詩集 二十才の恋 WH1986
二十才の恋
トライアングル I
トライアングル II
声
きみは背中でゆめをみる
鬼の山
PASSION
二十才の恋
説明したくて
説明しようとして
ぼくの二十代は二十才(はたち)の恋の余韻だったんだよ
と一行思いうかべて
やめた
ある詩人について書かれたエッセイを思い出す。エッセイの筆者の
ところに詩人から、ある年「孤独」とだけ大書された賀状が届いた
そうだ。エッセイは、島にひとり住み、自然を相手に自分を問いつ
め、暮らしつづける詩人の「孤独」いかばかりか、とつづいていた
と思うが、ある詩人が誰か、ということすら曖昧な今となっては、
私にとって問題なのは、私は「孤独」などと大書した賀状を書かな
いだろうということだ。書いてみたい誘惑にかられることがあるに
しても。
詩人になりたいとあこがれていたのも二十才の頃だ。詩の雑誌や詩
集を読み、自分で書いた詩を周りの人間に見せたりした。詩のこと
や恋のことでよくからかわれた。そしてそのからかいを真に受けた。
するとからかう者たちはますます面白がって私をからかい、何だ
かわからないまま私をもてあそんで暇をつぶそうとする者や、私の
落ち込みに同調して自分を慰めようとする者まであらわれる始末だ
った。当時の何冊か残っている日記をみると、好きだった女性と詩
と芝居と映画のことしか書いていない。詩と恋が織りあいながら、
幻想のなかにはまりこみ、どんな目に会おうとそのひとのことを想
いつづける二十才。それはそれでしあわせでもあったんだろうか。
さっき、富岡多恵子さんの文庫本をぱらぱら眺めていると、恋人の
ところへ去っていった夫に対して、絶対に離婚しない妻というのは
不可解だが、去っていった妻に対して、絶対に離婚しない夫という
のは滑稽な感じを与えるという意味のことが書いてあった。私はこ
ういう言葉に出くわすと自分のことかと気落ちしてしまう。そして
もっともっとあばいてくれという気になったりもする。十九の終わ
りの頃、ひとりのひとを好きになり、二十二にかけて何度もうまく
いきそうになって、すぐいきちがい、二十八の時、結婚を約束し
て、二十九の時、ことわられた。「あなたはアイがあるかもしれない
けどねえ、私にはアイなんてないの」という電話の声がひびきつづ
けて三十になった。「あなた、前世で私の飼犬かなんかだったんじ
ゃないの?」
十五の時、七〇年だった。その頃、封切りで見た「いちご白書」や
「ウッドストック」はがらがらだった。「ウッドストック」のキャ
ッチフレーズはたしか「愛と平和と自由の三日間」だった。しかし、
私にとってのその時代とは、電車にのりこんでくるタオルで顔を
かくした角材青年たちや、名画座の殺気だった雰囲気や汚い新宿地
下道や、アメリカン・ニューシネマやテレビニュースやレコードで
しかなかった。結局は妄想的な中学生であり、高校生でしかなかっ
た。オマエら社研はナンジャクだとよく批判された。沖縄、公害、
炭鉱、か。ほこりっぽい黒い制服で、気のふれたような作文を提出
するくらいがいいところだった。友部正人の「どうして旅に出なか
ったんだ」という歌のタイトルは自分に向けられたものだと、その
後、ずっとひっかかっていた。
予備校生の時、詩に夢中になり、大学に入って恋に夢中になった。
好きな詩は暗記するくらい読んだ。七十五年、詩は元気だった。最
後かもしれない元気さだった。大学一年生はもう器用に生きるテク
ニックを身につけはじめていた。私はぶよぶよしたムキダシの卵だ
った。文学部へ行ってもブンガク青年は笑いの種でしかなかった。
たまに学者志望がいるだけだった。周りにからかわれて落ち込み、
落ち込んでは、周りよりも先に自分を知ることだ、と自己批評して
は、自分というくせをこわした気になっていた。だからだろうか、
つい最近まで怒る人間が不思議で仕方なかった。
自己批評するからおくれてゆく
おくれてゆくから追いかける
あこがれ って距離だ
あこがれる者はにおう
死んだ者のくすりのにおい
あせくさい少年のにおい
破滅じゃなくて
破壊だ
ドイツのある寄宿舎で
教師に呼び出された少年がとつぜんしゃべりはじめる
「虚数についてぼくは思い違いをしたのかもしれません
