2001.4



2001年4月
◯81/4の手帳から シェイクスピア・シアター(出口典雄さん主宰)のシェイクスピア全戯曲上演という快挙。その劇場ジャンジャンも今はない(でしたよね?)。
◯91/4の手帳から 60年代末から70年代始めにかけてのスター、クロスビー、スティルス&ナッシュの日本公演。ミュージシャンも観客もすでに「懐メロ」中年だった。

「言葉をめぐる手紙」(2001/4/8)

 春の家族旅行、真木の小学校の入学式といったイベントも終わり、2月末に傷めた足も医者から無罪放免となり(まだ若干痛いですが)、ひと息ついているところです。前回の続きを少し書いておきたいと思って、書き始めています。

 前回はジャマイカ出身の英語作家ミッシェル・クリフさん(1940-- )の『天国に通じる電話はない』(No Telephone To Heaven, 1987) を読みかけているときでしたね。その後、ドミニカ共和国出身のジュノ・ディアズさん (1968-- ) の『ハイウェイとゴミ溜め』(Drown, 1996) も読み、2冊の感想をひつじ書房主宰の「書評ホームページ」に書いて、今はハイチ出身のエドウィージ・ダンティカさん (1969-- ) の『息吹、まなざし、記憶』(Breath, Eyes, Memory, 1994) を読んでいるところです。彼らに、以前からこの欄でも触れているアンティーガ・バーブーダ出身のジャメイカ・キンケイドさん (1949-- ) を足したあたりが、カリブ海の島国出身の英語作家、俗に「脱・植民地主義」と言われる作家の代表選手ということになるでしょうか(同じくくり方をされる作家たちはフランス語文学の世界でも活躍していますが、私はまだよく知らないので、ここでは英語圏のみ触れます)。

 彼らの作品の特徴として、それぞれの出身地の言語を織り混ぜた、躍動感のある英語文学を達成しているということが言えると思います。大出版社による規格品化が進んでいる英米文学を活性化させているという、これは「英語の文学」を見ている視点からは確かにそうなのですが(「英語の文学」だからこそ、日本人である私にも情報が得やすいし、簡単に入手して読むこともできるわけですが)、逆にそれぞれの母国から見るとどうなのかを考えてみると、なかなか難しい。彼らの母国であるカリブの島国は人口が数万から数百万人の小国、長年スペインやフランス、イギリス、合州国の統治や圧力に悩まされ、独立を確保した今でも、そうした国々から経済的に自立しきれず、たとえば仕事は役人、教職、国外資本による観光産業を除けば、まずしい第一次産業しかないという状況、治安も悪かったり政情も不安定ということで、勉強のできる人間や資産を持っている人間など、機会のある人々は合州国に出て行ってしまうという現状があります。前記の作家たちもそれぞれの事情で合州国に出て行った。そこで英語の作家として一応成功もしたし、新しい表現者として注目されてもいる。しかし、それをそれぞれの祖国の側から見ると、表現(者)を英語に奪われたと見ることもできるわけです。つまり、それぞれの作家は努力して英語圏で成功したけれども、その成功が祖国の文化に反映されるわけではないという微妙なポジションにいる。つまり、見方によってはそれぞれの祖国の経済だけでなく、文化も英語圏に取り込まれるという面があるのではないか(もちろんそれぞれの作家の努力や作品の達成、それぞれの国の作家として活動する舞台としての小ささという事情は否定できませんが)。そして、80年代から活躍してきたジャメイカ・キンケイドさんについて言えば、近作の『マイ・ガーデン』(My Garden, 1999) などは、合州国での葛藤から生まれた初期の作品の迫力を失って、ちょっとエキセントリックなところがあるというだけの、成功した作家の余技のようで、がっかりしました。

 じつはこうした作家たちの作品を読みながら、外国語、たとえば英語で書く日本文学を試みてみたいというようなことを夢想していたのですが、「英語の表現世界」を見るだけではなくそれぞれの表現者の母語の文化ということも併せて考えなければと思い始めているところです。リトアニア出身で現在は主にニューヨークで活動している詩人・映像作家のジョナス・メカスさんは「地方主義」ということを言っています。自分の出自である場所の文化を失わずに掘り下げ表現していくべきだというような意味だったと思います(そこはしたたかなメカスさんのこと、彼の表現を見ていくと、この考えには戦略的な部分もあり、事はそれほど単純なものではないことがすぐに分かりますが)。私が今いる日本語の世界、そこには日本語で表現する在日の人々や日本語を学んで駆使する海外から来た人々がたくさんいるわけですし、1億の人々が日本語を身につけているという意味では必ずしも小言語の世界とは言えないわけですが、私はこの「地方」に向かって表現していくぞ、受け止めてみろ、と言える気力がどうにも湧いてこない、そんなことも含めて、もう少し考え続けてみたいと思います。

「日本語という『地方』から」(2001/4/22)

