2002.8
2002年8月
◯82/8の手帳から 暑いのに会社の若い連中で高尾山に。ほかにやることがなかったのか。辿りついた相模湖が前日の雨で濁っていた記憶。
◯92/8の手帳から 辞書の出張校正(DTPの時代に死語化しつつありますが)。「凸版26時まで」「凸版25時半まで」といったメモ。
「オール・タイム・ベストテン」(2002/8/5)
6年ぶりに詩集『少年日記』をまとめたせいか、それとも仕事が忙しくて体調が不十分なせいか、書く気迫がない。半ば虚脱している。読むほうについても、先月半ばくらいはまったく読む気持ちが奮い起こせないほど体調が悪くて、自分でもやはり体力がないと読み書きはできないんだなと思った。そこからは復調してきたが、この暑さで好調というわけにはなかなかいかない。読んだ本のリストシリーズも、そんな感じでまとめる気が起こらない。そんなときに、たまたま読んでいた鶴見俊輔さんの対談集『未来におきたいものは』(晶文社)の片岡義男さんとの対談で、本のオール・タイム・ベストテンの話にぶつかった。一生を振り返って本のベストテンを選ぶという発想。今年の何とかと違って、こういうの嫌いじゃないというか(無人島に持っていくCD10枚とか)、ふっと思いついてまとめてみました。
エーリヒ・ケストナー『飛ぶ教室』(岩波書店)
長谷川四郎『シベリヤ物語』(旺文社文庫)
花田清輝『復興期の精神』(講談社文庫)
島尾敏雄『死の棘』(新潮社)
鈴木志郎康『メディアと<私>の弁証』(三省堂)
フラナリー・オコナー『オコナー短編集』(新潮文庫)
鶴見俊輔『期待と回想』(晶文社)
須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』(文藝春秋)
李良枝『李良枝全集』(講談社)
辻征夫『辻征夫詩集成』(書肆山田)
以上、出版社は読んだときのもの。絶版のものもありますが、テキストは何らかのかたちで今でも読めると思います。
順番にふれていくと『飛ぶ教室』はドイツの寄宿舎学校を舞台に少年たちが素朴な感情をぶつけあいながら成長していく話。小学生のときに読んで、今でもときどき引っ張り出して読む。そして泣く。登場人物の世捨て人的で生徒たちのよき相談相手である「禁煙先生」(廃車になった禁煙者専用の客車に住んでいる)は今でも理想の人物の1人。
『シベリヤ物語』『復興期の精神』『死の棘』は20代後半の心がぐしゃぐしゃしているときに支えてくれた本。それぞれもう細かい内容は覚えていないけれど、心の持ち方、心の角度、心の追いかけ方のようなものを教えてくれたと思う。こうした本がなかったらつぶれていたかも。そして、編集者として鈴木志郎康さんに会って、メディアと現代人という切り口で1冊作ることができた。鈴木さんとの出会いは、学生のときにあきらめていた詩を書くことの再開にもつながった。
それから10年詩を書き続け、本を読み続け、40代に入ってまた煮つまった頃、オコナーさんの著作にふれ、ちょうどインターネットで洋書を買いやすくなったことも手伝って合州国文学再訪が始まり、これは今でも移民による合州国現代文学読みとして続いている。ヨーロッパや日本と違い、合州国では技巧中心の文学ではない、コマーシャリズムを突破しうるシンプルでパワフルな作品がいまでも生まれ続けている。
同じ頃、それまで部分的にしかふれてこなかった鶴見さんの著作に開眼してどっぷりはまり、読書傾向が歴史へ、哲学へ、経済へと広がった。外国体験から澄んだ目で日本を振り返る須賀さん、在日の表現に一時代を築いて夭折した李さん、深く知り合える前に亡くなった辻さん。この10冊だけでもきちんと読み返せたら、この対話のない時代をもう少しだけ生き延びられるかもしれない。
まあ、このほかにも、ゆっくり考えればいろいろあるんですが、それはまたの機会に。
「オール・タイム・ベストテンその後」(2002/8/17)
少し涼しくなりました。前回、あまりの暑さから脳天気な企画をやったところ、若干2名の方から(笑)反響がありました。ひとつは詩人の佐々木浩さんからで、ご自分のオール・タイム・ベストテン(正確には12点ですが)を寄せてくださいました。佐々木さんのご厚意によりここに再録します(出版社などは調べてください)。
『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー
『族長の秋』ガルシア・マルケス
『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ
『眩暈』エリアス・カネッティ
『ホテル・ニューハンプシャー』ジョン・アーヴィング
『ライ麦畑でつかまえて』サリンジャー
『さむけ』ロス・マクドナルド
『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』村上春樹