虚数をいわば数学の流れに沿って考えると
それらはぼくにとってあたりまえのように思えますが
虚数の奇妙さをじっとながめていると
それらがとんでもないもののように思えるのです
しかしこの点はたぶんぼくのまちがいでしょう
ぼくは虚数のことを知らなすぎるのですから
そして虚数とは何よりもぼく自身なのですから」*
東京のある会社で
重役に呼ばれたネクタイ姿の高校生がとつぜんしゃべりはじめる
「仕事が恋でも詩でもないなら
なぜそうなってしまったのか
考えるべきときが来ているのではないでしょうか」
大学の裏手に、ランニングする運動部の生徒以外には、あまり知ら
れていない木戸がある。私はバス通学だったので、停留所に近いそ
の木戸をよく利用した。ある朝、その木戸を抜けて、テニスコート
を見おろせる細い道をあるいていると、ふと今日はあのひとに出会
えるにちがいないと思った。あるいていくと、並木がとぎれる教室
への曲がり角にあのひとはあらわれた。そんな日射しの記憶。
卒業して、一、二年だったろうか。あのひとにお金が必要になり、
ひさしぶりに新宿で会った。喫茶店で腰かけて、緊張した私はライ
ターで髪を焼いた。お金を貸すとあのひとは帰っていった。エスカ
レーター。
二十八の時、結婚しようかと言った。あのひとはうれしいと言った。
数ヵ月後、親がよろこぶからと思わなきゃ結婚なんてしないわよ
と言った。数ヵ月後、ある会で同席した。このひとに頼るわけなん
てないじゃないと口をあけて笑って言った。あこがれというくぼみ
をざらざらと叩かれていた。自己批評は負けたわけだ。
二十八の時、同人誌をはじめた。あのひととふたたび会えるように
なって、また詩が書けるような気がした。あこがれが距離をちぢめ
たような気がした。そしてその距離をとびこえる思いで詩を書く。
そしてその虚構への誤解が私から事実を奪った。
蛍光灯の音
冷蔵庫の音
ヒーターの音
遠い車の音
床に腰をおろして
あおむけに腕をつっぱると
腕から肩へ
からだじゅうの音があつまってくる
くちびるも
ちぶさも
あしも
思い出さない
むしろ
この腕がもげる
この耳がちぎれる
この目がうらがえる
すると赤鬼が
ほのおのむこうから
穴のあいた目で
さらに過去に
むかしむかしに
押し返してゆく
おれは生まれたばかりの浦島太郎だ
十年という時間を
一瞬のものにしてしまおうとする
悪趣味がタノシイ
千年という時間を
いきなり吐き出してみたくなる
悪趣味がウレシイ
三十になってからあのひとと一度だけ会った。デパートをまわって、
あのひとの誕生プレゼントをいくつか買った。「いま、退職金で
生活してるの」「まあね」食事をして、仕事のあるあのひとと会社
をやめた私は地下鉄の駅でわかれた。
*R.ムージル「若いテルレスの惑い」(吉田正巳訳)より誤用
「二十才(はたち)」の「はたち」はルビ
トライアングル I
ひとに会いにいく。早目に約束の場所にむかいながら、これからか
わされる会話をいくつも頭のなかで想像する。「するとワタナベさ
んはこのやり方ではダメだっていうことになりますか」「いや、そ
う言ってしまうとすこし違うんですけど」喫茶店でカバンの中身を
たしかめたりしていると相手がやってくる。私はもう話しおわって
しまったひとをこまったように見る。
鈴木志郎康さんの「石の楽器」という詩がある。五度目の流産をし
た女が、渓流のなかに身をしずめて、石となり、石の楽器となる。
石になる、と考え、十年前、好きなひとを、「行かないかもしれな
い」ということばを「でも待っているから」とかえして、二時間以
上待ったことを思い出した。「もういないかもしれないと思ってた」
と言いながらそのひとは来た。そして喫茶店ですこし泣いた。あ
の二時間以上のあいだ、ずっと立ったまま、自分がなにを考えてい
たのか、思い出せない。あのまま、あのひとが来ないで、私が石に
なっていたら面白かったろう、とか、あのひとが来なかったらどん
な二十代になっていたろう、とか言葉をめぐらしてみるけれど、い
やむしろ石というなら、このところ周期的にやってくるあれのこと
だ、あれなら石だと、以上のようなことをさっきまで思いめぐらし、