−−相変わらず、本が山積みだなあ。どうして読むペース以上に本を買うわけ?
−−ひとつは洋書をネットで買うのに、2、3冊ずつ注文するのが馬鹿らしくてエイヤっと買ってしまったことがあります。それと本を読んでいるうちに、ああ、次はこっちの方面の本を読みたいなあなんて関心が広がってしまって、ついつい。
−−で、最近は?
−−カリブ海出身の英語作家を続けて読んでいて、で、やっぱり気になってフランス語作家も読んでおこうと思って、仏領マルチニックのラファエル・コンフィアンさんの『朝まだきの谷間』、パトリック・シャモワゾーさんの『幼い頃のむかし』(ともに恒川邦夫さんほか訳・紀伊國屋書店)を読みました。ま、さすがに翻訳ですが。
−−仏領ってのは?
−−植民地ですね。でもまだばりばりの植民地だから、「海外県」と言っているようですね。で、言語はフランス語と現地なまりのフランス語(バナナ=フランス語)、そして諸言語の融合である現地語のクレオール語、それとシリアの人が多いのでアラビア語なんかも一部で使われているようです。で、『幼い頃のむかし』の「訳者あとがき」によると「基本的なフランス語表現の枠組みの中に、クレオール社会の風習や習慣を色濃く反映させんがために、クレオール語表現を混入して練り上げた斬新な文体」だそうなんだけども、訳者もことわっているようにその面白さは翻訳ではよくわからなかったです。英語作家の作品は英語で読んでいたので、その異言語が英語の中に織り込まれて読んでいてぎょっとするという体験から何となく想像できるけれども、やはりフランス語は読めないので。

−−で、読んでどうだったわけ?
−−そうですねえ。どちらもフランスのガリマール社が「高雅な幼年時代」というシリーズの第1回配本で出した本なんだけれど、『朝まだきの谷間』の方が、散文的な内容を多く含んでいて翻訳でも面白さが伝わってくる感じでした。姉たちの結婚(父親が全部決めてしまう)とか学校や教会の話(フランス語やカトリックを規範とする空間と子どもたちとのずれ。わざとクレオール語でしゃべって教師に罰として首輪をかけられるんだけれど教師のフランス語も現地なまりが隠せなかったとか、「教理問答」の現地人の先生を、どうしてイエスやほかの人物がみんな白人なのかと問いつめて泣かせて辞めさせてしまうとか)、親独のペタン政権の時代やアルジェリア戦争の影響やフランス仕込みの共産主義の影響でいろいろな活動が起きてはつぶされるなんて歴史もさりげなく入っているし、田舎と首都の落差とか、島尾伸三さんの奄美大島での少年時代をまとめた『星の棲む島』(岩波書店)にも通じるような「島文学」の楽しさもあります。
−−『幼い頃のむかし』の方は?
−−随所に詩が織り込まれていて、翻訳を読んでいても詩的な文体を感じました。シャモワゾーさんは首都に生まれ育った人で、大家族をお母さんが切り盛りする話なんかは面白いんだけど、原文がわかれば何倍か面白かっただろうと思います。
−−この2人にかぎらず、これまで何回もふれてきたカリブ出身の英語作家たちにしても、翻訳はけっこう出ているんだけれど、ほとんど読まれてないね。
−−やはり日本語にしてしまうと、異言語が作品のなかでぶつかり合う面白さが、ほとんど表現できないということがあると思いますね。異言語の部分をカタカナ表記にして日本語訳をひらがなでカッコに入れてつけるくらいしか今のところ手はないんだけど、言葉がぶつかり合う落差はうまく伝わらない。「なまらせる」という方法も合州国の黒人文学の訳で見たことがあるけれど、東京が地方を笑う価値観を反映させているわけで問題がずれてしまうし。日本語の文学作品でも、亡くなった李良枝(イ ヤンジ)さんが「由煕」(講談社文芸文庫)でハングル表記を取り込んだり、英語での会話を訳ぬきで入れた水村美苗さんの『私小説 from left to right』(新潮文庫)とか、古くは口語英語を欧文とカタカナで混ぜ込んだ谷譲次さんの合州国放浪小説「めりけんじゃっぷ」シリーズ(教養文庫)とか、いろいろな言語を取り込む実験があるにはあるんですが、まだまだ個々個別の表現という感じで、日本語の表現、日本人の日本語観を揺さぶるには至っていないですね。

−−結局、カリブ出身者たちの文学だけでなくアジア系の人々の英語文学とかも非常にさかんなわけだけれど、その辺り日本語の内にとどまっていると、ほとんど気づかずに通りすぎてしまうってことかな。
−−そうだと思いますね。最近思うのは、サッカーでも野球でもスキーでも世界レベルで考えるようになってきているでしょう? スポーツ新聞見ても、何か日本のプロ野球がローカルな存在に移行してきている印象だし。だから文学ももっと目を世界に開いていないと、日本語の本という市場でエンターテインメントに差をつけられてひがんでいるなんて狭い世界での緊張感を欠いた甘え合いになる危険があると思いますね。


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