2001.5
2001年5月
◯81/5の手帳から 黒テントの「夜と夜の夜」(佐藤信作・演出)を見る。テント演劇の達成点だった。三角関係っぽい女性関係も今思えば楽しそう(?)。
◯91/5の手帳から 若い家庭(笑)ゆえか、毎週末のように来客。今思えば、大人っぽくふるまうべく無理していたかも。
「5月の備忘録」(2001/5/22)
何かとばたばたしていて、この欄の更新が伸び伸びになってしまった。メモ風にでも今月のことを書き留めておこうかと思った。
◯ゲイル・ツキヤマさんの『糸で書いた言葉』、小森陽一さんの『ポストコロニアル』の感想を、ひつじ書房主宰の「書評ホームページ」に書いた。とくに小森さんの本については日本についての自分の認識がまだまだ甘いなと思わせられるところがあり、たとえば詩を書くことについて、どう考えたらいいかと迷っていると某席で某詩人に話したら、「問題なのは渡辺洋自身だよ。それだけだよ」と、あまり参考にならない説教をされて、聞くんじゃなかったと思いつつ酩酊して帰った。
◯作家ジャメイカ・キンケイドさんの初期のコラム集『トーク・ストーリーズ』、スティーヴン・ダルドリーさん監督の映画「リトル・ダンサー」についての感想を、英文日記のページに書いた。とくに「リトル・ダンサー」については、サッチャーの強権政治時代(ブレアも見かけがソフトなだけとのことだが)の苦しい炭鉱の街の少年がダンスに目覚めてついにはサクセス! という誰にでも分かるシンプルなストーリーに、政府への怒りを込めた傑作ぶりにはまってサントラCDやシナリオ本も買ってしまった。
◯書評メールマガジンという、編集者たちが集まって作っているメルマガに長めの感想文を季節に1回書くことになり、エドウィージ・ダンティカさんの短編集『クリック? クラック!』について書いた。6月上旬の配信とのことで、今登録すれば、その頃読めるはず。
◯これは4月の末のことだが、イメージフォーラムのフェスティバルで鈴木志郎康さんの映像作品「極私的にEBIZUKA」を見た。造形作家海老塚耕一さんの作品と語りを中心に構成したもの。作品は海岸にしつらえられた鉄板を使った乗り降りできる一種のモニュメント、過疎の島の古井戸を利用したもの、山奥の橋に置かれたオブジェが主だったものだったが、最初の作品は何か土地の人が作品とも思わずその上に立って釣りをしていたりするのが楽しいと言えたし、井戸の作品はその上に伏せた鉄板に開けられた穴からもれる光が深い水面に写っているのが感動できた。しかし、3番目の日頃人のほとんど通らないような、山奥の誰かに教えられなければ誰も見に行かないような場所に置かれた水をたたえたオブジェが時と共に色合いなどが変化していくという作品には割り切れないものを感じた。これは社会(人々)に向けた作品ではなく世界(宇宙)に向けた作品なのかもしれないな、忘れられた場所で自分の作品が世界(宇宙)の一部として変化していくのを楽しむという。でもこうした作品群が成立する背景には自治体とか表現者のグループとかが関わっているわけだし、この3番目のオブジェについては、「割り切れない純粋」みたいなものを感じた。作品を映像(この場合、フィルムと主にビデオ)で撮るということについても、その映像を見る人間は果たしてその作品と向き合えるのか、教育テレビの美術番組や演劇の放送などでも感じることだが、見る側の感じとしてはスチルないし静止映像のほうが想像力を刺激されるのかなどと思った(習慣の問題かもしれないが)。
◯長いスパンでの辞書やそのCD-ROM版の編集が続き、これからも続くだろう。それはそれで食い扶持や売り上げを確保する大切な仕事だと思うし、きちんと取り組める仕事だと思うが、文芸翻訳の編集がしたいなあと思うようになった。とりあえず仕事とは関係なく、いい作品が読みたいと思って、去年くらいからぼちぼちと英語の主に小説を読むようになって、1年半で40冊くらい読んで、自分なりに、他の社でやられてしまうなら辞書という本業があるのだからそれでもいいけど、いつでも気力さえあれば始められるようなラインアップというか企画の配置図は思い描けるようになったかと思う。ま、やるとしたら、外部の人の手を借りるとしても一人でやるしかないわけだが。
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