やっとこの詩を書きはじめたのだった。
里美はいきなり腕をくんできた。「会いたい」と言われ、新宿に行
った。コーヒーを飲んで食事に行った。お酒を飲んで、里美は泣い
た。小山にふられたと言う。二人がつきあっていたことも知らなか
った。結婚の約束もしていたと涙をながした。周囲の目を気にしな
がら、なぐさめめいたことを口にして、どこか得意な気持ちになっ
ていた。
それから一日か二日おきくらいに里美から電話がかかるようになっ
た。毎週のように会った。あのひとから電話がかかることはほとん
どなかったから、家族からみると、里美が私の恋人だった。小山と
会うと里美の話が出る。「でもボクは相談窓口みたいなもんだから」
と言った。別の友人から「里美が好きならはりあわないか」と言
われた。「好きなひとがほかにいるから」と言った。里美の友人か
ら「結婚するんですってね」と言われた。里美が私に電話をして、
私はあのひとに電話をする。里美には会えるのに、あのひとにはな
かなか会えない。冬、春、夏、と三角形のバランスがすこしずつこ
われていった。
「話があるの」と言われ、里美の部屋に行った。あのひとへの電話
が間遠になり、ひとに里美を紹介したりしはじめていた。「好きな
ひとがもうひとりいるの」「わかった」どこかで恰好をつけたがっ
ていた。タクシーの窓に顔をおしつけて帰った。
あたまはいし
くびはき
どうはわら
てとあしは
はなび
(しなびて)
もっともっと
ふみはずす道をおしえてください
とーとつですが
ちぶさとくちびるは
あたらしいのがいいとおもう
ある朝おきると石になっていた。石は二十五だった。石は息をして
いて、論理で自分をささえようとしていた。石には石の時間がある。
ただ石の時間は社会の時間とまったくちがう。そして石が石であ
ることを通すためには、社会の外へ出てしまわなくてはならない。
一ト月とかふたつきとかにしても、社会の外へありあわせの金をも
って出てしまう、その決断ができない。だからあせるのだ。石のな
かに目ざまし時計を埋めこみ、簡単な代数証明をくりかえし、だか
ら行かなくては、会社へとにかく、と自分をつきあげる。起きてし
まえばなんとかなるさと口ずさんだりして。
いしがぬげて
あなだらけのかおになる
でこぼこの
てとあしは
突起なのか
陥没なのか
泣いてみようじゃないか
と
言葉が
先にはしっていった
もっと
けがれろ
ふとい声で
わらいとばせるくらい
やっと晴れてきた。そう自分でつぶやけるようになったある日、私
はしたたか酔って、あのひとの部屋にころがりこんだ。
トライアングル II
北村太郎さんの詩を読んでいたら「もともと狂うとは/人生におい
て、心を動かさないことに対する/命名である」と定義のおぼえの
ような一節があった。私はいま失業していて、もう二ヶ月も仕事ら
しい仕事をしていない。自分に課したことと言えば、二十代を総括
すること、この詩の連作を書きとおすこと、だけであって、そのた
めに、意図的に仕事をさがしていないとも言える。いきおい、人と
の交渉は疎遠になり、書くか、家事か、でなければ寝椅子で横にな
っていることになる。ひとり住まいの失業者というのは、時間のつ
みかさね、日々の変化をどこかでふみはずしているところがある。
私はこの一週間に五回ほど神保町に出かけた。ほしいと思える本は
なかった。レコードもなかった。見たい映画も芝居も展覧会もない。
ふっと友人と話していて「住んでる町の本屋でほしいと思える本
をさがすのもひとつの努力だよ」とか「でも世の中って、これで面
白いってことにしようね、ってささえあってるものなんだよね」な
どと冗談まじりに言ったことを思い出す。結局、今は「心を動かさ
ない」というよりも「自分自身がいちばん面白い」と思える時なの
かもしれない。面白くないかもしれないものに支払う小さなムダよ
りも、面白い、と心が動かなければ何も支払いたくない、と大きな
ムダのように背中を寝椅子で伸ばす、ぜいたく。
男たちはまじめだ。女たちはまじめだ。ひろがってゆく世のひかり
のなかに、どんな人間の姿もすでに暴かれてしまったかにみえなが
ら、まだこじあけられない墓石のように息をしている。墓のなかな
