2001.12



2001年12月
◯81/12の手帳から 倉本聰さんの『北の国から』(理論社)、シナリオ本ブームの先駆け。今はない西武美術館で高橋悠治さんのピアノを聞く。「時代」ですなあ。
◯91/12の手帳から 著者からお古のレーザーディスク・プレイヤーをもらう。結局、トリュフォーさんの映画数本と森高千里さんのライブ(笑)を買って見ただけで、もう使ってないが。

「書評再録−−レイナルド・アレナス『夜になるまえに』」(2001/12/11)

 書評のメルマガに発表したレイナルド・アレナスさん (1943-90) の自伝『夜になるまえに』(安藤哲行訳・国書刊行会)の感想を再録します。以下本文です。

−−いやあ、それにしても、映画化作品「夜になるまえに」の新聞広告の大きさにはびっくりしましたね。
−−あれって結局、「ぴあ」と朝日新聞とのタイアップで全面広告になってたみたい。どういう精算になってるのかは分からないけど、とにかく地味なはずの作品の広告の大きさに度肝を抜かれて封切とほぼ同時に観てしまいました。
−−朝日新聞の広告取りのための広告なんでしょうか。それはともかく、どうでした。
−−ううん、どうかなあ。キューバから合州国に亡命してエイズで死んだアレナスさんの自伝(原著1990年脱稿、92年刊行)なんだけど、映画はキューバの歴史と彼の人生の概略を辿るにはいいダイジェストだとしても、何かパンチが足りないというか、カストロ独裁と戦った作家の映画を合州国で作るのは、作家本人の苦闘に比べれば楽なことなんじゃないかなんて反感も感じました。それで『めくるめく世界』(国書刊行会)からほぼ10年以上ぶりに、彼の作品を読まないとと思ったんです。

−−知らない人のために概略を記すと、アレナスさんは1943年キューバの寒村に生まれ、カストロの革命には少年として参加するんですが、その独裁性を強めていく姿勢に気持ちが離れていく。作家としてデビューしたものの国内で刊行されたのは第1作だけで、それ以降の作品は極秘に国外に持ち出されて刊行され、それが高く評価されることで、逆に国内ではきびしい監視下に置かれることになり、青少年をかどわかした同性愛者というでっち上げで監獄にぶち込まれる(約2年間)。自分は反革命分子だったという転向声明を書かされ「出所」。のち、80年の腐敗分子の出国許可に乗じて許可証の名前を書き換えるなど、当局の目をくぐって合州国に脱出。90年にエイズの末期症状の苦しみから自殺しています。
−−そうまとめてしまうと、結局いろいろこぼれてしまうんです。この本を読んですごいなと思ったのは、アレナスさんのエネルギーというかね。それが翻訳でもすごい勢いで伝わってくるということなんです。
 たとえば、キューバの同性愛者たちとの関係ですが、街だろうと浜辺だろうと公園だろうと、「いつでもどこでもハッテン場」というか、目が会ってちょっと言葉をかわしたあとはもう関係を持っててという調子で、すごく熱いんですね。カストロ独裁のもとでは同性愛はご禁制だということや、ラテン系の男たちの暴力的な熱さからしばしばトラブルに巻き込まれるんですが、性愛の表現がいじけてない。彼が愛する海についてのすばらしい記述のようにきらきらしてるんです。
 もちろん同時に作家としても格闘しています。独裁下で亡命せずに頑張って表現している先輩友人たちを敬愛し、隠していたタイプ原稿が当局に盗まれたらまた一から書き直すといった頑張り。カストロ体制の御用作家として幻想的な作品を書きながら、同時にキューバ文学の検閲官的な役割を果たしていたカルペンティエールや、カストロ支持の文化大使とでもいった感のあるコロンビアのノーベル賞作家ガルシア=マルケスに対する反発は、ラテンアメリカの諸問題を考える上での難しさを教えてくれました。

−−亡命してから、ある講演で聴衆のやはり亡命したチリ人たちから糞味噌に言われるというエピソードがありましたね。
−−亡命したチリの人々から見れば、選挙によって選ばれた左派のアジェンデ大統領が、合州国の援助を受けたピノチェトらのクーデターで殺されたという事実は絶対許せないでしょうね。そこから独裁かもしれないが、一応「左派」のカストロの悪口を言うとは何だという反発が起きる。こうしたねじれが合州国のラテンアメリカ文学の研究者たちや出版社とアレナスさんとのあいだにも根深く横たわっていて、アレナスさんは少ない仲間たちと付き合いながら、合州国の市民権もとらずに非妥協的な姿勢で執筆を続けていったわけです。

