物語は、彼らの日常を描きつつ、駅のホームでかがんで化粧していたサヤが、中年男に「土人」のようだと注意されたことから、ネットで検索して見つけた「ドジン」という名前の喫茶店で19世紀日本を旅して旅行記を残したことで知られるイザベラ・バードさんに出会い、貧しくとも心優しい古き日本の話を聞くといった時空のねじれや、「開国」の反対語はなぜ「閉国」ではなく「鎖国」なのか、「鎖」とはチェーン店のチェーンか、だったら大国の支店のチェーン国もあるのかといった言葉遊び、コンドウが性体験を機に異様なこだわりを見せる日の丸のイメージ(赤は処女の血なのか太陽なのかとか)のエピソードなどをはらんで、日本という空間や物語の単純な起承転結に閉じこめられることを拒否するように展開しながら、最後は同級生や教師の写真の悪意を込めたコラージュを作ったり、脅迫や告げ口の手紙を送ることにはけ口を見出すナミコの悪意(悪夢)に引きずり込まれるようにして終わっていく。
 一読して、たまたまこの本の前に読んだ、ミステリー作家(という枠をもう越えつつあるのかもしれないが)の舞城王太郎さんの新作『阿修羅ガール』(新潮社)も女子高生が主人公だったので、両者を比べてみるような考えになった。舞城さんのこの小説はこんな女子高生いるかもと思わせられる主人公がある晩たいして好きでもないのにセックスしてしまった同級生の男子が誘拐されて切り取られた足の指の入った脅迫状が家に送られてきたことから、女子たちにシメられたというエピソードと、その「シメ」の中心人物の女子にやり返して顔を傷つけたことから主人公が殺されかけて生死の境をさまよう心の記述で構成されているが、三つ子殺害事件があったり、その殺された子どもたちの両親が公園で我を忘れてセックスしていたり、キッチン(>厨房>中坊>中学生)を「狩れ」と呼びかけるネットの掲示板によって調布で「アルマゲドン」と呼ばれるパニックが起きたり(この辺の記述はパソコン通信の会議室をモチーフにした村上龍さんの『共生虫』--講談社--よりリアルだと思った)といったにぎやかな内容が、今どきの女子高生言葉で書き抜かれている(たとえば、「ハブる」って「村八分」の「八分」の動詞化した略語らしい)。こう書くと、ちょっとふざけて遊んでいるような作品かと思われるかもしれないが、語られていることの中心は愛情の問題であり、「殺す/生きる」ことをどう考えるかという問題で、自分もまた人を殺し見殺しにしているかもしれないが、その痛みをどう引き受けるか、という考えの過程が書かれていて読後感は悪くない。
 言ってみれば、ともに女子高生をモチーフにしながら、多和田さんの作品は自分の文学的フィールドにそのモチーフを引き込んで利用していくというスタンス、舞城さんの作品は現実の女子高生にできるだけ近づいていくスタイルを取りながら、説教くさくない物語をどこまで書けるかの挑戦、と対比できるかもしれない。そしていずれにしても、こうした本を読むのは本好きな人々で、実際の高校生にはほとんど届いていないだろうと思われる、その辺りがうまく言えないが、私の気持ちに引っ掛かっている。活字という媒体、あるいは活字にとどまらずメディアを通して今、私たちは何をやりとりしているのか。時間をつぶすための、受け手の自己像を充たすためのイメージ、あるいは主体を代理する感情表現を売り買いしているだけかもしれない、だったらそこで読み書きすること自体を、本の中身を云々することだけにとどまらないで、もっと考えないと怖いなと、これは読みながらの個人的な感想で課題。

「久しぶりに環境問題の本」(2003/3/20)