んて丸見えじゃないか、と言われれば怒るだろう。好きな人間に言
われればよろこぶかもしれない。それでもやはり、次第にちいさく
なってゆく墓石のような男たち女たちは怒っている。おたがいに聞
きたくもないつぶやきを飯つぶのように吐き散らして、届かない。
なぜなら、呟きはいつだってまじめだから、それで終わりなのだ。
であれば詩は不作法にみだすこと。不作法って大まじめなエゴの踊
りだ。
礼子は道の真ん中で大の字になってぐずっていた。「起きろよ」と
ゆり動かすと「放っといてよ」ところげる。まるでマグロじゃない
か、と思いながら、通りすぎる酔っぱらいのひやかしに、半分同調
しつつ、あせっていた。さっきまではみんなで楽しく飲んでいたの
に、帰る段になって、方向違いで二人になるとこれだ。何度か起こ
そうとして失敗したあと、ガードレールに腰かけて煙草を吸った。
三十分ほどしてから、今度はカバンを振りまわして「放っといてよ」
と言いながらヨタヨタとまわりはじめた。「帰るぞ」と言って車
で帰った。車で追いかけてきて電話をかけてきた。駅前に行くと、
マーケットの入口のくぼみで突然服を脱ぎはじめた。下着の上にコ
ートをはおってうずくまった。「放っといてよ」
礼子にはすぐいやになってしまった。こんなはずじゃなかった。二
人で会うようになってから礼子は体温があがったようになってしま
った。しぐさとか物言いとか生活とか、あれこれと批評され、何か
型紙にあわせられるような気分になってしまった。つきあっている
あいだより、その後の時間の方が長かった。「今日は楽しくね」と
呼び出され、最後は「はじめは好きだったんでしょう」「いっしょ
にいるのはそんなにいや?」何か言えばまたあばれだすに決まって
いる。そしてくりかえされる手紙と電話。そんな二年くらいをおも
りのように生きてしまったのは、まだまだ不作法さが足りなかった
ということなのか。
あのひとはというと自分のことで必死だった。自分の表現者として
の生活、それをささえるために仕事があって、仕事がおわれば自分
の表現に集中する。それがおわれば一日をしずめる時間ということ
だった。私はあのひとの必要なときだけ、お金と時間を使えばいい
存在だった。時間が私の声にくぼみを焼きつけ、二十八になった。
歯ぎしりが
自分にしかきこえないというのは
ひとつの
救いかもしれない
からだに
しまいこまれた笑いが
夜の部屋にすがたをうかべる
ことばは
不自由で
無意識をはねのけようとするが
歯ぎしりのように
悪趣味に
ふみはずすこともできる
できるだけ
ふまじめに
不作法に
それからあのひとは生活の変わり目にはいり、おそらく不安だった
んだろう。ある日、電話で「それじゃ、ボクのところへ来なよ」と
言った。「うれしい」とあのひとは言った。
*北村太郎さんの「夢みる窓」からの引用中、「動かさない」に傍点あり
声
ジョン・レノンなんて知らない
ジョン・レノンなんて知らない
一月十九日。さっき手帳をみたら、年が明けてから、ひとに八回会
っている。これが多いのかすくないのか、よくわからない。この部
屋の椅子のこしかけかた、あの窓のひかりが、時間の経過を消して
しまって、日付が体になじんでこない。
じっと目をつぶっていると、ことばやもののかたちが目のおくにう
かぶのはなぜだろう。そもそもことばは頭のなかでどんなかたちを
しているのか。黙読をかんがえると、音と文字の未分化なかたちが
かんがえられるが、それよりもはるかにはやい明滅。
ア
と声を出す
アー
と声を出す
自分の声って自分にはどうやってきこえているのか。
十四のころからレコードをよくきいた。ビートルズにはじまって、
日本、アメリカ、イギリスのフォークとロック。フォーク・クルセ
ダーズ、ジャックス、六文銭、ビートルズ、サイモンとガーファン
クル、クリーム、ピンク・フロイド、ジェファーソン・エアプレイ
ン、CSNY、グレートフル・デッド、ジャニス・ジョプリン、ジ
ミ・ヘンドリックス、CCR、イエス、ローリング・ストーンズ、
それからそれから……。レコードをきくと体のなかに空間が生まれ
る。ジャックスの詩に「ぼくらはなにかをしはじめようと/生きて