−−キューバ国内での作家たちの裏切りや密告や転向声明、当局のスパイになって仲間を売ってやがて自分も滅んでいった人々や自分の主義主張に殉じて死んでいった、あるいは殺された作家たちの痛々しさが他者に伝わるってことは本当に難しいんですね。
−−そうした中で、アレナスさんがすごいなあと思うのは、すごく憂鬱だったろうけど、どこかで明るさを失ってないということ。これはまだキューバにいたときのエピソードですが、廃屋になった修道院を見つけて、家具や板や煉瓦まで売れるものは全部こっそり持ち出して金に換えて食いつなぎ、しまいには証拠隠滅のためにその修道院の建物を壊してしまった話とか、すごい野性を感じます。もともと寒村の出で、おばあさんが自然に語りかける自分自身の神秘的な世界を持っていた、その資質を受け継いで開花させたとでもいうような。ここから先は読んでもらうしかないんだけれども。
−−ニューヨークに移り住んで、自由を感じることはできたけれども、同時にかなりの幻滅も味わっていたようですね。
−−このきらきらした原始の感性には、金の力で飾りつけた大都会はやっぱり輝きと感じられなかったんじゃないかな。もちろん今の日本の市場向けの傾向と対策で書かれている文学作品だって、出会ったとしてもまったく受け入れることができなかったでしょう。このかけ離れた距離をね、飛び越えていきたいです。

−−アレナスさんの作品はこの自伝、前記の『めくるめく世界』のほか、『ハバナへの旅』(現代企画室)が翻訳刊行されています。またデビュー作の『夜明け前のセレスティーノ』も国書刊行会から翻訳出版が予告されています。

「雑談・何をどこで買って読んだか・12月編、そして」(2001/12/25)

 このシリーズ企画(?)の先月分に、何か「悪い癖になりそう」だと書いたのですが、とりあえずこういうのは今年いっぱいかなと感じています。できれば、そう感じる理由も含めて、今月読んだ本と、それをどこで入手したかという雑談を書いておきましょう。以下、とりあえず、今月読んだ本です。

David Almond "Heaven Eyes" (Delacorte Press) スカイソフト
松本大洋『ナンバーファイブ 1』(小学館)神保町・高岡書店
須賀敦子『本に読まれて』(中公文庫)神保町・荒井南海堂
網野善彦『日本論の視座--列島の社会と国家』(小学館ライブラリー)会社に出入りの取次(本の問屋)さんに注文
『季刊 本とコンピュータ 第二期2』(トランスアート)編集部の方にいただいた
山崎佳代子『薔薇、見知らぬ国』(書肆山田)神保町・東京堂書店
関口涼子『二つの市場、ふたたび』(書肆山田)神保町・岩波ブックセンター
エドワード・W・サイード『オリエンタリズム 上』(平凡社ライブラリー)以前より所有

 みなさんには馴染みのない著者名が多いかもしれません。ざっとふれておくと、デイヴィッド・アーモンドさんは売り出し中のヤングアダルト作家。この本は長編3作めで、前2作は『肩胛骨は翼のなごり』『闇の底のシルキー』のタイトルで東京創元社から翻訳が出ています。自身が生まれ育ったイギリス東北部の炭鉱地帯を舞台に、さびれかけた街で少年少女が精霊のような不思議な存在との出会いを通して成長していくというのが、1つのパターンになっているのですが、そのパターンが「調子にのっていない」「自己模倣の悪のりになっていない」、どころか、いつもちょっとさびしいのがいいんですね。今年見た映画の「リトル・ダンサー」もそうでしたが、このイギリスの炭鉱地帯がすごく貧しいんです。日本では炭鉱は廃鉱にされて、とうに闘争もピークを過ぎて、人々も去ってしまったという段階なんですが、イギリスでは、国策なり国営なりとの関係で、日本の炭鉱なり国鉄のようにつぶさずに、じり貧のまま持続させてきた。それをサッチャー政権がつぶそうとした辺りで、文化と繁栄を誇った大英帝国のなかで激しい闘争が起きたりしている。アーモンドさんの物語にはそうした政治は表立って出てはきませんが、追いつめられた貧しい環境で少年少女が見る夢の生々しさみたいなものを形にしている点で、ハリー・ポッターのような派手さとは無縁ですが、いい作家だなあと思うのです。

 松本大洋さんはマンガを読むほどの人であれば誰でも知っているビッグネーム。独特の凝り方の画風と作品ごとに意表をついてくる物語で人気を集め、不良幼児(?)コンビが空を飛びながら街を汚すヤクザや小資本家たちとケンカする『鉄コン筋クリート』は舞台化されたとのことですし、ピンポンに賭けた高校生たちを描いた『ピンポン』(以上、小学館)は、今人気の窪塚くん主演で映画化が進んでいます。ただ、ご本人がもう連載マンガはいい、と朝日新聞のエッセイで書いていたように、カルチャー派(?)の評論家たちにもてはやされた前作『GO GO モンスター』やこの本は、「もういいや、でも出版社への義理で、とりあえず絵を好きに書かせてもらいます」という雰囲気が濃厚で、物語も平板で、私としては「だったら休んでほかのことやれば」という気分です。黒テントに戯曲を書いたり、私はまったく知らなかったのですが、詩人・児童文学者である母親、工藤直子さんとの協作画文集も出したりしてはいるようなのですが……。