 千葉県の産廃Gメンである石渡正佳さんの『産廃コネクション』(WAVE出版)を読んだ。あの手この手で不法処理・投棄される産廃(産業廃棄物)の出所やルート、その止まらない理由・対策をきちんと押さえた信頼できる専門家の本。その勢いでしばらく前に気になったものの読んでいなかった宇井純さんの『日本の水はよみがえるか』(NHKライブラリー)も読んだ。宇井さんの本は、汚水処理を中心にした日本や世界の公害問題のフィールドワークを元に、歴史も含めて概説的にまとめた本だが、どちらの本を読んでも感じたのは、日本のお役所体制の目をおおうほどのだらしなさだった(石渡さんは千葉県の職員ですが、彼は突出した「いい例」で)。
 かいつまんで言ってしまうと、日本の役所の公害や各種の汚染への対処に現れるどうしようもなさ。もともと財務分析が専門の石渡さんの本では数字データを持って書きぬかれているが、産廃が問題になったときに、それがなぜ問題になるほどになるのか、石渡さんはコストの問題としてはっきり分析する。同じゴミを処理するなら業者は金になる方に流れる。中間処理、最終処理と、各段階で役所に提出する書類の作成義務があるが、建設業や自動車・パソコンのメーカーなどの排出元は実際の産廃の処理については書類として記録しているだけ(要するにきちんと書類処理していますというだけ)で、実態はまったく把握していない。処理する業者は暴力団もからんで利益の高い処理法(要するに不法)に書類をごまかし、あるいは売り買いしながら流れていく。その実態を排出元はおろか、役所もきちんとつかんでいない(宇井さんの本によれば汚染は排出元に近い所で処理に取り組むことが、よりよい対応だというのが原則とのこと)。ゴルフ場をリゾート法の保護を受けてじゃんじゃん開発、森林を滅ぼして、今はつぶれて隠れ産廃処理場なんて所も多いようだ。
 当然、お役所側はいろいろと高まる非難に対して、何とかとりつくろう手を考えるわけだが、ここでほとんどの役所・官公庁は実効のある手を打とうとしない。宇井さんの本でもさんざんふれられているパターンだが、自分で立ち向かわずに新しく指定事業を起こすわけです。たとえばリサイクルであれば日本容器包装リサイクル協会という財団を作り、そこに自治体や排出元の企業の金がどどっと流れ込む。もちろん財団などというものは有力関係者の天下り集団とかなのでろくに勉強もしないし何も手は打てない。途方もないコストを使いこんで、結局、同財団が適正処理するはずの皆さんが収集に協力しているスーパーのトレイなどは実際のリサイクル率はおよそ1%、あとは結局産廃といっしょにブラックマーケットで燃やされるか廃棄されているか、プラスティック回収もそれに毛が生えた程度。スーパーやコンビニの前の容器に回収して、リサイクルがまあまあ形を保っているのはペットボトルだけだということです。
 要するに、真剣に取り組まずにどうごまかすか、というお上の姿勢から、形だけの事業団が作られ、法外な予算が天下りの人件費や賄賂、コスト度外視(たとえばまともに取り組んだ場合の100倍とかいった)の不法の多い作業に消費され、その反面、良心的な研究者は東大教授やそのお仲間である官僚にあらゆる妨害や嫌がらせを受け、実効あるアイデアはつぶされ、といったことをいまだに繰り返しているのが現状です(おかげで日本の大学の公害研究は公害先進国・輸出国であるのにもかかわらず世界に遅れてしまったという。たとえば東大医学部であれば公害の原因企業認定の否定という、被害者つぶしでずっとうるおってきたというような歴史)。石渡さんが指摘するように真面目に取り組む業者が生かされるようなコスト感覚(低予算で効果を上げる)がないがしろにされ、もうかればどうでもいいじゃないという親方日の丸の土建屋的企業優先の税金の無駄遣いが日本だけでなく日本人の体だけでなく、世界をも汚しつづけている、ということ。だから公害にせよ産廃にせよ、一般ゴミにせよ、世界でもかなり低いレベルで対応しているのが日本だということを思って、周囲を見てみようと思うこの頃。宇井さんは基地建設問題やリゾート開発で盛り上がる沖縄でもゼネコンとお仲間の役所にだいぶいじめられたみたい。

[ジャーナル目次]
[このまま読み続ける]
[トップ・ページ]
[リンク]
[ライブラリー]