るふりをしたくないために」というのがあったが、今はどうかわか
らないが、当時のロックには、音に対して体をこじあけさせていく
意味があった。あたらしい音に対して体を追いつかせていく、その
ことだけで、すでに「なにかをする」だけの衝撃があった。スピー
カーから、ヘッドフォンから、イヤフォンから音がながれてくると、
体はひらかれ、はじめて、自分の体のなかにそんな空間のあった
ことを知る。
だからレコードをきくと、それが自分の声であり、音であると思っ
た。レコードをききながら、腕をふりまわしたり、足をふみならし
たり、頭をかかえたりする。レコードがおわると余韻のなかに自分
もおわっていく。曲をあれこれとならべて聞き、自分のコンサート
を演じたりした。それがどのくらいつづいたのか、いまでもときど
きふっとわたしは声になり音になる。けれど、その距離がうまくつ
かめない。母親の目をぬすんで声になり音になりきった十代半ばの
とじこめられた解放感は、いまひかりのなかに溶けてしまった。む
しろ音を消すこと。音を発さない、椅子のある場所から声をつかみ、
ひきずりだし、つきつけていく。
アノヒトヲ
タスケル
ト
オモッテイマシタ
カワイソウニ
ダレニモ
キミヲ
スクエヤシナイ
「きみのことが心配なんだ」
「あの子は
弟が障害だったりして
小さいころ
あんたがあの子の脳みそとっちゃった
とか
言われたらしいんだよ
だから
僕は
あの子を守りたいんだよ」
「なんであの子に
好きなこと
全部
させてあげられないんだ
って
思うんだ」
あなたは
いいのよ
いてくれる
(電話ノ向コウニ)
いてくれるだけで
いいのよ
あなたに
わたしの
なにがわかる
って
いうの
「俺はね
俺にね
みんなにいやがられて
迷惑がられて
顔をそむけられて
それで生き続けてほしいんだ
わめいたり
うめいたり
口からよだれをたらしながら
それを
世間に
見せつけるんだ
な
わかるだろう
それが俺の復讐だよ
そうやって俺は奴等に復讐するんだよ」*
あなたは
わたしに
なにをくれる
って
いうの
「わかってるよ
もっともっとつらくなるべきなんだ
そうして俺の不幸は
バイキンみたいに次第に周囲に広がってゆく
俺は今
それをやろうとしているんだよ
そうやって
みんなに復讐しようとしているんだ」*
わたしを救えるひとは
ひとりだけいるけど
それは
あなた
じゃ
ないの
いいんだ
ぼくはね
なに
も
うしなわないよ
「夢はおわったよ
何も言えることなんてない
夢はおわった
きのう
ずっと夢をつむいできたけど
でも生まれかわったんだ」**
いいんだ
ぼく
はね
なにもうしなわないよ
ぼく
は
ね
かわっていくだけなんだ
ぼく
は
ね
かわらない無数のぼくに
かこまれて
ね
キミヲタスケルトオモッテイマシタ。デモソウオモッテ、タスケラ
レルノハ、ボクダッタノデス。
声
きみは
十年かけて何になる?
声
伊右衛門になろうか
わりきれないエネルギーに
声をふき出させて
一月二十四日。朝おきてコーヒーを飲みながら、「遠い海へ旅に出
た私の恋人」という曲名を思い出し、歌を思い出し、歌っているジ
ャックスを思い出し、ぼくも旅に出るよ、と頭のなかで手紙を書い
て、甘いな、と消しゴムで消した。それから
目をつぶって
みつめていると
ことばがゆっくりとくずれ
きこえてくる
波動
*別役実「赤色エレジー」より誤用
**ジョン・レノン「GOD」より
きみは背中でゆめをみる
ひかりのなかで声は
すこしおくれる
その声からもおくれて
さっき
かんがえていた
なにか
その考えが
いまの私より
すこしはなれた場所にいて
距離が
みえない
私
と
私の残像
(そのくり返しと照り返し)
かんがえたことと
やったことの
記憶になにかちがいがある?
おかした女がテレビでわらっていて
殺した男から電話がかかってくる
きのう
死んだひとと話をしていて
すこし
泣いた
ねえ
人間は
死ぬまで何回くらい風邪をひくのか
どこにある
ゆめのなかのあまいみず
二十才。私にとって詩は事実だった。「ぼくの眼は千の黒点に裂け
てしまえ」黒点ニ裂ケテシマエ。「今夜、きみ/スポーツ・カーに
乗って/流星を正面から/顔に刺青できるか、きみは!」デキルカ!