 須賀さんや網野さんはご存じでしょう。網野さんは歴史家として左派からも右派からもさんざん叩かれながら、日本中世における天皇制の歴史的変化を見据えつつ、日本史の「常識」を書き直している歴史学者です。ただこの本は一般向けとは言え、論文を集めたもので、ちょっと私には要再読の難度でした。須賀さんはイタリア滞在の長い文学者で、その清潔できりっとしたエッセイで、本読みを励ましてくれた人ですが(故人)、この本は書評集でとくに、タンジールに住みついた合州国作家であるボウルズさんの著作に溺れていく話など面白いのですが、この辺が後でふれたいと思いますがなかなかむずかしいのです。

 『季刊 本とコンピュータ 第二期2』は、編集関係者の個性を生かして暴れさせるという方針で、1冊の中に「子雑誌」を複数持たせるというスタイルです。『1』は、それにしてもという迷いがあったのか、全体的に真面目で均質でついていけなかったのですが、『2』は、さすがに大印刷会社がスポンサーということで、ブロックごとにデザイナーを使い分け、メリハリ充分ということで少し目になじんできました。でも「本はどうなるんだろう」という基本的スタンスは、その場かぎりの日常をやりくりしている会社員編集者から見れば「ぜいたくに遊んでいていいなあ」としか、まだ見えません。「昨日までだったらこんな立派な本を仕事として出せたのに」という人々の危機感とは違う、もっと貧しい次元であがいている私です。「きみは本好きだから企画についてきみの意見は聞かない」と社内で言われて10年ちょっと。

 ずっと以前から持っていたサイードさんの代表作に何度めかの挑戦(ライブラリー版で上下巻併せて約900ページ)。単行本程度のボリュームの著作は何冊か読んでいるのですが、「ディスクール」といったミシェル・フーコーさんの着想を借りて、合州国在住のパレスティナ人である彼が渾身の力をこめて書いた、西洋による観念的な東洋観(とくに対イスラム世界)の長い形成史についてのこの本はかなり手強いです。読みながら、たとえば小森陽一さんの分析紹介(『ポストコロニアル』岩波書店)によれば、欧米という「文明」に対しては劣っているが、より発展の遅れた国々を「野蛮」と見なしうる「半開」であると自己規定して、近代を走ってきた日本のこと、そこで生きる自分にも思いが至り、息苦しくなって、この本から気持ちが離れないままで、気持ちを一回はずせる本ということで、今年出た気になる詩集を2冊読みました。奇しくも山崎さん関口さんもヨーロッパ在住の詩人です。山崎さんはユーゴの大学に長くとどまって文学研究を続けている人で、関口さんはフランスで比較文学、フランスからアフリカ、中近東にいたる地域の文化文学を勉強するかたわら、自身のフランス語の詩集も準備していると聞いています。それぞれの資質もあるのですが、普段自分を取り囲んでいる日本語、おびただしい出版物としてあふれる日本語とは距離を置いた日本語が新鮮なのです。

 去年くらいから、日本語の本、というか、現在の日本文化、日本の出版状況が生み出す本を読むのが面白くなくなってきて、英語のおもに小説を読むことが増えてきました。英語での日記的文章も書いてきました。日本語に翻訳されていない本の世界を歩き回るのは、選択の幅も広がって楽しい経験です。でも、サイードさんのがっしりした本を読むと、改めて世界の文化の底に横たわる差異、差別的意識を生んできた歴史、時間をかけて作られてきた人間観・人種観、そしてそれが無意識にどんな本、どんなテキストにも影のようにどこまでもついて回っていることの怖さを思い起こさせられます。もちろん、西洋文学をその歴史をも含めて須賀さんのようにかみしめるように読むことはそれだけで大変なことでしょう。でも須賀さんの本を読んで、須賀さんの言葉の力を借りて、現代の日本の文化の貧しさから目をそらせたような気分になって、それで終わりにしてしまっていいのかと自分に対してやはり思ったりします。結局、こうしたことを一貫して考えつつも、その都度息抜きあるいは隠れ家としての読書にしがみついてきたようにも思うのです。「何をどこで買って読んだか」といったことを書いたりする息抜きも確かに必要ですが、もう少し大きな枠組を構え直して本を読むようにしようかと、サイードさんのこの本のように、長いこと読まずに放っておいた重厚な本たちを引っ張り出してきて、机の横に積んだりしている今日この頃です。そして、この、自分の何かむんむんとむせ返ってくる気分を詩に書いたり、何らかの行動に変えたりしようかと思ったりしています。


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