
詩の電子図書室 別館6
伊藤聚さんの「世界の終り」を読む−−『伊藤聚Web詩抄』解題に代えて
この1月6日(1999)、伊藤聚さんが急逝された。1935年生まれ、63歳という若さだった。私は同人誌「飾粽」(1989−92)でご一緒させていただいて以来のお付き合いだが、詩集『ZZZ…世界の終りのあとで』(書肆山田・1991)で聚さんの生年を知るまで実際の年齢より10歳くらいお若いのではと思っていたのでびっくりしたことがある。そのくらい闊達で、髪こそ真っ白だったものの、「若い」という印象を与える人だった。
「飾粽」の解散後も、私が参加していた同人誌に作品をよせていただいたり、イメージフォーラムやメカス日本日記の会のイベントでとか、丸善でばったりとか、飲み会でなど、連絡をとったりお会いしたりする機会は途切れずにあり、いつもお元気そうだったので、その亡くなり方の急さはショックだった。
聚さんは闊達だったと書いたが、闊達すぎるという印象もあった。普通の人とどこかスピード感がずれている、普通の人に合わせていたということなのか。たとえば、街でばったり会ってお茶でもというようなときに、ときどき聚さんが自分の世界に入ってしまっていて、無理に会話をしているという印象を受けることがあった。そのとき、聚さんは聚さんの詩のような形で世界を受け止めるモードに入ってしまっていたのではないかと思う。こんなところで、無理に自分なんかと向きあってくれている聚さんに迷惑をかけているのではと緊張したものだ。
聚さんが亡くなられて、聚さんが最晩年に参加した同人誌「New 感情」で追悼号の編集が始まっているし、鈴木志郎康さん編集の選詩集『伊藤聚Web詩抄』もインターネット上で公開された。聚さんの作品については、すでに生前最後の詩集『公会堂の階段に坐って』(書肆山田・1997)についての一文を書いているし、ご本人の許可を得て編集・制作したエキスパンドブック版の選詩集『言いそこない』もすみれ文庫として発表しているので、ここでは聚さんの作品の中でも好きな作品である「世界の終り」(『ZZZ…世界の終りのあとで』所収)を作品にそって読むということをしてみたい。では以下、学校の教科書の教師用解説書的なスタイルではありますが、本編と併せてお読みください。
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「ここでいいのでしょう?ね、あなた。」
1行目。「ここ」とはどこか? 「あなた」とは誰か? 疑問がないでもないが、意味はわかる。素直に受け止めておこう。あっさりした1行、ひょっとしたらラストと呼応して後から付け加えられたものかもしれない。
「駅のホームに立っている。……」
散文体の1節。どこか山中の無人駅の風景。旅人は一人らしい。旅の帰りに寄り道でもして、それとも映画のロケハンでもして(聚さんは映画の助監督だったことがある)、山奥にまで踏み込んでしまったのか。一見何でもない風景描写なのだが「《最終列車の運転見込依然不明》という通達が、栗の木に銜えられた通信線をはしった。」と言う。一読して通りすぎてしまいそうな箇所だが、「通達」はどうやって旅人に伝わったのだろう。スピーカーで放送でもあったかと考えられないこともないが、とにかく旅人には《最終列車の運転見込依然不明》ということがわかった。インスピレーションか? あまり実像を追いかけないで、不吉な兆しを受け止めておく。
「ここで立往生? まいったな。……」
次の1節。困った様子。と言っても旅人はまだへこたれていない。「ここ以外でなら、こんな事態も」「なんとか別の途を見つけなくては」という語句に文字通りの意味以上のメッセージをうっすらと感じることができる。
「そう、ここから分岐して……」
文字通りの意味に取れる1節。旅人はここへ以前にも来たことがある。しかしそのときはまだ「人の影」もある世界だった。
「軽便鉄道の発車時刻表が……」
「別の途」がとりあえず見つかった、それもあまり待たずにすむようだ。「ついていたね。」
「蝉の声が耳鳴りと混ってしまう。……」
旅人の闊達さ、「バッグひとつ持たない旅とはね。」と自分を振り返って笑う余裕がまだ感じられる。
「予定時刻はとうに過ぎていた。……」
軽便鉄道は廃線になっていた。「レールの影もありはしない。」「脱出ルートどころじゃなくなってしまった。」文字通りの危機への突入。
「下方の盆地に先ほどまでとは違った風景が……」
風景が変貌を始める。「剥きだしの石灰岩の舌のような帯」「白っぽい土煙が立つのは発破を仕掛けたのか。」また「ダンプカーが虫のように蠢いて」というところは風景がそのサイズまで歪んでいく兆しと受け止められる。
「うごけないのだ。事態の進行が予想したより速かったということ。」
作中の描写であると同時に、うっすらとメッセージが読者にも飛んできている。
「山頂近辺にもグレイの滲みができていた。……」
風景が急速に変貌していく。広がる「グレイ」の中に樹叢までが飲み込まれていく。「ここをなんとかやり過すのだ。」
「短いかすれた汽笛が聞えた。……」
いつの間にか「レールの間に模型のような細いゲージのレールが何本も敷かれ」ている。そこを「ローラースケートほどの大きさ」のディーゼル機関車(先頭)がやってくる。そして「旧式の蒸気機関車」もまた。大きさが明示されてはいるものの、旅人も読者もかぎりなく小さな存在になっていくかのような、その機関車たちの存在感。風景のサイズがすでに歪んでいると見るのは読みすぎだろうか。
「ディーゼル機関車のコックピットがちょうど足の下に近づいた。……」
まだ大きさの関係は描写としては明示されているが、中心は模型と虫の世界に移っている。ここまで来ると読んでいる読者(私)としても、聚さんが好んで描いた小さな正体不明の生物をちりばめたイラストなどを思い出す余裕がなくなってくる。
「虫たちは鉤の前脚を使い、銀色のアンテナを振りながら山へ向って線路を延長していった。……」
「工事列車どうしが衝突事故を繰返し」、変色して死んで腐っていく甲虫たち。悲惨な風景はすでに彼らを中心に破滅に向かって動き始めている。「いつでもどこでも腐敗は部分であり、動ける虫たちはその上を汚い脚で歩きまわる。」という虫の描写はそのまま人間世界についてもあてはまるようだ。
「側溝の底のレール上を特急列車が通過した。……」
風景そのものが壊れていく。「プラットホームのあちこちで陥没がはじまる。悲鳴もなく。」
「こんなになってしまって。/こうならないうちにあれほど。/どうします?あなた。ここにいるしかないのでしょう?」
壊れていく世界。「世界の終り」からのメッセージ。こわれているのですよ、ここまで。あれほど気をつけようと言ったはずなのに、それでも。ここにいるしかないからここにいるのですよ、という声は、悲惨というよりは、やや疲れを帯びたものの、なお軽快さを失わないで踏ん張りつづけている旅人、詩人の声だ。そして「ここ」は「世界の終り」を迎えた作品中の「ここ」であると同時に、この作品が書かれ、読まれている「ここ」に確実に着地している。詩人、伊藤聚さんの目には、「世界の終り」を象徴する「グレイの滲み」がいつも見えていたのではないかと思える。
最後に、あらためて伊藤聚さんのご冥福をお祈りします。
付記・現在、書店で手に入れられると思える、伊藤聚さんの主な著書を以下に紹介します。
詩集
『羽根の上を歩く』(1985・書肆山田)
『ZZZ…世界の終りのあとで』(1991・書肆山田)
『公会堂の階段に坐って』(1997・書肆山田)
『伊藤聚詩集成』(2001・書肆山田)
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