「老いゆくものが見まいとする意志の足裏から、/光りはとめど
なく逆流し、/その舌先はいつだって小さな落雷にふるえているじ
ゃないか。」詩は私の喉をこじあけ、私の声になった。詩は私の感
受性の地図になり、詩の目をした私は何度もつまずいた。「『もし
もし、電車のなかですよ』と声をかけられても、地中深く沈みこん
でしまった古釘のように、もう途方もなく深く傷ついてしまった。
もう、すみません、夜がくる、けれども。」「ゆめ、太陽なんぞに
戻るなよ」。そして「心にあることで詩がいわなかったことはなか
った/だから/心にもないことを手が/始めるしかないことになる
というなら/今死ね」。*
「うつぶせに眠っている弟よ/きみのふかい海の上では/唄のよう
に/野の舟はながれているか」。私は詩に閉じこめられていた。詩
の一行一行にからだをかたくして。そして詩のなかにいる私のささ
やかな詩として、好きな女性を閉じこめようとしたのだ。すれちが
いがふえれば詩に閉じこめてしまおうという思いが強くなる。詩の
ように彼女を思いえがき、詩のように思いつづける。彼女は去っ
た。自分の詩を生きるために。そして私にはその意味がさっぱりわか
らなかった。私はただ、自分の思いが足りなかった、という思いに
さいなまれた。私は詩と現実の混乱のなかで、詩のノートを、ある
日、すべて破棄した。「安らぎはあるべくも/ない 冬は終わる
よ」。**
街をあるいていて、ふっとからだのなかのなにもかもが吸い出さ
れ、あるいているのに立ち止まっている気分になる。そして目そのも
のがこぼれおちるように涙ぐんでしまう。ずいぶんながいあいだ、
自分で「泣き目」と名づけた、そんな症状に時おりおそわれた。
一九七〇年あるいは七五年から八五年にかけて、十五才から三十才
という時を私は、ほとんどひとつらなりの時として思いかえすこと
ができる。ひろがってゆくひかりのなかで、ゆめが足をうしない、
空にうかんでゆく過程として。それはひとつの世代と言えるかもし
れない。だがそれは、ひろがりすぎたひかりのなかに、見えない声
として閉じこめられちりぢりになってゆく、世代だ。あとは自分で
思いかえすことのできる、自分という物語から、こぼれおちたくら
がりのような時間がたよりだ。
三十を前に会社を辞めた。出版社だった。大学を出て、六年半いた。
それは私にとって、現実復帰の教室であると同時に、ゆめみるた
めの椅子だった。辞める前に自分で二転三転した。「辞めてやる」
「やっぱりいます」「辞めればなんとかなるだろう」。同僚から
は、現実に対するけじめがなってないと言われた。ゆめの見過ぎだ、
とも。辞めるまでの二、三年、会社は自己実現のためのメディア
だ、と言っては、失敗をくりかえした。「なぜ、たかが仕事とわりき
れないんだ」「ぐだぐだ言って、自分の責任も果たしていないじゃ
ないか」「不満分子になりさがって」。復帰しはじめた現実のなか
で、また私はゆめをみようとしていたのだ。詩のように、詩を書く
ように働く、こと。あのひととまた出会い、結婚の話が出たのもそ
の頃だった。ゆめを実現する。現実をゆめのように生きる。そし
て、その相ついだ失敗のなかで、背中がはがれおちるように私はつか
れてしまった。会社を辞めたのは、直接のきっかけとしては、上司
のやり方に対する、うんざりするような脱力感だった。夏にあ
のひとは去って、秋に会社からすべりおちた。
「塔は
われて
たおれた」***
さて
きみ
世代は
おわった
システムはくらがりをあばき
きみは自分というくらがりをあばき
さらに 追いつめられた
くらがりによって生きる
世代はおわった
ひかりが
濃密な闇をむすぶまで
コンピュータと個人の関係に
キーボードのひとりごとに
ゆらゆらと
闇のたちこめるまで
とりのこされた個
すなわちきみは
目のまえにひろがる
ひかり またひかりを
思い出のようにみつめて
じっと目をつぶる
かんがえたことと
やったことのちがいは
もうひとりのきみが
たぶん
記憶
するだろう
きみは
なんにもしない
なにをしていても
きみは
なにかする
おもうこともなく
きみは
耳をすまして
じっと耳をすまして
耳のおくからきこえてくる
螺旋形の波動のむこうに
あらあらしい声を
あたらしい声を
きみは
背中で
ゆめをみる
あらあらしく