『コインロッカー・ベイビーズ』村上龍
『千日の瑠璃』丸山健二
『富士』武田泰淳
『麻雀放浪記』阿佐田哲也
こういうのって他人のを見ると楽しいです。佐々木さんのは詩作品同様にこせこせしたところのない、おおらかな明るさとでもいうか、でも同時に押さえるところは押さえているという気質が伝わってきます。そうかあ、やっぱり武田泰淳さんははずせないよなあ、でも1作選ぶとするとなんだろう、『富士』は確かに傑作だけど、初期の「ひかりごけ」や「「愛」のかたち」とか、あと『司馬遷』とかも捨てがたいし、とか夫人の武田百合子さんの日記ものもいいんだよなあ、とか、あんなにお世話になった富岡多恵子さんの『水獣』とかの著作や、津島佑子さんの『かがやく水の時代』とかも、などなどと連想が働いていきます。
まあ、これは所詮遊びのようなものなのですが、いただいたもう1通のメールにはちょっと考えさせられました(今も)。若い編集者であるKさんからのものです(若いといってもそろそろ30くらい?)。Kさんは編集者になりたての頃、先輩に(私がベスト・テンに入れた)花田清輝さんの『復興期の精神』も読んでいないのか、名前も知らないのかと驚かれたそうです。
で、彼女は自分で周りの風景や他人のあいだを自分で歩き、好きな本を読むことで、自分で考えてきたのだから、「そんなん読んでも読まないでも構わないじゃないか、思想ってなんだよ、とちょびっと思った」のだそうです。この辺の気分って私にも分かるところはあるんです。実際先輩に「漱石、鴎外くらい全集で読まないと」と言われたこともありますし。そんなこと言ったって、詩や英米文学読むのに忙しくて、と結局いまだに「漱石、鴎外の全集」はおろか、ドストエフスキーさんもほとんど読んでいないありさまです。でも、自分なりに手探りで連想ゲーム風に、好きな詩人や作家が大切に思っている人の作品を読んでみたり、勘でまったく知らない人の作品に手を出して読んだりしているうちに、やっと最近ですが世界の表現のぼんやりした流れや輪郭が見えるようになってきたと思います。Kさんはどちらかというと真面目な方なので自分なりに手探りしているようです。でも彼女と同世代くらい、あるいはそれ以下の世代の身近な編集者を見ていると、「そこに何かがありそうだ」と気配を感じながらいろいろと読んでいくという感じはあまり受けません。詩を読んでいるなんて編集者に会うことは詩を扱う出版社以外の編集者では皆無ですし、ケルアックさん、ブローティガンさん、ブコウスキーさんあたりも名前もご存知ない、私がベスト・テンにあげた本の著者の名前を1人でも知っていたら見っけものという状況ですから、話の接点をどこらへんに持っていけばいいのかと迷います。これは説教たれたいとかの気持ちではなく、共通基盤みたいなものがなくなってしまった、という淋しさから思うことです。それだけ多様化してしまったという見方もできる一方で、それぞれのこだわりが実はすごく小さなスケールの趣味・消費みたいな次元で止まってしまっているんじゃないか、そしてそのことを指摘したりするとすごく嫌なことを言われたという反応が返ってきたり、想像を越えたことを言われたという感じで聞き流されたり。うまく言えませんが出版社の人間(身近な範囲で、ですが)がこうした状況である以上、一般の読者がベストセラー情報を頼りに同じような本がたくさんあっても、とにかく売れている本に集中して飛びつくという傾向を批評することはできないでしょう。作る側もああいう話題になる本を作れたら格好いいかなあ、などと漠然と思っているくらいなのですから。
今、チリ出身のスペイン語作家イザベル・アジェンデさんの『パウラ』という本を読んでいます。ピノチェトの軍事クーデターによってつぶされ死んだアジェンデ大統領の姪である彼女が、病気のために昏睡状態に陥った長女パウラを看病しながら、話しかけるように、自分の愛や亡命といった半生や、一族や祖国の歴史を書きついでいくという内容ですが、英語訳の分厚いペーパーバックも、彼女の語りのマジック、登場する人々の数奇な運命に引きこまれるように、ほとんど読み終えるところです。この本はスペイン語版(1994年)も英語版もベストセラーになった傑作で、日本語訳も先月、国書刊行会から出ました。が、たぶん図書館が買う以外はほとんど買われないと思います。日本から見た「世界」の表現(本)は、今やハリー・ポッターと「テロ」関係に集中していて、そこから他は存在しないかのような「気分」を感じます。ここに新たな関心の集合といったものを生み出していけるのか、何の確証もないまま、日々会社の仕事に追われながらも、何とか掘り起こせるものがあればとこだわっています。
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