2000.10
2000年10月
◯80/10の手帳から 大卒2年目にして高校の新刊教科書を2冊任せられるなど、お仕事人生のギアが入りつつある。
◯90/10の手帳から ぼちぼち第1子誕生という緊張感。仕事に追われ、遊びは控えめ。
「秋の感情」(2000/10/16)
この2月の入院前後から始まった、急ごしらえの小辞典の編集が一段落した。辞典にかぎらず、どんな本でもそうだけれど、よろしくお願いしますと印刷屋さんに渡した後、夜明けに目が覚めてあそこの処理はあれでよかったのかななどと不安になったりする。そして会社でほかの編集者とその点について話して自分をなだめるなどなど。辞典の場合は特に編集の終わり頃は過度に細かい作業に集中しているので、こうした症状がしばらく続く。そして感情がちょっと不安定になったりする。でもその不安と付き合うのも仕事なのだから仕方ないか。
最近は日本について考えさせられるような本を続けて読んでいる。ガバン・マコーマックさんの『空虚な楽園−−戦後日本の再検討』(松居弘道・松村博訳・みすず書房)や多和田葉子さんの小説『光とゼラチンのライプチッヒ』(講談社)についてはすでに感想を書いた。その後は戦時中、日本に足止めを食ったフランス人ジャーナリストであるロベール・ギランさんによる記録と分析『日本人と戦争』(根本長兵衛・天野恒雄訳・朝日新聞社)を読んだ。ギランさんは官憲による日夜の監視など、きつい体験をされたにも関わらず、冷静に公平に筆を進めているが、全編を通じて痛感するのは、この国の政治家や軍人が国民に事実を伝えることをまったく必要と感じていないことだった。戦況についての嘘に続く嘘、合州国の被害や自国の勝利を誇大に伝え、自国の不利な戦況については天皇にさえ伝えないか、ぼかしてしまう。そうした体質は「日本書紀」という正史を捏造した古代からのものだが、国民はそれに対して追求するというのでもなく、知らなかったのだから自分たちに責任はないということで、自分たちを「被害者」として規定して「それでよし」としてしまった。それが戦後、冷戦という枠組の中、合州国の傘下で復興を楽しんできたこの国の右も左も含めた言語空間の基本をなしていると言えると思う。
今は広瀬隆さんの『私物国家』(光文社知恵の森文庫)を読んでいるのだが、これがまた胸の悪くなる本なのだ。政財官の戦前からの政略結婚の繰り返しによる、癒着という言葉では言い表せないほど根深くそして肥大化した、ゆるやかな縁戚関係が主要な省庁の事務次官クラスを独占し、それがゼネコンや金融業界の縁者とつるんで果てしのない汚職構造を生んで国民の税金を私腹に入れ、金融機関そのものまで次々に破綻させ(その破綻を補うために巨額の税金を吸い上げ)、挙句はこの国を国民1人当たり400万円以上という大負債国家にしてしまったという事実。どんなに浄化が叫ばれても、その浄化を担当する人間もまた一族なのだから、まともな浄化が行われないどころか、浄化を担当するポストで高額な収入が得られるし、行革にしてもそれを進めようと声を大にしていた首相さえも先の一族なのだから話にならない。もちろん、ここにおいても国民は事実から遠ざけられたままだ。検察の捜査もほぼすべての汚職事件において、大物には手が出せず巨額な使途不明金は誰かの懐に入って、今も暴力団と結びついた、さまざまな収賄に使われていることだろう。そしてそうした状況に対する緊張感は、国民の間では「不景気」「重税」という問題に縮小されてしまって、それ以上踏み込む気運は生まれていない。つい先日も東京の日の出村で廃棄物処分場のために土地の強制収容が行われ、反対派の市民に対して知事が「ちっぽけな環境問題にかまけた」といったゴミ扱いのコメントをしていたが、環境など何処へやらでこの処分場の建設を強行に推進しているのも、役に立たない原発を乱立させたのも、とにかく飛行場や海洋横断道路、学園都市建設、核燃料サイクル基地、安全性の定かでない原子炉のアジアへの輸出(もちろん安全性を保証する委員も同族)などなど大きな利権がからむ場面を牛耳っているのは、すべて上記の汚職一族と考えて間違いない。
こうしたことを考えていると、ふと日本の文学とか表現とはいったい何だろうかという気持ちになってくる。日本語をあの手この手で駆使して現実から目をそらした仮想空間を作って、そこに逃げこむことで気分をよくしたり、また表現をすることで小さな自分の権威を満足させている、そんな領域を出ていないことを自覚できないまま、仲良しグループを作ったり、他人を馬鹿にしたようなことを言って溜飲を下げたりしている貧しい空間。そこからどう意識を起こしていこうか。
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