みだれる
*「 」内 吉増剛造「疾走詩篇」「燃える」「ああ、少年の貌の阿修羅が……」
清水哲男「就眠試論」 天沢退二郎「夜の旅」 堀川正美「花火」 以上より
**「 」内 清水昶「野の舟」 藤井貞和「反乱の日」 以上より
*** 早川義夫「つめたい空から500マイル」より
鬼の山
書くことはもっと書くことへ、読むことはもっと読むことへ、書物
とは歴史化された悪趣味の一形態。きのう、出版社につとめる友人
と会い、「また全集の時代がくるかもね」と言ってわかれた。文庫
や雑誌がこれだけあって、単行本は一冊一冊積みかさねてゆく力を
もううしなってしまった、そんな会話。おもしろい本がない、ほし
い本がない、と思う。手のうちが見えてしまって、あとはそれとど
うつきあうかだ。もっともっとおもしろい本を。でなければどんな
安い本でも時間をつかいたくない。
そんな思いをつのらせてゆくと、自分自身しかおもしろいものはな
くなってしまうのではないか。自分を書物のように読む。自分は書
物ではないけれど、書物よりわがままだ。こじあけるまでもない本
の行列はかなしい。そう思いながら、きょう本屋の二階をあるいて
いた。
十代半ばから本をむさぼるように読むのが癖のようになっていた。
出かけるとき、本をもっていないとおちつかない。喫茶店で休みた
くなって、もっていく本を買おうと一時間以上本屋をまわったりし
た。時々、本を音楽のように読んでるだけかもしれない、と思った。
文章のリズムにあわせ、頭の中でシンバルをならす。凪ぎがくる。
ひらかれてゆく。
サリンジャーの「倒錯の森」ってそんなことかもしれない。同名の
短編に出てくる次のような一節、「荒地ではなく/木の葉がすべて
地下にある/大きな倒錯の森なのだ」。The Inverted Forest、こ
の世ではなくて、地下へ、地下へ、うけとめるものもないまま、ど
こまでもふかく、枝々をひろげる木々、内面、訳語がみつからない。
それじゃあ
書く
って
読むスピードをこえることだ
他人
は
不意打ちのようにあらわれてほしい
一瞬のおくれが
枝のようなうでをもいだ
また
はえてくる
うで
だ
自分をいつも説明しようとしていた。だから、十六の頃、友だちが
「おまえがそう思っているなんてわかってるよ」と言ってくれたと
き、本当にうれしかった。そんな体験は三十になる今の今まで、ほ
とんど無いといっていい。だからRCサクセションの「君が僕を知
ってる」というフレーズを聞いたとき、君が僕を知ってるから、な
にもかもどうってことないさ、という歌を聞いてうれしかった。
左卜全ってどんな顔してたっけ。必死に思い出そうとして、佐山俊
二しか思いうかばない。あ、茶川一郎!
僕が死ねば詩は死ぬ。
山に
澄んで
けむる朝に
鬼になって帰ってくる。
オマエハ犬ダ
人間ニナッタ夢ヲ見テイル犬ダ
オマエハ灰ダ
フリシキル灰ダ
ふりしきる灰は、ちいさな欲望をうつす鏡の破片のようにつもって
ゆく。都市(まち)は終わった。網の目のような道路と線路をのこ
して。
地図と
おなじだね
田村隆一は一九五二年発表の詩で「空は/われわれの時代の漂流物
でいっぱいだ」と書いている。いま、私たちは、ひかりのなかをた
だよいながら、空を空と呼ぶ距離をうしない、比喩をぬぐひとに会
う。
もっと
にごろうね
そして
もっと
文盲になろうね
そして
てのひらにお面をゆっくりはがして、「僕はね、ライ麦畑のつかま
え手になりたいんだ」ってさけんで、あかるい出口の方へはしりだ
す。
きみが好きだ
ありがとう
PASSION
神は女に箱をわたした
あけてはならないその箱を
男はあけた
風である
火で湯をわかし
湯からわきあがる風が
宇宙であるゆぶたをはためかす
男が女をきりさく
女が男をしめる
そのたびごとに
なにかが
男と女のからだをはしった
「ア」
と発したか
「オ」
と発したか
「ニンゲン」も「ヒト」もまだしらない
「相手」と「行為」をまるごとさししめす音を
男と女は
発し合い
行為をする
また発しては
行為をはじめる
食物は
「ガ」だったか
雨は
「ゲ」だったか
火は
父は娘をおかし
息子は妹をおかし
母は
男たちはうなりつづける
女たちはうなりつづける
耳なりのような時間
いざりの男が
ほら穴にうちつけた跡が
数
になるまで
零を発見したのは
女のよりつかぬ
教師づらした
くされ男だったか
あらそう男たちの手で
あしをもがれた女が
ある日
音のつらなり
を発しはじめた
男たちは頭をかかえ
女たちはふるえはじめる
女たちのひとりが
いざりの女に灰をふりかけ
女たちは走りより
男たちはおずおずと
手に手に石をもって
その女を
なぶりころした
風である
火で湯をわかし
湯からわきあがる風が
宇宙であるゆぶたをはためかす
ア
オ
ウ
ガ
ギャ
ゲェ
そのとき
「海」
は
まだ何者でもなかった
ア
オ
電話がなる
電話がなる
電話がなる
電話よなれ
電話よなれ
電話よなれ
電話よなれ
神は女に箱をわたした
あけてはならないその箱を
男はあけた
ペストの街を
男たちは大またであるく
女たちはよごれた川を見ながら大声でわめく
少年は
巨人国にまよいこんだような
めまいにおそわれる
大女にとりつかれた小男が
詩を書く
頭のなかにつまった
ハエがうるさい
詩をいくら書いても
ハエはうるさくなるばかりだ
詩のなかを
男たちがよぎる
女たちがよぎる
恋がよぎる
戦争がよぎる
権力がよぎる
歴史がよぎる
血がよぎる
笑いがよぎる
悲しみがよぎる
調和がよぎる
ハエは
気がつくと
三十数箇の台本となり
そこから
男たち
女たちは
のっそりと身をおこし
現代にむかってあるきはじめる
男たちはまだ熱いガスだった
女たちはまだ熱い鍋だった
台本から身をおこした
男たち女たちは
熱いガスであり鍋である男たち女たちの
頭をこじあけ
影のようにひゅるりと身をよじらせ
脳髄に焼き印した
コレガ
人間
ダ
神は女に箱をわたした
あけてはならないその箱を
男はあけた
霧の街から
男が
くしゃみをしながら帰ってくる
漢字とかなと横文字の
花火のような街へ
頭のなかにすみついた
霧のなかへ
男は何度も身を投げる
このおちてゆくからだのおもさは私だ
このいきぐるしさは私だ
このもとめるこころは私だ
このめまいは私だ
このにがさは私だ
このさけびは私だ
男は
霧のなかに家を建てる
家族は
どこかみな
男に似ている
男は
霧のなかの家と
地上の家を
行ったりきたりする
大女のとりしきる
地上の家には
青年たちがやってくる
どこか似ている青年たちは
それぞれに
もう
ワタシ
である
青年たちは
男の家を出て
ワタシ
を売りあるく
神は女に箱をわたした
あけてはならないその箱を
男はあけた
遠くに
シュプレヒコールがきこえる街で
男は
キャンバスに硫酸をたらす
これが
私の
言わば
絵
です
シュプレヒコールがきこえる
男は部屋をひもでしばる
男は洗濯バサミをまきちらす
男は壁という壁に影をかきつける
男は扇風機を新聞紙でつつむ
男は山手線に火をつける
これは
絵でも
小説でも
作品でも
芸術でもないかもしれません
しかし
これは
まぎれもなく
ひとつの直接性なのです
男は年をとり
ひげをはやす
男は
海辺にこしかけ
スケッチをしている
青年たちが数人
岩壁に体をおしつけ
フジツボになる夢をみている
少年がひとり
空を見上げている
僕はさけんでいる
僕はさけんでいる
しかしそのさけびは
この世界にすむひとたち
誰ひとり
聞きとれないさけびだ
僕は
このさけびを
この世界にすむひとたちに
聞きとれるようにしなくてはいけない
神は女に箱をわたした
あけてはならないその箱を
男はあけた
箱から
無数の
言葉が
とびちった
病気
ぬすみ
ねたみ
うらみ
ころし
おかし
奴隷
人間
鏡
私
言葉は
羽虫となってとび
羽虫は
花火となって
花火は
灰となって
きらきらとふりつもり
街はひかる墓となり
まぶしさのなかで
目
という目がつぶれる
蛆がわき
さびついた
箱の底には
希望
という言葉がこびりついているが
もはや
それは誰にも読めない
神は女に箱をわたした
あけてはならないその箱を
男はあけた
私は
箱をあける
少年は
箱をあける
騒々しい沈黙の
どうどうめぐりから出ていくために
私は
箱をあける
少年は
箱をあける
羽虫のもうもうとまうなかを
声
蛆虫よりもはやくとべ
錆よりもはやくこわれろ
千年
二千年の
さよならの
くちづけ
を
*「宇宙であるゆぶた」(2ヶ所)の「ゆぶた」に傍点あり。ゆぶた(湯蓋)は古式の祭で
大湯釜の上の天井に吊るされる飾りで、神々の宿る所とされる